「私はここにいます。」

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全国の「伊達直人」についてカント哲学的に考えてみた。



 あらかじめ断っておくと、私はマイケル・サンデル教授の著作を2冊ばかり読んだだけのずぶの素人なので、質問やツッコミはお手柔らかにお願いします。
 最近のニュースを騒がせているのは、タイガーマスクの中の人の名前である「伊達直人」などの名前で、児童養護施設にランドセルなどをこっそり寄付する人達です。
 多くの人が彼らに拍手喝采を送る一方、違和感や疑問を感じる人も少なくないかと思います。
 ではこの違和感や疑問の正体が何か、カントの道徳哲学を元に考察してみようと思います。
 カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、結果ではなく動機が決めると説いています。
 恵まれない子供達にランドセルを贈るのは、恵まれない子供達もランドセルを背負って登校するのが正しい、という動機に基づいて贈るのであれば、道徳的に正しい、という事になると思います。
 ですが、テレビに取り上げられると嬉しいから、というのはもちろん、ランドセルを使ってもらえると嬉しいから、というのも道徳的には正しくない、という事になると思います。
 カント哲学は道徳的に正しい、という事に対してかなり厳しいので、感覚的に受け入れがたい気がしますが。
 ただ、道徳的に正しいというのは賞賛に値する、という意味で、道徳的に正しくないとしても、やってはいけないという意味ではないという事を理解して下さい。
 では一番最初に「伊達直人」としてランドセルを贈った人はどうでしょう?
 テレビに取り上げられるとは思っていなかっただろうから、その動機は考えられない、という事になります。
 最初の「伊達直人」をテレビで見て、マネをしてランドセルを贈る人はどうでしょう?
 少なくとも匿名でランドセルを贈ればテレビで取り上げられる事を知っているのですから、それが動機であれば道徳的に正しいとは言えません。
 では全国の「伊達直人」達を誉める人、ニュースに取り上げるマスコミはどうでしょう?
 「恵まれない子供達にランドセルを贈る」という道徳的価値に直接は寄与していないし、むしろ「テレビで取り上げられると嬉しい」という道徳的に正しくない動機を助長していると言えるのではないでしょうか。
 色々考えて思うのは、ここに善意はあるのか? という事です。
 「恵まれない子供達」に目を向けず、「伊達直人」達ばかりに目が向いている気がします。
 善意でランドセルを贈る俺はなんて良い奴なんだ。
 ランドセルを贈る人達がいる日本は捨てたもんじゃない。
 ランドセルをもらった「恵まれない子供達」から感謝されて当然だ。
 「恵まれない子供達」をダシにして、そんな自己満足に浸りたいだけじゃないのか?
 そんな気持ちは微塵もないと、言い切れる人はそれでいいと思います。
 ですがふとした拍子に相手のための善意の贈り物が自分のためになってしまわないよう、自分を戒めなくてはいけないのではないでしょうか?
 ランドセルを贈る事が、「恵まれない子供達」のためにできる一番良い方法なのか?
 ランドセルを贈るだけで満足していて良いのか?
 他にできる事は何もないのか?
 「恵まれない子供達」が本当に必要としている事はなんなのか?
 彼らの言葉に耳を傾ける事なく、一方的にプレゼントを贈る事が正しいのか?
 彼らの気持ちや意見を全く無視するなら、彼らの尊厳と自分の善意を著しく貶める事にならないか?
 自分の心にそう問いかける事をしないのなら、結局は善意の押し付けにしかならないのです。

 でわでわ。
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