守護者−Gardian−
第1章「家出娘と夕食を」
「あなたがアリオス君かな?」
馴れ馴れしい女の声がして、俺は顔を上げた。
確かにその時の俺はまだ、そんな風に子供扱いされる年齢だった。
顔を上げた先に立っているのは、ショートの金髪の女だった。
この酒場ではウェイトレスか魔法使いでなければ女であっても鎧を着ているのが普通のである。
しかしその女は活動的な服装ではあったが、およそ防具といえるような物は何も身に付けていない。
勝ち気な笑顔が印象的だった。
「アリオスは僕だけど……僕に何か用かな?」
「あなたがあの『銀光のアリオス』?」
そうだよ、と俺がうなずくと、女は子供のように無邪気に笑って喜んだ。
「ああっ! 良かった! 私ね、ずっとあなたの事を探していたのよ!」
そして女は断りもせずに俺の隣の席に腰を下ろす。
さらに酒と料理まで注文する。
「で、僕に何の用?」
あまりいい予感はしない。
その頃の俺はまだ若いながら、すでに名の知れたトレジャーハンターだった。
しかも多くの同業者が数人のパーティを組んで行動するのに対し、俺は一匹狼のトレジャーハンターである。
その俺を探していたという事は、やはりその腕を見込んでの事だろうが……。
「その前に、自己紹介」
女はそう言って、わざわざ俺に身体を向けてから言った。
「私はセリーナ。職業は学者……の卵、かな?」
「アリオス様〜〜〜っっっ!」
酒場のカウンターでジョッキを揺らしていた俺は、突然の声に危うく吹き出しそうになった。
椅子から腰を浮かせて酒場の入り口を見ると、軽装の鎧を着た若い女が立っている。
いかにもお嬢様然としたストレートの金髪とその服装は、明らかに不似合いだった。
確かに見覚えのある、その顔は……。
「アリオス様っ! 探しましたわっ!」
女……というよりは少女といった方が相応しい年齢だが……は走り寄ってきて抱き付いてくる。
「待てっ! まずは待てっ!」
「アリオス様……どうしたんですか? わたくしの事、忘れてしまわれたんですか?」
慌てて少女を引き剥がす俺と、目に涙をためて訴えてくる少女。
ああ、忘れてたわけじゃない。
はっきりと思い出している。
四年前、隊商が盗賊に襲われている場面に出くわし、助けた事があった。
腕を見込まれてそのまま護衛を務め、無事に目的地の街に送り届けた。
その後、隊商を率いていたラルヴァという商人に気に入られて、ひと月ほど商人の屋敷に滞在する事になった。
その商人の一人娘で、滞在している間、トレジャーハンターの話を聞かせたのが……。
「……フェリア、だよな? ラルヴァさんのところの」
「はい♪ 思い出していただけましたか?」
ニコニコと嬉しそうなフェリア。
……だけど本当は裕福な商人の一人娘のフェリア。
こんな格好で、こんな所にいるべき人ではないのだが……。
「わたくし、実は家出してきたんですよ」
俺の心の声を聞いたように、フェリアが言う。
「どうしてもトレジャーハンターになりたいんです! アリオス様の弟子にして下さい!」
真剣な目で訴えてくるフェリア。
「いいわけないだろ!」
「ど、どうしてですか!?」
俺が叫ぶように否定すると、フェリアは目に涙をためる。
「だってお前……お父さんが心配してるんじゃないか?」
「うっ……あんな理解のないお父様なんか知りませんわ」
そう口では言うが、泣きそうな目のフェリア。
フェリアとラルヴァさん、仲良しだったからなあ。
お互いに大切な相手なのに、簡単には譲れないってところなんだろう。
「それに! アリオス様、わたくしの家にいた時、いつも楽しそうにトレジャーハンターの話をしていたじゃありませんか」
「うっ……」
確かに、やけに俺に懐いて付きまとってくるフェリアにトレジャーハンターの話をして、世間知らずのお嬢様が些細な事でもいちいち大げさに驚くのが楽しかったけど……。
「それで、もうちょっと大きくなったら、一緒にトレジャーハンターやろうって言ってくれたじゃありませんか!」
「それは絶対に言ってない!」
俺が力一杯否定した時だった。
叫び声の語尾をかき消すように、またしても酒場の入り口のドアが乱暴な音を立てて開いた。
「お前がアリオスだな!?」
「お嬢様を返せ!」
入ってきたのは数人の傭兵らしい男達。
その中に見知った顔はない。
しかしその口ぶりから、彼らの任務はすぐに知れた。
「おいっ、俺は別に……」
弁解しようとして、さっきまで隣にいたはずのフェリアがいない事に気付く。
「あいつ……」
はめられた。
これで奴らの単純な頭の中では、俺はフェリアを連れ去った男だと決め付けられる。
最初からフェリアはそれを狙っていたのだ。
「さあ! 早くお嬢様の居場所を言え!」
傭兵達は剣を抜き、脅してくる。
「……こっちの方が教えてもらいたいくらいだよ」
俺は小さく毒づく。
その声が聞こえたのか聞こえないのか。
「言わないなら腕ずくで聞き出すまでだ!」
叫び、斬りかかってくる。
俺は身体を反らして攻撃をかわすと、膝で男の剣を持つ手を蹴り上げる。
宙に浮いた剣を空中で掴むと、そのまま剣の柄を男の首筋に打ち付ける。
男は気を失って倒れ、俺は剣を手にして残りの男達と対峙する。
俺の実力を侮っていたのだろうか?
多人数でかかれば勝てると踏んでいたのだろうか?
さすがに仲間が一人、あっさりと剣を奪われて倒される様を見ては、認識を改めざるをえなかったのだろう。
俺を半包囲してじりじりと間合いを詰めながら、一斉に斬りかかるタイミングを見計らっている。
こいつら全員をぶちのめすのは簡単だ。
しかしそうしたところでもっと腕利きの傭兵を送ってくるだけだろう。
そうなると……。
俺はいきなり奴らに背を向けた。
半ば反射的に斬りかかろうとする傭兵達。
俺は背中を向けたまま剣を投げる。
床に突き立った剣に気を取られて、奴らが一瞬足を止める様子を見届ける事もなく、俺は酒場の裏口から夜の闇に飛び出していった。
町外れの夜の森を走る。
追ってくる気配がなくなってしばらく経つ。
少し先に気配を感じて足を止める。
「アリオス様〜〜〜っ! こっちですよ〜〜〜」
聞こえてくる脳天気な声に、俺はため息をつきたくなった。
少し先で焚き火に当たってるフェリアの元に歩いていく。
「えへへ♪ アリオス様を待ってたんですよ♪」
「……俺の事をはめたくせに」
「え? えっと……な、何の事でしょう?」
「とぼけても無駄だぞ」
あさっての方向を向いて作り笑いを浮かべて……バレバレだっつーの。
「傭兵どもを連れ込んで一緒にいるところを見せて、お前を連れ去った犯人だと思わせる……最初からそのつもりだったんだろ?」
「………」
「お前がが家に戻らない限り、俺まで傭兵どもに追われる事になる。
だから俺はフェリアを家に戻すために努力しなくちゃいけない。
そういう風に仕組んだんだろう? お前が」
「う……」
言葉を詰まらせるフェリア。
やれやれと頭を振る俺。
こうなったからには、フェリアを捕まえて傭兵達に差し出して、奴らが食いっぱぐれないようにすれば、俺も余計なお荷物を背負わなくてもいいわけだが……。
考えてみる。
いくら急な事で油断していたとはいえ、こいつはこの俺を出し抜いたんだ。
なかなかどうして、大したタマじゃないか。
ただのお嬢様だと思ってたが……考えを改めた方がいいようだ。
「フェリア、どうしてもトレジャーハンターになりたいか?」
「え? ……あっ、はいっ! もちろんですわっ!」
「今までの裕福な暮らしを捨てて、それでもやり遂げる決意はあるか?」
「は、はいっ!」
「それなら……一度だけ簡単な遺跡に連れてってやる」
「ほ、本当ですか!?」
「その代わり!」
俺は強い声で言った。
フェリアは驚いて身体をすくませている。
「無事に遺跡から帰ってきたら、一度、ラルヴァさんの所に帰れ」
「ど、どうしてですか?」
「お前なあ、このまま一度も実の父親に顔も見せないつもりか?」
「うっ……」
「だから遺跡を出たら、きちんとラルヴァさんの許可をもらってこい。説得するにしても、何も知らないよりはいいだろ?」
「アリオス様……そこまでわたくしの事を考えていたんですね……」
感激して瞳を潤ませているフェリア。
もちろん、俺の考えている事は別にある。
現実はそんなに甘くない。
最初の遺跡でフェリアは音を上げるかも知れない。
それに意気揚々とラルヴァさんのところに帰ったとしても、説得できるとは限らないのだから。
「それじゃ行くか。焚き火を消して付いてこい」
「は〜い♪」
俺の内心を知らず、フェリアは元気に返事をする。
「でもでもアリオス様? どちらへ行くんですか?」
「さっきの酒場」
「お父様が差し向けた傭兵達に見付かりませんか?」
「大丈夫。一度見付かって逃げた場所に戻ってくるなんて普通は思わないからな」
「うわっ、さすがアリオス様です!」
……本当は二階の宿に荷物を置いたままだから、取りに戻らないわけにはいかなかったりする。
感動しているフェリアには悪いけど。
「学者?」
「そ、学者」
俺が鸚鵡返しに聞き返すと、セリーナと名乗る女は笑顔で答えた。
俺達、トレジャーハンターは遺跡から古代王国の遺物を探し出し、王侯貴族や大商人などの好事家に売り払うのが生業である。
それに対し、古代王国の遺跡や遺物を研究するのが学者の生業である。
当然、トレジャーハンターとも関わりは少なくない。
時にトレジャーハンターの商品の買い手として。
時に遺跡の探索に同行する者として。
一方でトラブルも少なくない。
根本的に両者は価値観が違う。
トレジャーハンターにすれば貴重な物ほど高く売り飛ばしたいし、学者にすればそういう物ほど手許に残しておきたい。
学者が相応の対価を払う財力を持っていれば問題はないが、そういう事は滅多になく、発掘品を巡るトラブルは少なくない。
「まずはこの地図を見てもらいたいんだけど」
セリーナは古びた一枚の紙を差し出す。
受け取って、目を走らせて……。
「……西の森の遺跡?」
「そ。さすがアリオス君」
セリーナはそう言うが、その声には本気で感心した様子はない。
よく地図を見る。
確かに西の森の遺跡に間違いない。
その通路も広間の位置関係も、多くのトレジャーハンターが探検し尽くし、俺自身も何度も足を運んだ西の森の遺跡に間違いない。
しかし……よく見ると西の森の形が現在の物とは違う。
そしてそもそも……どうしてこんな根本的な違いに気付かなかったのだろう!
この地図に記された文字は、俺達が日常会話に使っている帝国公用語ではない!
古代王国の文字で書かれているじゃないか!
「そうか……これは古代王国時代の地図か!」
「ご名答!」
ようやくセリーナが感心した声を上げる。
大陸からこの島に移民団……俺達のご先祖様が移り住む以前、この島には古代王国と呼ばれる国があったという。
この古代王国は現在の我々よりはるかに進んだ文明を築いていたと言われるが、今ではいくつかの遺跡を残して姿を消してしまっている。
遺跡からはいくつかの書物が見付かる事もあるが、それらの多くは歴史書で、地図は見付かっていないと聞いている。
本物だとすれば、貴重な発見だ。
俺は改めて地図をじっくりと観察する。
しかし……。
「残念だな……この地図からは新しい発見はなさそうだね」
「そうなのよ……でもね」
セリーナは別の紙を差し出し、俺はそれを受け取った。
目を通す。
場所は……北にあるドラゴンが住むという火山の麓の……。
「そこまで!」
「あっ!」
セリーナが地図を取り上げ、俺は思わず声を上げてしまった。
しかしひとつだけわかった事がある。
あの地図に記されている場所は……。
「まだ見付かっていない遺跡……」
「さすがはアリオス君ね」
セリーナはからかうような笑みを浮かべる。
胸の鼓動が高鳴り、俺が興奮している事を伝える。
未発見の遺跡!
古代王国の遺跡の多くは広大で、一度で探索しきれる物ではない。
複数のトレジャーハンターのパーティが何度も遺跡に足を運び、それでもなお調べ尽くせる物ではない。
結局、多くのトレジャーハンターは、すでに誰かが一度は探索した遺跡を探索するだけで生涯を終える。
未踏の遺跡は、それだけでトレジャーハンターの胸を躍らせる。
「それでね、いよいよ本題に入るわよ」
セリーナは人差し指を立てて言う。
「君は私と一緒に遺跡に入る。あとは私をある場所まで連れて行ってくれれば、発見した物はみんな君にあげる」
「……それだけでいいのか?」
「そう。私は地図を提供する。君は私を守る。それで私は私にとって最も重要な物を手に入れ、君はそれ以外の全てを手に入れる」
「………」
「どう? 釣り合いが取れてると思わない?」
「………」
「で、君の答えはどうなの?」
俺は……。
いいのか? このまま簡単に引き受けてしまって。
セリーナの言葉に裏はないか?
命を落としてから後悔しても遅いんだぞ。
わかってるのか? アリオス?
……いいや。
未踏の遺跡。
その言葉を聞いても引き下がるような奴はトレジャーハンターじゃない。
もしセリーナが俺をはめようとしているのなら……俺を甘く見た事を、地獄の底で後悔させてやればいい。
答えは決まった。
そして。
それが俺とセリーナの出会いだった。
俺はフェリアを連れて酒場に戻ってきた。
空いたテーブルを見付けて席に着くと、すぐにウェイトレスがやってきた。
適当に酒と料理を注文する。
「それともう一部屋、取ってくれるか?」
言うまでもなく、フェリアの分の部屋である。
「あら? 一緒の部屋じゃないの?」
ウェイトレスは俺とフェリアを見比べて言う。
フェリアはぶーっと子供っぽく頬をふくらませて俺を見ている。
「バカ。こいつはただの……俺の生徒だよ」
「ふ〜ん、そうなんだ……わかった。部屋、取っておくわ」
ウェイトレスはそう言って、顔を近付けてくる。
「じゃあ仕事が終わった後にアリオスの部屋に行ったら、二人っきりになれるって事かしら?」
フェリアの眉がみるみる吊り上がっていく。
なかなかわかりやすくて楽しい表情だ。
さすがに、そろそろからかい過ぎかな?
「バカ言ってないで早く仕事に戻れ。マスターに怒られるぞ」
「は〜い」
生返事をして、ウェイトレスは離れていく。
「じゃ、また後でね♪」
と、捨て台詞も忘れない。
やれやれ、とため息をついてフェリアに視線を戻すと、まだ凶悪な表情で俺を睨み付けている。
「本気にするなって。からかってるだけなんだから」
「……本当ですか?」
「本当だよ」
などと二人で話していると。
「おう、アリオスじゃねえか。珍しいな」
野太い声がかけられる。
振り返ると、鎧に身を包んだ筋骨隆々の男が立っていた。
「ダインか。久しぶりだな」
ダインはいわゆるひとつの同業者という奴だ。
酒場で情報交換する相手の一人である。
「で、アリオス。このお嬢ちゃんは?」
「子供扱いしないで下さい! わたくしだって十八になったんですっ!」
お嬢ちゃん、という呼び方にカチンと来たのか、怒り出すフェリア。
しかしダインの方は落ち着いたもので。
「お嬢ちゃん、大人か子供かっていうのは年齢で区別するもんじゃない。自分の役割を果たせるかどうかで決まるんだ」
「………」
フェリアが黙り込む。
さすがに自分が家出中の押しかけ弟子だという自覚はあるらしい。
十八っていうと……そっか、俺が一人前のトレジャーハンターになって、一人で遺跡の探索に出るようになった年だな。
「で、アリオス。この子は?」
ダインは改めて聞き直してくる。
「昔、世話になった人の娘さんだ。トレジャーハンター志望なんだとさ」
「ふ〜ん」
「ダイン、ひとつ相談に乗ってくれるか?」
「おう。なんだ?」
「ここから遠くないところで、それほど難しくない遺跡ってどこだろう?」
「……この子を連れて行くのか?」
「ああ」
「そうだな……東の湖のほとりの遺跡。あそこがいいだろう」
「やっぱりそこしかないか」
「ああ。出てくるモンスターにも大した物はいないし、誰も入っていない場所も結構残ってる。初心者には最適だ」
「よし、東の湖のほとり。そこに決めよう」
「………」
しかしダインは浮かない表情になった。
「ちえっ、アリオスは先約済みか」
「どうした? 俺に用事でもあったのか?」
「いや、実はな……北の火山の洞窟に行く事になったんだよ。それでアリオスも一緒に来て欲しかったんだけどなあ」
「北の……火山……」
未だ噴煙を上げ続ける北の火山にある洞窟の、そのまた奥の方から入っていくという、条件の悪い場所にある遺跡である。
見付かったのも二、三年前と新しく、ほとんど手付かずの状態だが、挑戦したトレジャーハンターが誰一人として戻ってこない、最も難易度の高い遺跡として知られている。
それに挑戦するという事は、自分が一流のトレジャーハンターだという自負の表われである。
「……ダインも北の火山に挑戦するのか」
「ああ……心配するなって。充分な装備も調えたし、メンバーだってベテラン揃いだ……アリオスが来てくれないのが残念だけどな」
「そうか、悪かったな。で、いつ出発するんだ?」
「急だけどな。今夜、もうしばらくしたら出発する」
「……気を付けろよ。北の火山の遺跡は、どれだけ気を付けても足りないという事はないはずだ」
「わかってるよ。お互いに気を付けようや……アリオスだって初心者を連れて行くんだからな」
「ああ」
そして俺達はしばらく酒を酌み交わした。
まもなくフェリアがうとうとし始めたので、それを機にささやかな酒宴はお開きになった。
「だけど……結構な荷物になったわねえ」
セリーナがため息混じりに言った。
俺とセリーナの前には一頭立ての馬車がある。
これから向かう北の火山の遺跡は、この町から歩いて三日ほどの行程になる。
途中に村や集落はなく、せいぜい猟師の小屋があるくらいだ。
そして遺跡自体も広大で、探索には長い時間がかかる事が予想された。
手持ちの保存食がなくなる度に町まで戻っては、いつまで経っても探索は終わらない。
そこで食糧をたくさん買い込み、馬車で運んで遺跡の入り口に置いておく事にした。
「で、いつ出発するの?」
「今夜にでも」
「今夜? 急ねえ」
「仕方ないさ。これだけ食糧を買い込めば噂が広がるよ。後を付けられて遺跡を知られたら、何かと面倒になるからね」
「そうね。でも……」
「でも?」
「まるで夜逃げみたい」
くすくすと笑うセリーナ。
「夜逃げ、か……何から逃げ出すんだろうね?」
「このつまらない社会から、素晴らしき古代王国の世界へ」
「ははは……それはいいね」
冗談めかして言うセリーナに合わせて、俺も笑った。
夜の森には冷たい風が吹いていた。
木の上で身を縮めている俺にとって、風は俺の立てる物音と匂いを運び去ってくれるありがたい存在だった。
時折、風は不安定なバランスを崩そうとするが、それは些細な問題である。
ただひとつ、俺の良心の呵責も運び去ってくれれば、言う事はないのだが。
俺の眼下では五人の男が焚き火を囲んでいる。
近くの木に繋いだ二頭立ての馬車は、彼らの物だろう。
男達はそれぞれ毛布にくるまって眠っているが、ただ一人、剣を抱いて見張りをしている男がいる。
そしてその男の名はダインといった。
そろそろ見張りの交替の時間。
歴戦の勇者であっても、緊張が弛むのを禁じ得ない時間だ。
何度目かのイメージトレーニングが終わり……俺は体勢を傾け、樹上から飛び降りる。
狙い通り、俺の身体は焚き火のすぐ近くに降り立った。
「なっ……!」
ダインが短く毒づき、腰の剣を引き抜く。
それより一瞬早く剣を抜いた俺の攻撃を辛うじて受け止めたのは、ダインの腕があったからだ。
並みの戦士では今の一撃だけでケリが付いていたところである。
しかし続く第二撃には間に合わなかった。
俺の曲刀はダインの肘の関節の部分を浅く切り裂く。
もう一人、ダインの仲間には戦士がいる。
こいつはまだダインの声を聞いて身体を起こしたところだった。
枕元の剣を取り、引き抜こうとする手首を浅く切り裂く。
残りの三人は魔法使いなど、剣を使えない連中だけだ。
手を出す必要はない。
俺は左手で焚き火の中から火の付いた薪を一本拾い上げ、地面を蹴る。
再び着地したのは、奴らの馬車の目の前。
木に繋いだ手綱と、馬と馬車を繋ぐロープを断ち切る。
そして馬の尻に火の付いた薪を近付けると、馬は痛々しいいななきの声を上げて、デタラメな方向に走り去っていく。
呆気に取られている奴らを尻目に、俺も地面を蹴って走り去った。
宿屋の二階に取った部屋に戻り、俺はようやく一息ついた。
過重労働に抗議するように、心臓は早い鼓動を打っていたが、それも徐々に静まっていく。
それでも胸の痛みは治まらない。
原因が心臓の鼓動ではなく、良心の呵責にあるからだ。
俺はたった今、ダインとその仲間を傷付けた。
しかしそれは彼らを守るためでもある。
慎重なダインの事だ。
出発したばかりであれだけのアクシデントに遭遇すれば、きっと今回の遺跡の探索を諦めてくれるだろう。
彼らを傷付けた事には胸が痛む。
そしていつまでもこんな事を続けなくてはいけない事には、絶望に近い憤りがある。
しかしそれは彼らを守るためでもある。
彼らを北の火山の遺跡に近付けてはならない。
北の火山の遺跡に入って、無事に帰ってこれるわけがないのだから。
そして……彼らを傷付けさせてはならないから。
それが俺にできる、ただひとつの事……。
ようやく心臓の鼓動が収まった。
冷静さが戻ってくる。
そうだ。
俺はこんな事をやっている場合じゃない。
また別のトレジャーハンターが北の火山の遺跡を目指さないとは限らない。
世間知らずのお嬢様の、トレジャーハンターになるなどという砂糖菓子より甘い絵空事に付き合っている場合じゃないんだ。
心は決まった。
腰に提げたナイフを抜き、刃を確認してから鞘に戻す。
足音を忍ばせて部屋を出た。
すぐ隣、フェリアの部屋の前に立つと、ポケットから小さな針金を取り出す。
ドアの前にしゃがみ込み、鍵穴に針金を差し込んで軽く動かすと、鍵は簡単に開いた。
遺跡の中にある扉や宝箱の鍵に比べると、宿屋のドアの鍵など、あってもなくても同じだ。
軋んで音を立てないように注意を払いながらドアを開ける。
部屋の中は真っ暗だったが、辛うじて大体の様子はわかる。
ベッドの辺りからはフェリアの寝息も聞こえる。
足音を忍ばせながら近付いていく。
ベッドの上にはフェリアの無邪気な寝顔があった。
自分の未来を信じて疑わない、純真な心そのままの寝顔。
だけどな、フェリア。
現実はいつだって厳しいんだ。
夢は叶うとは限らない。
幸せな日々は返ってこない。
いくら後悔しても過去は決して取り戻せない。
銀光のアリオスなんておだてられたって、できない事は山ほどある。
そしてできない事に限って、本当にやらなくちゃいけない事なんだ。
俺は腰のナイフを引き抜く。
フェリアの身体にまたがり、ナイフを首筋に押し付ける。
その事をこれから、お前に教えてやるよ……。
ナイフの銀光が、暗い室内でまぶしく光る。
軽く息を吸い込む。
「フェリア……起きろ……」
小さな声だったが、それでもフェリアは目を覚ます。
う〜ん、と可愛らしいうめき声を上げ、目を開いた。
「……アリオス……様?」
「これが何かわかるか? わかるなら、動いたり声を出したりしない方がいい事もわかるな?」
「アリオス様……」
フェリアの声が微かに震えている。
その事に気付いて胸が痛む。
だけど……今はそれに耐えて、心を鬼にしなくちゃいけない。
再び開こうとした俺の口を、思いもかけないフェリアの言葉が塞ぐ。
「アリオス様……優しく……して下さいね……」
「………」
ぼかっ。
「うわっ、いきなり殴るなんてひどいですわっ」
「うるさいっ! 状況をわきまえてから口を開けっ!」
「だから……わたくし、抵抗なんてしませんから、ナイフなんていりませんわ」
「………」
ぼかぼかっ。
「うわっ、二発連続で殴るなんてひどいですわっ」
「もう知らん!」
俺はナイフをしまうと、部屋を出て行った。
ドアが閉まる直前、フェリアが不思議そうにつぶやく声が聞こえてくる。
「アリオス様……夜ばいじゃなかったら、何をしに来たんでしょう?」
……俺の方が聞きたいよ、本当に。
俺が御者をする隣で、セリーナが寝息を立てている。
わざわざ大枚をはたいて馬車を用意したもうひとつの理由は、俺より体力が劣るセリーナの負担を少しでも軽くする事だった。
だから、その安らかな寝顔を見て心が和むのは許されるが、人が御者をやっている横で居眠りするとは失礼な奴、などと思ってはいけない。
まあ、死と背中合わせの危険な遺跡に潜り込む前に、ささやかながら穏やかな時間を過ごすのも悪くない。
ふと、思う。
俺達二人……十八歳のトレジャーハンターの俺と、確かめてはいないが俺より二つか三つ年上の学者の女……は他人の目からどう見られるだろう?
姉弟?
恋人同士?
大荷物を載せた馬車に乗る姿は、それこそ夜逃げ夫婦か駆け落ちカップルに見えるかも知れない。
それから、ふと気付く。
どうしてセリーナは、こんなに無邪気な顔で眠っていられるのだろう?
セリーナを脅すなり殺すなりすれば、簡単に地図を手に入れる事ができる立場に、俺はあるのだ。
余計なお荷物もなく、未踏の北の火山の遺跡を探索できるのだ。
もちろん、セリーナが俺との契約を破ろうとしない限り、そんな事をするつもりはない。
俺はその事を知っているが、セリーナはその事を知らない。
どうしてセリーナは俺の事をそんなにも信じていられるのだろう?
数日前に出会ったばかりの、名声ばかりが一人歩きしているただの若造の俺なのに。
そして……。
セリーナは北の火山の遺跡の、どこへ行きたいのだろう?
何度聞いてみてもからかうように笑うだけで、何も教えてくれない……。
守護者−Gardian−第1章「家出娘と夕食を」 了
第2章「東の湖の遺跡」へ続く
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