二人の英雄・第2部「フィルスーン解放軍編」

第4話「決意と別離と」

 アークザットらの使う天幕に呼び出され、緊張に身体を硬くしているシェリナの前に差し出されたのは、一通の書状だった。
 手に取るまでもなく、誰からの物かわかった。
 鷹獅子騎士団に属する騎士の一人でしかないシェリナに手紙を送る用事があるのも、またエルラザ帝国政府の使者に個人的に手紙を託せるのも、彼女の祖父くらいしかいない。
 そして厳格な祖父の用事も、自ずと推測できた。
「王都に帰ってこい、という事だ」
 アークザットが短く言った。
 シェリナが封を切って文面に目を走らせると、予想通り、良い縁談があるから王都に帰ってこい、という事が書いてあった。
 書状の封を開けるまでもなく、アークザットが大方の内容を知っているのは、アークザット宛にも軍の辞令が届いているからだろう。
 武門の家系であるシェリナの祖父が、シェリナを鷹獅子騎士団の任務から外すよう、軍の上層部に働きかけたに違いない。
 その書状も同じ使者が持ってきているはずだ。
「アークザット様……」
 シェリナが鷹獅子騎士団に入団してから二年余り、家名に、また自分の矜持にも恥じないよう、少女の身には辛い任務にも耐えてきたつもりだった。
 しかしその努力は未だ実を結んでいない。
 下っ端の騎士として鷹獅子騎士団に入団したシェリナは、今でも下っ端の騎士のままだった。
 このまま任務を解かれて、悔しくないはずがない。
 シェリナの気持ちを察してか、アークザットも暗い表情を浮かべている。
 しかしその口から出てきた言葉は素っ気ない物だった。
「準備が終わり次第、鷹獅子騎士団を離れるように。話はそれだけだ」
「………」
 シェリナの気持ちは察していても、アークザットにもその立場上、どうにもならない事だった。
 小さな声で「……はい」と返事をして、シェリナは唇を噛んで天幕を後にした。

 普通なら、喜んでいい話に違いない。
 昼は疲れた身体を重い鎧に包み、返り血と埃にまみれ、戦場を這いずり回るよりは。
 夜は寒空の下、背中に死神の息吹を感じながら、薄い毛布にくるまって意識を夜の闇に沈めるように眠るよりは。
 煌びやかな王宮で、優雅なドレスに身を包み、命の危険を感じる事もなく、温かい豪華な食事を与えられる生活を送る方が。
 ほんの二年前まで自分も、そんな平民には羨望の的でしかない生活を当たり前に享受する、貴族の娘の一人であった。
 ……ただし、厳格な祖父が剣の稽古をつける以外は。
 だけど……。
 シェリナは思う。
 今さらそんな生活に戻れるのだろうか?
 騎士としての生活は確かに辛い。
 鷹獅子騎士団に入団してからしばらくは、望むように結果を出せない自分に落胆し、優しくしてくれる人は多くても自分の居場所じゃないように感じ、貴族の娘に戻りたい気持ちと、逃げたくないプライドで、葛藤する毎日だった。
 それがいつか、充実しているように思えてきた。
 自分達には守るべき物がある。
 出世できなくても、誰かから賞賛されるような事はなくても、結果は確かにそこにあった。
 自分が血を流し、ようやく勝ち得た、名も知らぬ人の幸せな暮らしと笑顔。
 それでいい。
 それだけでいい。
 そして何年か後に自分の歩んできた道を顧みて、少しも恥じる事がないような生き方さえ貫ければ……。
「よお、元気か?」
 突然、陽気な声がかかった。
 シェリナがびっくりして飛び上がり、振り返ると、そこには鷹獅子騎士団の副将の一人、レイバートの姿があった。
「レ、レイバート様……」
「あ、悪い、びっくりさせちまったか?」
「い、いえ、大丈夫です……」
 シェリナはそう答えるが、手は大きく脈を打つ左胸を押さえていた。
「これからは気を付ける……ところで、王都に帰る事になったんだってな」
「はい……レイバート様にはお世話になりました」
「………」
 頭を下げるシェリナを、レイバートは黙って見ていた。
 レイバートの真剣な顔と目が合い、シェリナが怪訝な表情を浮かべると、レイバートは口を開いた。
「……鷹獅子騎士団の次の敵が決まった」
「………」
 もう鷹獅子騎士団を離れる事が決まっているシェリナにそれを明かす事は、機密漏洩に当たる事だった。
 しかしレイバートは続ける。
「相手は巨竜騎士団を破って名を上げ、急速に勢力を拡大している反乱軍だ」
 シェリナも噂くらいは知っていた。
 エルラザ帝国が誇る四つの騎士団と、それを束ねる将軍。
 これまで戦場での一騎打ちで討ち取られた事のなかった将軍が討ち取られた事で、エルラザ帝国軍の威光は地に落ち、その反乱軍の名は近隣に知れ渡った。
 その反乱軍の名は……。
「フィルスーン解放軍……」
 その名はシェリナにとってもレイバートにとっても、特別な意味を持っていた。
 彼らにとって共通の知人、ラティスが鷹獅子騎士団から離れたのは、フィルスーン解放軍が撤退した後の村に伝令に向かい、そのまま帰ってこなかった。
「……あくまで噂だが、巨竜騎士団のバーンスタイン将軍を討ち取ったのは、鷹獅子騎士団の鎧を着た若い男だったらしい」
「………」
「で、どうする?」
「どうする……とは?」
「鷹獅子騎士団には三万の将兵がいる。アークザットの目の届かない場所くらい、いくらでもあるさ。
 なあに、心配する事はないさ。ウェインの協力も取り付けている。奴は悪知恵が働くから、大船に乗ったつもりでいればいいさ」
「………」
「まあ、考えておいてくれ。そういう選択肢もある」
 レイバートはぽんぽんとシェリナの肩を叩いて、去っていった。
 その背中を見送り、シェリナは思う。
 自分とそれほど年の変わらない、平民出身の少年のラティス。
 にも関わらず、アークザットのお気に入りで一番近くにいるようになって、最初はそれが妬ましく、冷たい態度をとったりもした。
 そんな自分の事を嫌ってもおかしくないのに、彼は優しく笑って、辛抱強く側にいて、守ってくれた。
 今になって思う。
 辛くて辛くて、逃げ出したくて仕方がなかった鷹獅子騎士団での戦いの日々。
 それがいつか、意義のある物に思えるようになったのは、確かにラティスのおかげだった。
 ……ラティスに会いたい。
 シェリナの中に、確かにそういう気持ちが芽生え始めていた。
 遠く離れた今になって、素直になれなかった事が悔やまれる。
 ラティスの事が好きなのだろうか?
 それはわからない。
 ラティスに会って、鷹獅子騎士団に連れ戻したいのか?
 それとも一緒にフィルスーン解放軍で戦いたいのか?
 それともそれ以外の選択肢があるのだろうか?
 それさえこの不器用な少女にはわからなかった。
 こんな気持ちは初めてで、恋と呼ぶべきかどうかさえわからない。
 だけど今、確かに思う。
 ……ラティスに会いたい。
 そして自分の気持ちを確かめたい。
 それがシェリナにとって、唯一確かな気持ちだった。

「……鷹獅子騎士団が来ます」
「………」
 フォルトはいつになく重い口調でそう言った。
 その言葉を受け止めたのは、ラティスとカルロスとブリンナーの三人。
 そして三人は一様に沈黙で応えた。
 「来る」という単語が文字通り、移動する、という意味でない事がわからない三人ではない。
 帝国軍最強を謳われる鷹獅子騎士団と、彼らフィルスーン解放軍との決戦が避けられない、という意味だった。
「確かな情報なんですか?」
 最初に口を開いたのはカルロスだった。
「ええ、複数の筋からの情報なので間違いないと思います」
 返ってきた答えは、予想通りの物だった。
 何よりも、鷹獅子騎士団にはフィルスーン解放軍を野放しにできない理由があった。
 エルラザ帝国軍の一翼を担う巨竜騎士団を壊滅させ、バーンスタイン将軍を討ち取ったのはフィルスーン解放軍だった。
 フィルスーン解放軍の声望は高まり、共に戦おうという者、あるいは守ってもらおうという者が各地から集まり、急成長を続けている。
 一方でエルラザ帝国軍の名声は地に落ちた。
 巷では、もはや帝国軍は脅威ではない、昔日の帝国全土を掌握する力はもはや失われた、という声さえ上がるようになった。
 帝国軍最強と名高い鷹獅子騎士団も例外ではない。
 それどころか巨竜騎士団が壊滅の憂き目を見たエステー川の戦いに先立って、フィルスーン解放軍を取り逃がしたのは、他でもない鷹獅子騎士団であった。
 あの時、鷹獅子騎士団がフィルスーン解放軍を逃がしさえしなければ、という無責任な非難の声が上がるのはどうしようもなかった。
 そして汚名を返上し、昔日の栄光を取り戻すには、その剣をもってフィルスーン解放軍を討つ以外に方法はない。
「……どうも今回の情報は、鷹獅子騎士団が故意に広めたような気がして」
 フィルスーン解放軍を討つ、と宣言した後、正々堂々と戦場で雌雄を決する。
 そうでなければ汚名を雪ぐ事などできない。
 鷹獅子騎士団を率いるアークザット将軍の固い決意が明快に伝わってきた。
「……戦っても勝ち目はない」
 重くつぶやいたのは、ブリンナーだった。
 巷でどのような噂が流れようと、当の本人達は彼我の実力差をわきまえていた。
 フィルスーン解放軍の兵力は、二万にまで膨れ上がった。
 エステー川の戦いの頃とは比べるべくもないが、訓練も実戦経験も不足していた。
 対する鷹獅子騎士団は、フィルスーン解放軍を大きく上回る三万。
 それも帝国軍最強の剣士と名高いアークザット将軍以下、いずれ劣らぬ精鋭揃いである。
 エステー川の戦いでの輝かしい戦果は、偶然の上に偶然が重なった、奇跡がもたらした結果だ。
 充分な兵力と緻密な戦略を用いて、手に入れるべく手に入れた物では、決してないのだ。
 そして、以前のように戦わずして逃げ出す、という選択肢もあり得なかった。
 フィルスーン解放軍は戦える者も戦えない者も、人数的に膨れ上がっており、以前のように小回りの利く集団ではなくなっていた。
 それにエルラザ帝国の打倒を望んで集まってきた人々の期待に背く事になってしまうし、急成長するフィルスーン解放軍を見逃してくれる鷹獅子騎士団とも思えなかった。
「鷹獅子騎士団はまだ遠い所にいるから、考える時間はたっぷりあるようです。まずは近くの反乱軍に協力を呼びかけて……それからですね」
 とりあえず今日のところは解散、そう言って、フォルトは席を立つように促した。
 まずはカルロスとブリンナーが立ち上がり、少し遅れてラティスが立ち上がりかけて、止まった。
「……あの、フォルトさん」
「何ですか?」
「鷹獅子騎士団と戦う事になったのは、僕がバーンスタイン将軍を討ち取ったからですか?」
「………」
 ラティスの言葉に、フォルトは少し考えてから答えた。
「確かに結果的にはそういう事になるかも知れませんが……あの混戦の中で、ラティス君が精一杯がんばった結果なんですから。気に病む事はありませんよ」
「だけど……」
「それに、こうして私達が話し合えるのも、あの時のラティス君の活躍があったからこそだと思いますから」
「フォルトさん……」
「ほら、笑って。そんな顔してると、リアナちゃんとルティーナ君が心配しますよ?」
 そう言ってフォルトはぽんと肩を叩いて、ラティスを送り出した。

「あ〜っ、もう! またそんな顔してる!」
「えっ?」
 ラティスが我に返ると、リアナが腰に手を当てて、頬をぷんぷんと可愛らしく膨らませている。
 鷹獅子騎士団の接近を告げられてから数日が過ぎた。
 あれ以来、ラティスは塞ぎ込む事が多くなり、その度にリアナはぷんぷんと頬を膨らませていた。
「ああ、ごめんごめん」
 だけど謝りながら髪をぐしゃぐしゃに撫でてやると、リアナはくすぐったそうな笑顔に戻る。
「ねえ、お兄ちゃん」
 リアナが真っ直ぐに見上げてくる。
「お兄ちゃんはお姉ちゃんの事、好き?」
「………」
「………」
 ラティスは返答に窮した。
 視線を向けると、向こうで皿を洗っていたルティーナの手が止まっている。
 ……残念ながら、助け船は来ないらしい。
「そうだな……リアナと同じくらい好き……かな?」
「ふ〜ん」
 皿を洗う音が再開する。
 無難に選んだラティスの答えは、どうやらルティーナを納得させる事に成功したらしい。
「じゃあお兄ちゃんはお姉ちゃんと結婚したいの?」
「………」
 盛大に皿と皿とがぶつかり合う音が聞こえてきた。
「こら! リアナ!」
 大きな足音を立てて、ルティーナが二人の方に向かってくる。
「お姉ちゃんと結婚したら、ずっとお兄ちゃんと一緒にいられるのになあ……」
「………」
「………」
 寂しそうに言うリアナに、ラティスもルティーナも何も言えなかった。
 ……どこにも行かないよ。
 そう簡単に言えるはずもないラティスだった。
 まして鷹獅子騎士団が近付いている今日の情勢を考えれば。
 にわかに三人が黙り込み、窓を叩く雨音がいやに大きく聞こえた。
「……雨、強くなってきたな」
「もう雨期だから。これから雨が多くなるわよ」
 雨音は優しくて……三人が離れ離れにならないよう、閉じ込めてくれるように思えた。

「……結局、協力してくれる反乱軍はひとつもありませんでした」
 二週間ほどが過ぎて、ラティスらを前にそう切り出したフォルトの、顔は落胆の色を隠せなかった。
 それでもその声が落ち着いていたのは、最初からあまり期待していなかったせいだった。
 巨竜騎士団を打ち破って以来、急成長するフィルスーン解放軍は、他の反乱勢力から疎まれるようになっていた。
 鷹獅子騎士団に睨まれるようになっても、それ見た事か、という気持ちだろう。
 下手に助け船を出して、一緒に痛い目に遭っても意味がない。
 それならフィルスーン解放軍を生け贄に差し出して、自らの安泰を図りたいところだろう。
 同じ帝国軍を相手にする以上、協力して事に当たるべきだとラティスは思うのだが。
「……一応、アイデアはあります」
 ラティスの自信なさげな切り出しに、残りの三人は飛び付いた。
 興味津々の態で、ラティスを見つめる。
「正直、作戦と言っていいのか分かりませんが……」
「それでも構いませんよ。教えて下さい」
「はい……鷹獅子騎士団はレイクウッドの森の……この林道を抜けてくると思います」
 フィルスーン解放軍が森の中にいる以上、侵攻ルートは自ずと限られる。
 ラティスが地図の上を指でなぞったのは、この四人が様々な角度から検討して、最も確実とされたルートだった。
「そこで夜襲を仕掛けます」
 森の中の隘路である。
 鷹獅子騎士団の戦列は細く、長くなり、統率を取るのは難しくなる。
「しかし相手はあのアークザット将軍だ。夜襲くらい警戒しているんじゃないか?」
「今は雨期です。うまく雨が降ってくれれば、こちらの行軍の音は雨音が消してくれます」
「確かに夜襲自体はうまくいくかも知れない。しかし兵力、兵の質、共に落ちる我々が勝てるのか?」
「雨の中の行軍で鷹獅子騎士団は疲弊していると思います。それに軽騎兵が中心ですから、雨が続けば地面はぬかるみ、その力は発揮できません」
「………」
 視線は自ずと沈黙を守っているフォルトに注がれる。
 それまで目をつぶって三人の話し合いを聞いていたフォルトが口を開く。
「……それで、勝てると思いますか?」
「………」
「夜襲が完全にうまくいって、地面がぬかるんでいて、それだけで、この兵力差、兵の質、実戦経験……覆せると思いますか?」
「無理です」
 ラティスは即答した。
「だから、最初から勝てないつもりで戦うしかありません」
「どういう事ですか?」
「兵を分けます」
「分ける?」
「はい。希望者を募り、一万五千と五千に分けます」
 一万五千が夜襲をかける部隊、五千が残って女性や子供などの非戦闘員を逃がす役目を果たす。
「夜襲をかける一万五千は、死にに行く部隊です。全滅するまで戦い、鷹獅子騎士団に壊滅的な損害を与えます」
 目的はただひとつ。
 鷹獅子騎士団の力を奪い、残った女性や子供に手出しできなくする事。
 そのために、まさに命を捨てる。
「うまくいかなかったらどうなる? 残りの兵力はわずか五千だぞ」
「兵力がわずかになれば、鷹獅子騎士団にも警戒する理由がなくなります。降伏してもいいし、あるいは他の反乱勢力に身を寄せてもいいと思います」
「………」
 しばらくフォルトは黙って考え込んでいたが、やがて重い口を開く。
「……他にいい方法もなさそうですね」
 その沈んだ口調からも、積極的に賛成しかねる思いが伝わってきた。
 発案者であるラティスも同じ思いだった。
 好き好んで玉砕したい人間なんているはずもない。
 勝てる物なら勝ちたい。
 とても作戦と言えるような代物ではなかった。
 しかし圧倒的な力の差を思えば、引き分けに持ち込むだけでも虫のいい話なのかも知れない。
 ……それからフォルトが最終的に決定を下すには、もうしばらく時間がかかった。

 しばらく詳細を詰める話し合いをした後、解散となった。
 一人歩くラティスの背中に声がかけられる。
「おい、ラティス。お前まで行く気じゃないだろうな?」
「え?」
 振り返ると、カルロスとブリンナーが厳しい表情で立っていた。
「……そのつもりですけど」
「行くな。お前は残れ」
 そう言ったのはカルロスだったが、ブリンナーが一歩進み出て、言葉を繋ぐ。
「ここにいる三人が行ったら、誰が残ったフォルトさんを支える?」
「この作戦を考えたのは僕です。死にに行くような作戦を立てた本人が残って、さあ死んでこいなんて無責任です。
 カルロスさんかブリンナーさんが残るべきだと思います」
「フィルスーン解放軍は俺とカルロスが手塩にかけて育て上げた、我が子のような存在だ。無責任にできないのは、俺たちも同じだ」
「………」
「フォルトさんと残った五千の兵と、女子供と……守り、導いていくのはお前の方が相応しい。若いお前に未来を託したいんだ」
「………」
 ラティスは無言だった。
 しかし肯定の言葉がなかった事で、ブリンナーは首を振った。
 カルロスの肩をぽんと叩いて、去っていった。
「……お前がいなくなったら、ルティーナはどうなる?」
 一歩進み出たカルロスの口からは、意外な人物の名前が出てきた。
「俺とルティーナはフィルスーン解放軍ができる前からの知り合いで……俺はずっとあいつに惚れていた。だけど……」
 カルロスはラティスの肩をぐっと掴む。
「あいつが好きなのは俺じゃなくて、お前なんだ! ルティーナを託せるのはお前だけなんだよ!」
「………」
「フォルトさんやフィルスーン解放軍には誰だっていい。だけどお前がいなくなったら、誰がルティーナを幸せにしてやるんだよ!」
「………」
「だから……考えておいてくれ」
 そう言ってカルロスは去っていった。
 小さくなっていく背中を見送って、ラティスはただ立ち尽くしていた。

 その日の夜、ラティスはベッドに潜り込んではみたものの、頭の中では様々な言葉が入り乱れて、目が冴えて眠れそうになかった。
 戦う事、守る事。
 両者は同じ物だと、ずっと思ってきた。
 しかしそれは今、別々の物として、ラティスの目の前に立ち塞がっている。
 道は戦って切り開く物だと思ってきた。
 だけど戦わない先にしかない道というのも、確かに存在しているのだ……。
 その時、誰かがラティスの肩を揺さぶった。
「……ラティス、起きて」
 ルティーナだった。
「ちょっといい?」
「いいけど……」
「リアナが起きないように、静かにね」

 夜空一面に深い群青が広がり、幾億の星々が埋め尽くしている。
 広場のすぐ近くの木の根本に座り、二人は夜空を見上げていた。
 そっと、ルティーナが口を開いた。
「行っておいでよ」
「え?」
「もうすぐ鷹獅子騎士団との戦いがあるんでしょう?」
「どうしてそれを……」
「カルロスに頼まれたの。あなたを引き留めてくれって」
「………」
「でも……」
 ルティーナは寂しそうに首を振る。
「本当は行きたいんでしょう? ずっと側にいた私には分かる。ラティスは真っ直ぐな人だから。ずっと憧れてた人なんでしょ? 逃げ出すなんて、できるはずないもの」
「ルティーナ……」
 本当は知っていた。
 何が正しくて、正しくないのか。
 ブリンナーが言った。
 この先、フィルスーン解放軍の未来を託すのに相応しいのが誰か。
 僕しかいないと。
 それは正しい。
 カルロスも言っていた。
 ルティーナを幸せにしてやれるのは誰か。
 僕だ。
 僕以外、誰にもできない事なんだと。
 そしてそれもきっと正しい。
 本当は分かっている。
 僕が残るべきなんだ。
 僕が残って、フィルスーン解放軍の未来と、ルティーナの幸せとを守っていく。
 それが正しい、ただひとつの道なんだと。
 だけどひとつ、気付いた事がある。
 自分は戦いたいんだ。
 心は求めている。
 魂は強く惹かれている。
 子供の頃から憧れ続けたアークザットの前から、逃げ出しちゃいけないと。
 逃げ出したら、きっと後悔する。
 この先、ルティーナと共に平穏な暮らしを手に入れたとしても、遠い昔に貫き通せなかった思いがある事は、いつまでも針で刺すように心の片隅を責め続けるだろう。
 前髪の先から爪の先まで、ラティスという人間の身体の隅から隅までもが叫んでいる。
 逃げるな。
 進め、戦え、と。
 いつしかルティーナの頬には涙の雫が伝っていた。
 そっと指を伸ばして、それを拭う。
「ごめん、ルティーナ」
 そう言った時、心の中から迷いは消えていた。
 自分が進もうとしている道は決して正しくない。
 フィルスーン解放軍の未来を見捨てて、大切な人を傷付けて、それが正しい道であるはずがない。
 だけど自分にはこの道しかない。
 この道を選ぶしかないのだ。
「……死んだお母さんが言ってた。いい女は好きな男が自分の道を進もうとするのを、引き留めちゃいけないって」
 ルティーナの身体が寄り添ってくる。
「だから……抱いて」
 ラティスの手を掴んで、柔らかな胸のふくらみに押し付ける。
 手を引こうとしたラティスだったが、ルティーナの手は思いの外しっかりと掴んでいて、できなかった。
「もう二度と会えないなら……せめてラティスの温もりを私の身体に刻み込んで。永遠にラティスの思い出を忘れられないようにして」
「ルティーナ……」
 そしてもうひとつ、気付いた事がある。
 自分にとって、ルティーナがどれだけ大切な存在になっていたかを。
 あの夜、燃えさかる村から助け出してからずっと、ルティーナとリアナを守り続けていると思っていた。
 だけど本当は違う。
 黄昏色に燃え上がる夜空の下、道を間違えそうになっていた自分を導いてくれたのはルティーナだった。
 憧れのアークザットと別の道を歩む事になって、悩み、迷っていた自分を支えてくれたのは、いつも明るく笑って側にいてくれた、ルティーナの存在だった。
 守っているつもりだったけど、救われているのは自分の方だった。
 だから……。
 そっとルティーナの手を振り解く。
 今度はあっさりと手が離れた。
 空いた手で、ルティーナをそっと抱き寄せる。
「……帰るから」
 声を搾り出すように、言った。
「必ず、生きて帰るから。ずっと一緒にいるから。もう二度とこんな思いはさせないから。だから……」
 ルティーナが顔を上げる。
 その瞳に映るラティスの顔は、涙でぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「……待ってるから」
 震える声。
「私、待ってるから。ずっと待ってるから。いつまでも待ってるから。だから……」
 それ以上、ラティスはルティーナに続けさせなかった。
 叶わない約束だと、二人とも知っていた。
 知っていて口にしたラティスと、知っていて信じたルティーナと……。
 二人が初めて重ねた唇は、優しく、温かくて……涙の味がした。

「……エルラザ帝国軍でも最強と言われる、アークザット将軍が率いる鷹獅子騎士団が迫ってきています。
 敵は兵力も多く、精兵が揃っています。
 近くの反乱勢力にも協力を要請しましたが、良い返事は得られず、目下、単独で強敵と戦わざるを得ません。
 言葉を飾らず、包み隠さずに申し上げます。
 我々フィルスーン解放軍は、これまでにない存亡の危機に立たされています……」
 決して力強くはないが、明朗でわかりやすいフォルトの言葉が、広場に集まった一同の心に染み渡っていく。
 フィルスーン解放軍の全員が集められ、これまで隠してきた情報が明らかにされた。
 演説をしているフォルトの脇に控えているのは、カルロスとブリンナーと、そしてラティスの三人。
 三人が三人とも自分が行くと言って最後まで折れず、結局はフォルトが匙を投げ出す格好になった。
「……鷹獅子騎士団に対抗するために、決死隊を募る事にしました。
 その兵力はフィルスーン解放軍の過半を占め、残った女性や子供、老人などを逃がすため、命をなげうって戦う事になります。
 恐らくこの戦いで、大半の者が命を落とす事でしょう。
 ですがその貴い犠牲は決して無駄にはなりません。
 残った者達の将来の礎となるのです……」
 フォルトの演説が決死隊について触れると、あちこちからすすり泣きや嗚咽の声が聞こえてくる。
 ラティスは群衆の中にルティーナの姿を見付けた。
 泣き出したい気持ちは他の誰にも劣らないはずなのに、気丈にも背筋を真っ直ぐに伸ばして、泣きじゃくっているリアナの身体を抱いている。
 目が合った事に気付くと、ラティスに優しく微笑みかけてきた。
「……ですが残った者も決して楽に生きていけるわけではありません。
 鷹獅子騎士団以外にもエルラザ帝国軍は存在しますし、か弱い者を狙う野盗の類も数多くいるのです。
 幾多の苦難が待ち受けている事でしょう
 そして何よりも自分達のために犠牲になった者の事を胸に深く刻み付け、その犠牲が無駄にならないよう、強く生きていく義務があるのです。
 もう一度、ここに宣言します。
 戦いに赴く者達の尊い犠牲は、決して無駄にならない事を。
 犠牲になった者の事を忘れずに生きていく事は、戦いで犠牲になる事と同じくらい辛く、そして険しい道なのです……」
 今になって、ラティスは思う。
 あの日、ラティスが鷹獅子騎士団を離れるきっかけになった、あの夜。
 無人の村を焼き払う事を命じたアークザット。
 彼はあの時、負けたのではないのだろうか?
 長い戦いの日々に疲れ果て、自分の正義と信念を貫き通す強さを、最後まで持ち得なかったのではないのだろうか……?
 それでも、この胸にはアークザットの雄姿が焼き付いている。
 幼い日、故郷の村を救ってくれた、あの雄姿が。
 ……今も尊敬しています、アークザット様。
 だから、僕は決して逃げない。
 この戦いから逃げたりしない。
 あなたの前から逃げたりはしない。

二人の英雄「決意と別離と」 了
第5話「二人の英雄」へ続く


あとがき

 ど〜も、wen-liです。
 「決意と別離と」いかがだったでしょうか。
 感動の大団円(予定)まであと一息!
 という事で、今回は戦いがなかったりで地味な展開。
 でも見所は意外に多いかも。
 長らく続いてきた「二人の英雄」も次回で最終回!
 ……のつもりだったけど、外伝もう一話追加かも。
 とにかく乞う! ご期待!

 でわでわ。


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