二人の英雄 第1部・鷹獅子騎士団編
第3話「英雄達の戦場」
シャルバサートにほど近い平野にエルラザ帝国に敵対する勢力が布陣してから、二週間近くが過ぎた。
そして今日も反乱勢力の主要なメンバーが集まって軍議が行なわれていた。
「……とにかくこれ以上、鷹獅子騎士団とのにらみ合いを長引かせる訳にはいかんのだ」
そう厳かな口調で言ったのは、カルリーク候であった。
総勢五万を誇る反乱勢力の内、最大の二万を率いる人物である。
彼の遠い父祖はこの近くに拠点を構える地方勢力の首領だったが、エルラザ帝国による大陸統一の際に降服し、以来、エルラザ帝国から侯爵の地位を与えられた貴族になった。
しかし現在のエルラザ帝国の支配力の低下に乗じて、独立勢力になった。
エルラザ帝国に反旗を翻した事は、彼にとって先祖返りといえる事なのだが……。
「そんな事は侯爵殿に言われるまでもなくわかっている」
仏頂面で言ったのはワークリフト。
元はエルラザ帝国のとある地方貴族に仕える一介の騎士だったが、同じく騎士だった友人の陰謀により、騎士の資格を剥奪されてしまった。
腐り切ったエルラザ帝国の惨状に胸を痛めていた彼は、これを機に自分の祖国を完全に見限ってしまった。
彼と同じようにエルラザ帝国に不満を持つ多くの騎士に離反を勧め、近隣の野盗と結び付き、義勇軍を組織し、戦いを重ね、ついにかつての自分の忠誠の対象だった貴族を打ち倒し、自らが領主の地位に収まったのである。
かつて地位も名誉も失い、自らの知略と剣技だけを頼りに反乱を決意したワークリフトだったが、今は総勢一万五千の兵を率いる立場にある。
「確かに我々の軍隊を合わせれば、鷹獅子騎士団の兵力より勝る。しかしそれ以外の何もかも負けているのだ」
ワークリフトに同意するように言ったのはヴィルレイン。
とある地方貴族に仕える近衛騎士だったヴィルレインだったが、自分の仕える貴族が遊蕩に耽るようになり、これを討った。
そして空いた地位に自ら収まったのである。
ヴィルレインの討った貴族に仕えていた一万五千の兵力が、ほとんどそのまま彼に仕えている。
「何もかも……というと?」
カルリーク候は問い返す。
「指揮官の実績と名声、軍隊の練度と経験、そして……」
「統一された指揮系統」
ワークリフトの言葉を遮るように言ったのは、ヴィルレインだった。
そもそも彼ら三人は、この一体の支配権を巡ってしのぎを削る間柄である。
それが今は鷹獅子騎士団という驚異の前に、一時的に協力する事にしただけに過ぎない。
昨日までお互いに剣を向け合っていた手を、今日からは取り合って別の敵と戦うというのは、理性の上では必要な事だと知っていても、感情の上では納得し得ない事だった。
特に深刻だったのは、ワークリフトとヴィルレインの、カルリーク候に対する強い不信感だった。
カルリーク候はこの三人の中で唯一の生まれついての貴族であり、ただの騎士の生まれで、率いる兵力も少ない二人を見下し、自らが上位の立場にあると信じて、尊大な態度を取りがちであった。
しかしワークリフトとヴィルレインにとって最もお笑い種だったのは、カルリークが未だに「侯爵」を名乗っている事だった。
侯爵位は当然、エルラザ帝国から与えられた地位である。
地位をくれた相手に反旗を翻しながら、与えられた地位を名乗り続け、それ故の優位を信じる……本末転倒のまたとない見本だった。
カルリーク候が今でも一地方勢力として支配権を握っていられるのは、その部下に自分がいないからだと固く信じる、ワークリフトとヴィルレインだった。
もしワークリフトとヴィルレインのいずれかがカルリーク候に仕える身であったら、彼らがカルリーク候の首を取って反旗を翻していたに違いない。
しかしそれ以上に深刻な相互不信の原因は彼ら自身にあった。
彼らが最も理想的として思い描くシナリオは、自分以外の二つの勢力と鷹獅子騎士団がぶつかり合い、相討ちになる事だった。
一方で最悪とするシナリオは、自分自身が鷹獅子騎士団と相討ちになり、別の勢力が漁夫の利を得る事。
それ以外に、ワークリフトとヴィルレインにとっては絶対に避けなければならないシナリオがあるのだが……。
そして今日も、軍議は不毛な腹の探り合いだけで始終し、お互いの胸の中にわだかまりだけを残すのだった。
「そろそろ潮時ですね」
鷹獅子騎士団の陣営の一角にある大型の天幕開かれた軍議は、ウェインのその一言だった。
軍議に参加しているのは四人。
一人は鷹獅子騎士団の将軍である、アークザット。
あとは副将である、レイバート、ウェイン、ノークトの三人。
天幕の中にはあと一人、ラティスがいたが、彼はアークザットの従者という身分であり、軍議に参加できる立場ではなかった。
「そうだな……にらみ合いが始まってもうすぐ二週間……これ以上、長引かせるわけにはいかんな」
これ以上のにらみ合いは、鷹獅子騎士団にとって好ましい物ではない。
こうして彼らがにらみ合っている間にも、別な場所では別の反乱勢力が戦いを繰り広げているのだ。
いつまでもここで無為な時間を過ごしているわけにはいかない。
しかしいくつかの事情から、二週間に渡るにらみ合いの時間が必要になったのだ。
「そうですね、これもレイバートとラティス君のおかげですね」
ウェインが言う。
鷹獅子騎士団の後背に位置するシャルバサート。
シャルバサートの軍隊に後背を脅かされるのを恐れるが故の、にらみ合いだった。
しかしレイバートやラティスの活躍により、その恐れもなくなった。
鷹獅子騎士団はシャルバサートを気にする事なく、目の前の反乱勢力を相手にする事ができるようになったのだ。
しかしその間、アークザットらが時間を持て余していたかというと、そんな事はない。
反乱勢力との決定的な衝突を避けるという仕事があった。
レイバートがその事について話を聞きたがると、ウェインはにやりと笑って答える。
「いえ、利用できる物を使わせてもらっただけですよ」
ウェインが使ったのは、シャルバサートの錫杖だった。
反乱勢力のそれぞれの陣営に、偽の密書が手に落ちるように仕向けたのである。
その内容は、反乱勢力が鷹獅子騎士団を打ち破った後の仮定の話である。
「鷹獅子騎士団を蹴散らした後、その勢いでワークリフトめも滅ぼし、その次はシャルバサートを攻め落としましょう。その際、シャルバサートの錫杖は貴殿に差し上げます」
という内容の文書をワークリフトの陣営に、カルリークとヴィルレインにはそれぞれの陣営向けに書き換えた文書を、という風にである。
もともと協調心に欠け、お互いに疑惑の視線を向け合っていた連中である。
この作戦により、彼らはお互いを警戒して、お互いの動きを制限してしまったのである。
「でも作戦はこれだけじゃありません」
彼らの疑心暗鬼をより深刻にするために。
そしてまた決定的な衝突を避けるという鷹獅子騎士団の当面の目標を悟られないためには、かえって様子見程度の小さな衝突を起こした方がいい。
そのために、鷹獅子騎士団は三度に渡って夜襲をかけた。
いずれも小規模な物で、ある程度の騒ぎを起こしたところで撤退している。
「さてラティス君。ここでひとつ問題です」
急に話を向けられて、ラティスは心臓が飛び出るかと思った。
今までずっと聞き役に徹していて、自分に話が向けられるとは思っていなかったのである。
「三回の夜襲……どういう風にしたと思いますか?」
「………」
わざわざ聞いてくるくらいだから、三つの陣営に一度ずつの夜襲をしかける、という事はないだろう。
だとしたら……相互不信と疑心暗鬼をより深めるためには……。
「敵の三つの陣営の内、ひとつには一度も夜襲をかけなかったと思います」
「そうですね。正解です」
ウェインはにっこりと笑う。
最初の夜襲はワークリフトの陣営に、二度目はヴィルレインの陣営に、そして三度目の夜襲はワークリフトとヴィルレインのそれぞれの陣営に同時に。
自分達の陣営は夜襲の被害を受けたのに、カルリーク候の陣営だけが無傷である。
そうなれば、カルリーク候は鷹獅子騎士団と結び付いているのではないか? という疑惑が生まれるのは当然である。
ましてカルリーク候は、ワークリフトとヴィルレインから信用がなく、そして尊大な性格で相手に譲るという事を知らない男である。
三者の溝は一日ごとに深まっている事だろう。
そして三度の夜襲のもうひとつの目的。
それは鷹獅子騎士団の側にも、打つ手がないと思わせる事である。
緒戦から反乱勢力が苦戦したり大きな被害を受けたりすれば、もともと不協和音の集合体のような軍隊も、一致団結して鷹獅子騎士団に臨むかも知れない。
あくまでも膠着状態と思わせて……反乱勢力の相互不信を大した問題と思わせずにいなくてはならないのだ。
だけど……。
「準備は整った。そろそろ決着をつけるべきだろう」
アークザットが言う。
何気ない口調だったが、その一言だけで天幕の中の空気が引き締まったようだった。
いくら疑心暗鬼に捕らわれた軍隊とはいえ、敵軍は総勢五万。
正面から戦えば、鷹獅子騎士団の不利は否めない。
もし勝てたとしても、多大な被害を被る事は間違いない。
しかしそれではいけないのだ。
もしこの戦争で勝てたとしても、別な土地で次の反乱勢力との戦いが待っている。
鷹獅子騎士団は戦い続け、勝ち続けなければならない。
そのためにはただ一度の辛勝も許されない。
圧勝に圧勝を重ね続け、次の戦いへの余力を残さなければならないのだ。
「各個撃破、ですね」
ウェインが短く言った。
敵の三つの勢力を、同時に相手にしてはならない。
それぞれの軍隊と順番に戦い、その間、他の軍隊に手出しをさせてはならない。
一度に相手にするのが一万五千ないし二万なら、三万を数える鷹獅子騎士団の方が圧倒的に有利に戦える。
それがアークザットと三人の副将に与えられた、当面の命題だった。
そしてそれを実現するための会議が始まった。
一時間ほどが過ぎて軍議が終わり、ラティスは天幕の外に出た。
軍議の間中、ずっと屈めたままだった背中を伸ばす。
それにしても……。
軍議の間、驚く事ばかりだった。
こちらより圧倒的に多い五万の軍隊をどうやって相手にするのか、ラティスはずっと心配で仕方がなかった。
アークザット将軍なら何とかするだろう、と確信してはいたのだが、具体的な作戦については何も思い付かなかった。
それなのに、アークザットと三人の副将は様々な意見をぶつけ合い、最終的には最も完璧と思える、ひとつの作戦案にたどり着いたのだった。
こんな時にも、自分の未熟さを思い知らされる。
いつか自分もアークザットのために作戦を提案できるようになるのだろうか?
差し当たり、今日の軍議で出た様々な提案を記憶に刻み付けておこう。
今回は採用されなかった案も、別の機会には役に立つかも知れない。
少し歩いたところで、ラティスはシェリナの姿を見付けた。
「お〜い、シェリナ〜!」
ラティスが手を振って呼び止める。
「ラティス……」
シェリナはゆっくりと顔を上げた。
「……ど、どうした? 私に何か用か?」
「いや、特に用事はないけど」
「そうか……あ、いや、別に用事がないと話しかけてはいけないとか、そういう事じゃないからな」
「あ……わかったよ」
「………」
「………」
何故だか二人とも黙ってしまう。
「あ、そうだ。シェリナ、何か嫌な事でもあった?」
「え?」
「さっきから暗い顔してた」
「……そんな事は……ない……と思う……のだが」
シェリナは歯切れの悪い返事をする。
確かにもともと愛想のあるタイプじゃないが……ついこの間まではもう少し明るい表情をしていたと思うのだが……。
「……あ、すまない。急に用事を思い出した」
「あ、そう……」
「それじゃあな、ラティス」
「ああ」
そしてシェリナは走り去っていった。
ラティスはシェリナの様子が変だと思いながら……大した事ではないだろうと思った。
何より彼自身、目の前の戦場の事で頭が一杯だったのだ。
ワークリフト軍の陣地に鷹獅子騎士団の奇襲があったのは、明け方近くの事だった。
最初は迎撃が遅れ、陣地の一角に侵入を許したものの、ワークリフト軍も歴戦の勇者揃いである。
すぐに組織だった抵抗が始まると、鷹獅子騎士団はろくな戦果を上げる事なく、すぐに兵を引いていった。
「……妙だな」
鷹獅子騎士団の退却が早かった事に、ワークリフトは疑問を抱いた。
追撃する事はできる。
しかしワークリフト軍の軽挙妄動を誘う事が鷹獅子騎士団の狙いであるように、ワークリフトには思えた。
思えば前にも何度か鷹獅子騎士団の夜襲があったが、その時にも鷹獅子騎士団はすぐに退却していった。
我が軍が調子に乗って追撃をしかけたところを、伏兵を用いて返り討ちにする。
そんなところだろう。
とにかく、ワークリフトは鷹獅子騎士団の陽動には引っかかるまいと、追撃は控え、陣地を固めるように指示を出した。
そして今の奇襲がワークリフトの読み通り、鷹獅子騎士団の陽動の一環である事は、後になってからわかる事になるのだが……。
慢性的な低血圧に毎朝悩まされるカルリーク候だったが、その朝は緊張を含んだ副官の声で目を覚ます事になった。
「どうした? 騒々しい」
「先ほど、ワークリフト軍の使者が来ました。鷹獅子騎士団の奇襲を受け、苦戦しているそうです」
「……ほう」
「それで我が軍には援軍を出してもらいたいという事ですが……」
「………」
低血圧のために脳の血の巡りは良くなかったが、それでもワークリフトは少し考え込んだ。
ここしばらくの鷹獅子騎士団との戦闘で、ワークリフトとヴィルレインの軍が夜襲を受けたのに、カルリーク軍だけが夜襲を受けなかった。
そのために、会議などで顔を合わせる度に、鷹獅子騎士団と内通しているのではないか、などと嫌味混じりに言われたものだが……。
いいだろう。
今回は小生意気なワークリフトに助け船を出してやる事にしよう。
いくら元は一介の騎士という低い身分の男でも、少しはこのカルリーク候の偉大さが身に染みる事だろう。
そして何より、反乱勢力全体としてワークリフト軍の兵力が必要なのだ。
「使者に伝えよ。このカルリーク候、友軍の危機を見て見ぬ振りは出来ない、とな」
「はっ」
副官はすぐに立ち去っていった。
ふうっとカルリーク候はひとつ息をつく。
まずは……低血圧の脳に鞭打って、鎧を着なくてはいけない。
気が重い事だったが、その分くらいはワークリフトに恩を着せなくては割に合わないと思った。
カルリーク軍がワークリフト軍の陣地にたどり着いた時、戦闘はすでに終わっていた。
むしろ鷹獅子騎士団の次の行動に目を光らせていたワークリフト軍が、何の前触れもなくやってきたカルリーク軍に臨戦態勢を取ったくらいだった。
何はともあれ、とうの昔に戦闘の終わった戦場で、奇襲を受けた軍隊の指揮官と救援に来た指揮官は顔を合わせる事になった。
「ワークリフト殿、ご無事で何よりだ」
白々しい態度で、カルリーク候は言った。
「さすがはワークリフト殿だ。独力で鷹獅子騎士団を追い返すとはな」
内心ではワークリフトに恩を着せる事ができなくて悔しい思いをしていたのだが、それは少しも表面には出さない。
しかしワークリフトはカルリークの表情からではなく、これまでの観察と経験からカルリークの内心を正確に洞察していた。
「カルリーク候こそわざわざご苦労な事だ……戦闘はとっくに終わった後だがな」
ワークリフトは棘のこもった言葉をぶつける。
「侯爵殿自らこんな所まで来たというのに、私に恩を着せる事ができなくて、さぞ残念な事でしょうな」
「な……」
隠していたつもりの心を正確に指摘され、カルリークは一瞬で顔を真っ赤に染めた。
「何を言う! そちらが援軍を求めてきたのではないか! わざわざ助けに来てやったというのに、何という言い草だ!」
「援軍? 何の話だ!? そんな物、頼んだ覚えはないぞ!」
「自分から助けを求めておいて、必要なくなったら忘れたフリか! これだから身分の低い者は……」
二人の口論は平行線のまましばらく続いた。
しかし二人の口論は、彼らの側近が予想していたよりも早く終わる事になる。
「ヴィルレイン軍、壊滅!」の報せが、彼らが鷹獅子騎士団の術中に陥った事に気付かせたからである。
同じ頃、ヴィルレイン軍は鷹獅子騎士団の猛攻を受けていた。
二度に渡って鷹獅子騎士団の夜襲を退けてきたヴィルレイン軍だったが、今度の鷹獅子騎士団の攻撃は、その時の物とはまるで違っていた。
鷹獅子騎士団は騎兵槍を並べて突撃を繰り返す。
その度に鷹獅子騎士団の騎兵槍と同じ数のヴィルレイン軍の兵士が命を落としていく。
そしてヴィルレインは自軍の前線の兵士が命を落とす度に、後方に控えた予備兵力を繰り出し、鷹獅子騎士団の突撃を防ぐ。
強い。
ヴィルレインは内心で舌を巻いていた。
鷹獅子騎士団の整然とした、そして確かな破壊力を持った突撃は、確実にヴィルレインの戦力を削ぎ落としていった。
兵士数でも兵士一人一人の練度でも劣るヴィルレイン軍では、隊列が崩れるのをかろうじて防ぎ、軍隊としての体裁を保ちながら、自軍の兵士が戦死していくのを指をくわえて見ているだけで精一杯だった。
しかしヴィルレインに勝算がなかったわけではなかった。
「みんな、何とか持ちこたえろ! もうすぐ援軍が来てくれるぞ!」
ヴィルレインは声の限りに部下の兵士を激励した。
鷹獅子騎士団との一対一の戦いであったら、もっと早く兵を退いていただろう。
しかし今はすぐ近くにカルリークとワークリフトの軍隊がいる。
もうしばらく持ちこたえられれば、カルリークかワークリフトの軍隊が鷹獅子騎士団の背後から襲いかかる事ができる。
鷹獅子騎士団にダメージを与えなくてもいい。
それまでは何としてでも隊列を維持して被害を最小限にとどめなくてはならない。
しかしヴィルレインは知る由もない。
近くに布陣していたカルリーク軍は鷹獅子騎士団が放った偽の使者に騙されて移動し、ヴィルレインが放った使者が息を切らせて駆け込んだ陣地には誰一人としていなかった事を。
そしてさらにヴィルレインの計算を狂わせる事が起きた。
ヴィルレイン軍の後方から現れた一団が攻撃を仕掛けてきたのである。
赤い巻き毛の指揮官自らが陣頭に立ったその一団は、人馬一体の奔流になってヴィルレイン軍に襲いかかる。
一団はまるでそれ自身が一本の騎兵槍のように、ヴィルレイン軍に突き刺さり、引き裂いていく。
予想外の方向からの攻撃に、ヴィルレイン軍は浮き足だった。
特に先頭の赤い巻き毛の騎士の剣技はすさまじく、剣を一振りする度に一人の兵士が倒れていき、まるでヴィルレイン軍が赤い巻き毛の騎士のために道を開けているようだった。
「ヴィルレイン!」
赤い巻き毛の騎士……レイバートはヴィルレイン軍の本陣にたどり着き、叫んだ。
レイバートの率いる別働隊はこれより少し前、ワークリフト軍に奇襲をかけてすぐに退いた後、そのままヴィルレイン軍の背後で様子をうかがっていた。
そしてヴィルレインはが正面の鷹獅子騎士団に後方の予備兵力を向け、本陣が手薄になるのを待って攻撃を仕掛けてきたのである。
ヴィルレインを守ろうと、数人の騎士がレイバートの前に立ち塞がる。
しかしレイバートはそれを物ともせずに蹴散らすと、ヴィルレインに肉薄していく。
ヴィルレインも剣を抜いた。
レイバートが剣を振り、ヴィルレインがそれを受け止める。
甲高い金属音。
剣を持つ手にしびれを感じながら、ヴィルレインはかろうじて受け止める事ができた。
続く二撃、三撃。
これもヴィルレインはかろうじて受け止める。
この間にもヴィルレインを守ろうと何人かの騎士がレイバートに襲いかかったが、いずれもレイバート自身か、あるいはレイバートの部下に阻まれた。
さらに四撃、五撃。
レイバートの攻撃は数を重ねる毎に鋭さを増していく。
ヴィルレインはひたすら防戦に回るしかなかった。
反撃したいのはやまやまだったが、レイバートは反撃の暇を与える事なく、次の攻撃を仕掛けてくる。
ヴィルレイン自身、剣の腕には自信があったが、一撃を受け止める度にその自信が砕けていく思いだった。
混戦の様相を見せ始めた戦場の一角に、一際甲高い金属音が響いた。
すでに幾度となくヴィルレインの命を救ってきた剣が、ついに半ばから折れてしまったのである。
ヴィルレインは死を意識した。
しかしとどめの一撃がヴィルレインの命を奪う事はなかった。
皮肉にも逃げ崩れるヴィルレイン軍の一隊が間に割って入り、二人を引き離してしまったのである。
何とか一命を取り留めたヴィルレインは退却する事を決意した。
ヴィルレイン軍はすでに軍隊としての秩序をなくして逃げ崩れながら、ただ鷹獅子騎士団に一方的に討たれるだけになっていた。
頼みの綱の援軍も来ない。
距離が近いカルリーク軍ならとっくに来ているはずの時間になっていたが、影も形も見えない。
勝算がなくなった以上、少しでも早く退いた方が賢明だろう……。
戦友の死体を回収するのもそこそこに、ヴィルレイン軍は退却していった。
つい昨晩までは一万五千の兵力だったのが、その三分の一を失っての惨敗だった。
退却していくヴィルレイン軍を、アークザットは追わなかった。
まだ鷹獅子騎士団はカルリーク候とワークリフトの軍隊を相手にせねばならず、敗残のヴィルレイン軍の相手をする余裕はなかった。
むしろその兵力を考えれば、これから相手にする軍隊の方が本番といえる。
「残り三万五千、か」
遠くにカルリーク候とワークリフトの軍隊が巻き上げる土煙を眺めながら、アークザットはつぶやいた。
その隣に控えているラティスにはその声がどこか嬉しそうに聞こえて、改めて自分の隣に立つ男の偉大さを感じる思いだった。
こちらは三万で、向こうは三万五千。
兵力的にはまだこちらの方が不利なのに、アークザットの表情は余裕に満ちている。
絶対に負けない。
鷹獅子騎士団は……いや、アークザットは、間違いなくこれから残りの反乱勢力も一掃するだろう。
自分自身の事以上に、ラティスは自信を持って言えた。
策にはまり、僚友のヴィルレイン軍を失ったカルリーク候とワークリフトの軍隊は、一直線に鷹獅子騎士団に向かってくる。
ヴィルレイン軍を失って初めて、彼らは鷹獅子騎士団に対して強い危機感を抱いた。
そして気に入らない者同士、初めて協力して共通の敵に対する事ができた。
「……だが、それは遅すぎた」
アークザットは隣に控えるラティスに言った。
二週間前、最初に鷹獅子騎士団に対した時、反乱勢力は敵軍の二倍近い兵力を持っていたのだ。
もしその時に彼らが個人のエゴを捨て、一致団結して共通の敵と戦えば、鷹獅子騎士団といえども苦戦は免れなかっただろう。
少なくとも鷹獅子騎士団にそれなりの打撃を与えて、上手くいけば双方痛み分けくらいには持っていけたかも知れない。
しかしその機会は永遠に失われたのだ。
彼らが友軍を疑い、少しでも友軍に先んじる事を画策している間に、その機会は失われたのだ。
怒りと危機感に背中を突き飛ばされるように、二つの軍隊は突き進んでいく。
それを迎え撃つ鷹獅子騎士団の先鋒は、ウェインとノークトの率いる部隊だった。
参謀としてのイメージが強いウェインだが、指揮官としても優秀で、攻撃と防御の切り替えの巧みさでは定評があった。
一方のノークトは防戦の上手さでは右に出る者はなく、自軍の戦列の弱い場所を見極め、予備兵力を投入して戦列を補強するのを得意としていた。
また普段は寡黙なノークトが口を開けば地鳴りのような大声が空気を揺るがし、味方を奮い立たせ、敵軍の士気を突き崩した。
長い距離を疾走してきたカルリーク候とワークリフトの軍隊は、今は勢いがあり、正面からぶつかれば多大な被害を免れない。
だからウェインとノークトは後退しながら、反乱勢力の鋭鋒を紙一重で避けた。
敵軍との距離が零になって戦いが始まれば、すぐに後退して距離を空ける。
兵力の薄くなった場所にはすかさず予備兵力を投入して戦力を補強し、敵軍が攻撃を仕掛けてくれば迎撃し、敵軍が様子を見るようなら逆に攻撃を仕掛けた。
そんな事をしばらく繰り返す内に、反乱勢力の勢いが目に見えて落ちた。
長い距離を疾走してきたカルリーク候とワークリフトの軍隊が疲労の極みに達し、勢いを失った瞬間である。
その瞬間を、ウェインとノークトの部隊の後方に控えていたアークザットとレイバートの部隊は待っていた。
そして見逃さなかった。
ウェインとノークトの部隊の後方から飛び出すと、半円を描きながらワークリフト軍の脇腹に突撃したのである。
この時、カルリーク候とワークリフトの軍隊は、長い距離を進軍している間に、戦列が伸びきっていた。
戦列が伸びた事で先頭と最後尾とで連絡が途絶えがちだったのが、このアークザットとレイバートの部隊の突撃で、完全に分断されてしまった。
指揮系統を失い、疲労の極みにあったワークリフト軍は、たちまち鷹獅子騎士団の餌食になった。
普段ならもっとマシな戦いぶりを見せられただろうに、ワークリフト軍は鷹獅子騎士団の組織だった攻撃の前に次々と打ち倒されていった。
一人、また一人と鷹獅子騎士団の騎兵槍に、剣にかかり、命を落としていく。
そして一人の死は恐怖となって戦友に伝染し、恐怖に駆られた兵士はすぐに鷹獅子騎士団の手にかかっていった。
この突撃で、勝敗は決定付けられたかと思えた。
しかし自分自身、多くの鷹獅子騎士団の騎士を相手にしながら、崩れ掛かるワークリフト軍を叱咤激励し、かろうじて崩壊を防ぐ男がいた。
崩れ掛かるワークリフト軍の戦列にあって、男は敵の目からも味方の目からも異質な存在となっていた。
男の名はバルクス。
ワークリフトの古くからの友人で、騎士の資格を剥奪され、かつての主君に反旗を翻す事を決意したワークリフトの、一番最初の味方になった男だ。
鷹獅子騎士団のノークトにも引けをとらない偉丈夫で、彼の巨体を大きく上回る巨大な戦斧を得意としている。
バルクスが怒号を発しながら戦斧を振り回すと、竜巻のように鷹獅子騎士団の騎士を巻き込み、血の混じった風が戦場に流れた。
崩れ掛かるワークリフト軍の中にあって、バルクスの声の届く範囲だけが戦列が崩れず、バルクスの戦斧の届く範囲だけが、一方的に鷹獅子騎士団の騎士が殺される場所だった。
バルクスだけがワークリフト軍をかろうじて支え、逆を言えばバルクスを倒さない限りワークリフト軍は崩れないように思われた。
ラティスもバルクスの奮戦と戦友の死を目にしながら、すぐにはそちらにはいけない状況にあった。
総大将であるアークザット将軍の周囲には敵が群がってきて、その側にいるラティスも敵に囲まれていたのだ。
しかしバルクスに向かっていく鷹獅子騎士団の騎士の中に、彼が見知った数少ない戦友である少女の姿を見付けた時、ラティスは心臓が凍り付くような気がした。
「あのバカ!」
心の中で、ラティスは毒づいた。
相手は自分やシェリナの手に負えるような相手じゃない!
シェリナはバルクスという名前の殺戮の渦に、一直線に進んでいく。
自分に向かってくるシェリナの姿を認めた……とは言っても、彼が幾人も無造作に打ち倒してきた鷹獅子騎士団の騎士達と同じように打ち倒される、取るに足らない存在としてだったが……バルクスは、斜めに戦斧を振り下ろす。
シェリナは自分を狙う戦斧の一閃を、馬上に身を伏せてやり過ごす。
そしてすれ違いざまに剣を水平に振るった。
鎧の継ぎ目を狙った一撃はしかし、バルクスがわずかに身体を動かしたために鎧の継ぎ目を外れ、バルクスの鎧にごく浅い傷を作っただけで終わった。
すれ違った両者は距離を空ける。
しかし馬首を巡らせるのはバルクスの方がわずかに早かった。
まだ体勢の整わないシェリナを、バルクスの戦斧が襲う!
シェリナはかろうじて左手の盾で必殺の一撃を受け止める。
瞬間、盾を通じて左肩が抜けるような衝撃がシェリナを襲った。
しかしバルクスの攻撃は一撃では終わらない。
矢継ぎ早の攻撃を、バルクスは次々と繰り出していく。
暴風のような攻撃を、シェリナは盾と剣を使い分けてかろうじて凌いでいく。
しかしそれはほとんど奇跡のような物だった。
バルクスの繰り出す一撃を受け止める度、小柄な身体を馬上からもぎ離されそうな衝撃が襲い、一撃ごとにシェリナは自分とバルクスの間にある、ほとんど暴力的な力の差を思い知らされるのだった。
しかし奇跡は長くは続かなかった。
いや、これまで長く続いていたと言うべきだろうか?
バルクスの横殴りの攻撃を受け止めた時、甲高い金属音の尾を引きながら、シェリナの左手の盾が吹き飛んでいった。
盾を拾いに行く時間をバルクスが与えてくれるはずもない。
唯一残った剣を、シェリナは両手で握ってバルクスの次の攻撃に臨む。
そしてシェリナの最後の頼みの綱も、やはり長くは保たなかった。
何度かバルクスの破壊的な攻撃を受け止めた剣は半ばから折れ、刀身は弧を描いて戦場のどこかに消えてしまった。
もらった!
そう叫ぶ労力を惜しむように無言で、バルクスは無造作に戦斧を水平に振るう。
これまで多くの鷹獅子騎士団の騎士達がバルクスの戦斧にかかって命を落としたように、自分も命を落とすのだろう。
シェリナは思った。
そして悔やんだ。
自分の無力さを。
相手との力量の差を顧みなかった、自分の浅はかさを。
戦場の空高く、ひとつの兜が弧を描いた。
それがバルクスに戦いを挑んだ無謀な少女の兜だと、その場に居合わせた誰もが思った。
戦斧を振るった当人も、そしてその攻撃の標的だった少女さえそうだと確信していた。
束の間凍り付く戦場の空気。
しかし鷹獅子騎士団の騎士の一人が叫んだ言葉が、その空気を打ち砕く。
「アークザット将軍!」
誰もが狐に摘まれたような顔で、その場に現われた男を見ていた。
エルラザ帝国に五人しかいない将軍の一人で、鷹獅子騎士団の総指揮官。
兜をなくし、精悍な顔をむき出しにして馬上に佇んでいる。
できたばかりらしいこめかみの傷から、細い血の筋が流れている。
そして主人を失った軍馬が一頭。
それらを見比べて、バルクスはようやく事態を把握した。
自分の一撃がシェリナの首を跳ね飛ばす直前、シェリナの背後から近付いたアークザットがシェリナの襟首を掴んで投げ飛ばし、シェリナの首の代わりにアークザットの兜が吹き飛んだのだ。
「ようやく将軍様のお出ましか」
バルクスは舌なめずりする。
ほとんど壊滅状態に陥りつつあるワークリフト軍。
そのワークリフト軍に勝機があるとすれば、それは鷹獅子騎士団の総大将である、アークザット将軍を討ち取るしかない。
アークザットが強敵である事は承知している。
しかしそれでもなお、バルクスは命をかけてアークザットと戦わなくてはならない。
「噂に名高い鷹獅子騎士団も、下っ端は歯応えのない雑魚ばかりだった。将軍様も似たような物じゃないだろうな?」
「……よく喋る猪だな」
バルクスの挑発に、アークザットは乗らなかった。
わずかに眼光を強め、バルクスを見据える。
「今さら猪を狩ったところで功績の足しにならないが……大切な部下の仇、討たせてもらう! このアークザットの剣の切れ味、その身で確かめるがいい!」
そして、両者は全く同時に馬をあおり、間合いを詰めた。
ラティスはアークザットに少し遅れて囲みを破った。
そしてシェリナの許にたどり着いて一番最初にやった事は、剣も盾も馬も失ったシェリナを狙う数人のワークリフト軍の騎士を、永遠に呼吸できない身体にしてやる事だった。
「シェリナ! 大丈夫か!?」
「………」
悔しそうに唇を噛み締めているシェリナの手を引いて、自分の馬の後ろに乗せてやる。
怪我はないようだが、戦える状態ではないと判断したラティスは、戦闘の激しい場所から離れる事にした。
鷹獅子騎士団の後方の安全な場所に行く途中、ラティスの身体にしがみついたシェリナはずっと「どうして……」と呟いていた。
バルクスとアークザットの一騎打ちは苛烈を極めた。
両者とも互いの武器を体力と剣技の許す限りに振り回す。
バルクスの戦斧の重い攻撃を、アークザットは軽い剣でよく受け止め、受け流す。
アークザットの巧みな連続攻撃を、バルクスは重い戦斧で弾き返す。
それぞれの武器は旋風を巻き起こし、近付く者はワークリフト軍の者だろうと鷹獅子騎士団の者だろうと容赦なく巻き込み、二人の一騎打ちに赤い華を添えた。
アークザットの、舞を思わせる華麗な剣技。
しかしその一撃一撃に込められた苛烈さは、バルクスの重い戦斧の攻撃に決して引けを取らない。
この細い身体に、どれほどの力が秘められているというのだろう。
バルクスは驚愕した。
アークザットの剣は、大陸最高という噂に違わぬ物だ。
そしてアークザットとの一騎打ちに、いつしか昂揚している自分に気付いた。
相手は憎きエルラザ帝国軍の将軍で、今まさにワークリフト軍を滅ぼそうとしている男なのだ。
しかしその立場さえ忘れるほどに、自分と互角以上に渡り合う男に出会えて、そして千年の未来まで語り継がれるに足る一騎打ちを演じているのだ!
恐らく剣に命をかけた男にとって、これ以上の幸福はないと思われた。
しかし一騎打ちは長くは続かなかった。
バルクスの戦斧を受け流したアークザットが、軽く手首を返した。
それだけでアークザットの剣はバルクスの手首の、鎧の継ぎ目を切り裂いた。
その後は一方的だった。
手首に傷を負ったバルクスは、重い戦斧を満足に構える事ができなくなった。
次第に防戦一方になり、やがてアークザットの剣がバルクスの身体にいくつもの傷を作り始めた。
ひとつひとつの傷は浅く小さい物だったが、それが全身に及ぶと、痛みが闘志を蝕み、出血が体力を奪っていった。
そして脇腹を大きく切り裂く一撃を食らうと、愛用の戦斧を取り落とし、馬から落ちてしまった。
バルクスはすぐに立ち上がろうとしたが、予想以上に消耗していたのか、失敗してしまった。
二度、三度と繰り返す。
しかし何度やっても地面についた手が滑ってしまう。
そしてふと気が付くと、自分が血溜まりの中に座り込んでおり、手を滑らせた物の正体が、自分の身体から流れ出た血だと知る。
「……俺は死ぬのか?」
呟く。
そして自分が言葉をかけた相手が、喜びも悲しみも感じさせない顔で剣を振りかぶっている男だと気付く。
……そうか、死ぬのか。
死への恐怖も、自分が選んだ道に対する後悔も、そして腐りきったエルラザ帝国を滅ぼす事をワークリフトと誓い合いながら、志半ばで死んでいく事への憤りも感じなかった。
ただ全身を包む気怠い疲労と、疲労さえ心地よいと思える自分だけを、バルクスは感じていた。
バルクス戦死の報せを受けたワークリフトは、一瞬、馬上で身体をよろめかせた。
自分の主君が落馬するのではないかと、側にいた副官は顔色を失ったが、ワークリフトはかろうじてバランスを取り戻した。
「………」
しばし、ワークリフトは目を閉じて黙り込む。
「……それで、バルクスは誰に殺された?」
そして目を閉じたまま、重く口を開く。
「鷹獅子騎士団のアークザット将軍と見事な一騎打ちを演じられて……」
「そうか……」
再び、沈黙するワークリフト。
部下というより戦友というべき存在であったバルクスを永遠に喪ったワークリフトの胸中には、単純ならざる感情が渦巻いた。
短期的には常にワークリフト軍の最前線に立つべき、優秀で信頼に値する指揮官を失った。
そして長期的には、これまでの戦いの日々を思い出として語り合い、これから過ごすだろう戦いの日々の中で、苦楽を分かち合う事のできる男を、永遠に喪ったのだ。
しかし閉じていた目を開いた時、ワークリフトの顔にあったのは、多くの部下の信頼と忠誠を集める男に相応しい、いつも通りの表情だった。
「決めた。退却する」
短く、ワークリフトは宣言した。
指揮下の兵士を多く失い、さらにバルクスまで失った以上、すでにワークリフト軍に勝ち目はなかった。
後悔は、ある。
もっと早く退却を決めていれば良かった。
そうすればバルクスを失わずにすんだし、バルクスがいれば退却する際の被害も最小限に抑えられただろう。
バルクスの戦死という痛撃を被るまで退却するふんぎりがつかなかった自分の決断の甘さに歯噛みする思いだった。
しかし今は、今できる最善を尽くさなくてはならない。
遅すぎた退却であっても、そしてそのために何ものにも代え難い物が喪われたとしても、後悔の涙を流している暇はないのだ。
退却を決めた後のワークリフトの行動は早かった。
主立った部下を集めると、手早く指示を伝える。
そして指示を受けた部下が散っていくのを見送ると、空を見上げる。
大地の上では血生臭い、凄惨な戦いの真っ最中だったが、空は青く、どこまでも晴れていた。
今は、退く。
しかし永遠に逃げ続ける事はしない。
いつかアークザットを討ち取り、その首をお前の墓に供えてやる。
だから今は退く事を許して……いや、そのためにこそ、今は退く事を決意したのだ。
潔く戦って死ね、などとは、絶対に言わせないからな!
青空を仰ぎ見て、ワークリフトはバルクスの復仇を固く誓った。
しかしそのすぐ後、退却を始めたワークリフトを待っていたのは、彼にとって最悪から二番目の報せ、「カルリーク、裏切る!」だった。
退却を始めたワークリフト軍を、カルリーク軍の攻撃が待っていた。
鷹獅子騎士団から逃れ、軍隊をまとめようとするワークリフト軍に、カルリーク軍が弓を射かけ、騎士が突撃する。
かろうじて軍隊としての体裁を取り戻そうとしていたワークリフト軍は、カルリーク軍の攻撃によって、随所で数を減らされ、あるいは投降していった。
裏切りの理由は単純である。
ワークリフト軍の退却は、すなわちカルリーク軍の敗北だった。
そしてそもそもワークリフトやヴィルレインに比べて、カルリークはエルラザ帝国に対する反逆という事で言えば、不覚悟な所があった。
エルラザ帝国に反逆しながら、エルラザ帝国からもらった「候」を未だに名乗り、平の騎士出身としてワークリフトやヴィルレインを見下している……。
それが意味する事をろくに考えずに反逆し、そして敗色が濃くなると、今度は手の平を返してエルラザ帝国に媚を売る……。
ワークリフトもヴィルレインも、カルリークが寝返る可能性を考えていた。
しかし結局は何の対策も立てられないまま。
そして鷹獅子騎士団はカルリークの行動を予想して、あえてカルリーク軍に攻撃せず、ワークリフト軍にのみ攻撃を仕掛けたのだ。
ワークリフトは再び歯噛みしながら、鷹獅子騎士団とカルリーク軍の攻撃を避け、数人の部下を従えただけで逃げ延びていった。
シャルバサートに近い平原で行われた鷹獅子騎士団と反乱勢力の連合軍の戦争の、これが顛末だった。
戦闘が終わり、カルリーク候はアークザットと面会した。
肥満した身体を揺らしながら、カルリークは自分がエルラザ帝国に二心がない事を得意げに語り始めた。
曰く、自分が反乱を起こしたのは、周囲を反乱勢力に囲まれ、自分も反乱勢力にならなければ他の反乱勢力から集中的に攻撃される恐れがあったから。
生き残るために仕方なく反乱勢力を装っていただけで、自分の忠誠はどこまでもエルラザ帝国と皇帝にある事。
ワークリフトらと連合軍を結成していたのも彼らに脅迫されていたためで、秘かにワークリフトらを裏切って鷹獅子騎士団に味方するチャンスを窺っていたのだ……。
利己的で虚栄心に満ちた演説に、アークザットの隣に控えるラティスはカルリークの脂肪に包まれて太くなった首を切り裂きたい衝動に駆られた。
エルラザ帝国に忠誠を誓う者が、エルラザ帝国の無実の民に害を加える反乱勢力になるのか?
恥という言葉の意味を知っているなら、そんな事はできないはずだ。
それに鷹獅子騎士団のために反乱勢力を裏切ったと言うが、勝敗が決まった時点で裏切った所で意味などない。
どうしてもっと早く、戦端が開かれる前に裏切る意志を鷹獅子騎士団に示さなかったのか?
反乱勢力と鷹獅子騎士団の、どちらが勝つか見極めていたのは明白だった。
結局、このカルリークという男が話している事は、自分の都合で自分のためだけにやっていた事を全てエルラザ帝国のためという事にして、自分を正当化しているに過ぎない。
しかし隣のワークリフトが黙ってカルリークの話を聞いているので、仕方なくラティスも黙っていた。
そして。
「今回のアークザット将軍への恩に報いるために、このカルリーク、将軍の危機には、何を置いてもすぐに助けに参上しましょう」
カルリークはそう締めくくった。
それは演説だった。
目の前にいるアークザットを始めとする鷹獅子騎士団の面々ではなく、自己満足というただ一人の聴衆に向けられた、醜悪な演説だった。
カルリークの演説を聞き終えたアークザットは、面倒そうに口を開く。
「なるほど、我が鷹獅子騎士団の危機には、カルリーク候が駆け付けてくれるのか」
「はい。必ず」
「そして逃げ崩れる我が軍に矢を射かけてくれるのか」
「!」
自分の演説のために紅潮していたカルリークの顔が、一瞬にして真っ青になった。
さすがのカルリークにも理解できたのだろう。
自分の演説と自分の行動が、自分の死刑宣告書にサインしてしまった事に。
「レイバート!」
「はっ!」
アークザットに呼ばれて、レイバートが数人の男を連れて現われた。
男達はいずれも鎧と包帯に身を包み、手には木の棒を持っている。
「カルリーク、わかるか? ワークリフトのために戦い、最後にはお前の裏切りに遭って我が軍に投降した兵士達だ」
もはや「候」という爵位を付ける事もせず、アークザットは言った。
「我が鷹獅子騎士団はエルラザ帝国に仇なす者を切る剣は持っているが、人の言葉を話す醜悪な豚を切る剣は持っていない。
この者達に自分のやった事の意味を教わるがいい。もっとも、お前の貧弱な脳味噌で理解できるとは思えないがな」
「………」
カルリークは男達に視線を向ける。
血走った目がカルリークを睨み返す。
彼らが手に持った棒が何に使われるか。
そしてアークザットが鋭利な剣ではなく、殺傷能力の低い棒を持たせた意図は明白だった。
「お、お待ち下さい、将軍! ご慈悲を! どうかご慈悲を!」
「連れて行け!」
カルリークの命乞いを、アークザットは一蹴した。
男達はそれぞれにカルリークの腕や襟首やらを掴み、なおも見苦しく動物じみた叫び声を上げるカルリークを引きずっていった。
しばらくして、カルリークと入れ替わるようにシェリナがアークザットの前に現われた。
「将軍……」
そう呟いたきり、言葉が出てこない。
シェリナの前のアークザットの鎧は、血で真紅に染まっている。
しかしそれは全て返り血で、彼が今日一日で受けた怪我はこめかみの細い……シェリナを助ける際に受けた……傷しかない事を、シェリナを含めた全ての者が知っていた。
「……シェリナ」
「は、はい」
「俺もレイバートも、お前に戦って生き残る事は教えたが、戦って死ぬ事を教えた覚えはない」
「………」
「顧みて、今日のお前はどうだった? 勝算があってあの男に向かっていったのか?」
「………」
「自分より強い相手と戦うなとは言わない。戦場ではよくある事だ。しかし負ける事がわかっている戦いを挑むのは勇気ではない。ただの無駄死にだ」
「……将軍……私は……」
「もういい。下がれ」
「……はい」
シェリナは立ち去っていった。
アークザットはひとつ息をついて、側に控えたラティスの表情に気付いた。
「……不満そうだな」
「え? あ……」
「きつい事を言ったのはわかっている。しかしきつく言わなければ、今度こそ命を落とす事になる」
「………」
わかっている。
アークザットの言う事が正しいのはわかっている。
それがシェリナのためである事もわかっている。
だけど……。
アークザットがふと口許を緩めた。
「ラティス、今日はもう自由にしていいぞ」
「え?」
アークザットの身の回りの世話がまだ残っているのだが……。
しかしアークザットの意図がわかり、ラティスは一礼してアークザットの側を離れた。
行く先は……。
鷹獅子騎士団の野営地を走り回り、ラティスはようやくシェリナの姿を見付けた。
野営地の片隅に見付けた彼女は、寂しげに肩を落とし、とぼとぼと歩いていた。
「お〜い、シェリナ〜!」
「………」
ラティスは大声でシェリナの名前を呼んだが、シェリナは少し顔を動かしてラティスを見ただけで、すぐに視線を逸らす。
シェリナに追い付いたラティスはシェリナの肩を叩く。
「シェリナ、将軍に言われた事、気にしてるのか?」
「………」
「将軍はシェリナの事を心配してきつい事を言ったんだ。だからくよくよしないで、次の戦いで同じ失敗をしないようにすればいいんじゃないか?」
「………」
しかしシェリナは相変わらず無言で歩き続けている。
ラティスはため息をつきたくなった。
確かに、簡単にシェリナを元気付けられるとは思っていなかったが……。
シェリナがいきなり立ち止まり、ラティスがふと気付くと、野営地を抜けて近くの川のほとりに立っていた。
シェリナを励ます方法を考えている間に、結構な距離を歩いてしまったようだ。
シェリナはラティスから軽く距離を取ると、剣を抜いた。
切っ先を突き付ける。
そして一言。
「抜け」
短く言った。
「お、おい、シェリナ……」
どうしてそんな事をするんだよ……とラティスが口にするより早く。
「いいから早く抜け!」
シェリナは叫び、一気に間合いを詰める。
仕方なく、ラティスは剣を抜く。
斜めに振り下ろされたシェリナの剣を、かろうじて受け止める。
その後もシェリナは攻撃を続ける。
右から左から、次々と繰り出される攻撃はしかし、全てラティスの剣に受け止められた。
反撃はできない。
下手に反撃すれば、シェリナに怪我をさせてしまう。
結果、シェリナは一方的に攻撃する事になり、ラティスはただ防ぎ続ける事になった。
「どうした!? どうして反撃しない!」
シェリナが叫ぶ。
そんな事を言われても、そもそもラティスにはシェリナと剣を合わせる理由がなかった。
だから無言で攻撃を防ぎ続けるしかなかった。
しかしラティスは気付いていた。
シェリナの攻撃は単調で、何も考えなしに、ただ力任せに剣を叩き付けているだけに過ぎない。
普段のシェリナであれば、連携を考えた、もっとマシな攻撃をしていただろう。
シェリナは冷静さを欠いているのだ。
それなら、何とか戦いをやめさせる事ができるかも知れない。
そう思ったラティスは、チャンスを待った。
ひたすら攻撃を防ぎ続ける。
そしてついにチャンスはやってきた。
「うわあああああっ!」
渾身の力を込めて、シェリナが剣を突き出す。
その瞬間をラティスは待っていた。
後ろに飛びながら、自分の剣をシェリナの剣に重ねる。
シェリナの腕が伸びきる、その瞬間を狙って。
剣を捻り、跳ね上げる。
次の瞬間、ラティスの剣に巻き込まれたシェリナの剣は宙に舞っていた。
しかしシェリナの剣を奪う事には成功したものの、シェリナの勢いを受け止める事はできなかった。
ラティスはシェリナに巻き込まれるような格好で、折り重なって地面に倒れる。
「イテテ……」
何とかなったのか?
地面にぶつけた背中の痛さに顔をしかめながら、ラティスは身体を起こした。
見ると、自分の胸に顔を押し付けているシェリナがいた。
「どうして……どうしてお前なんかに……」
嗚咽に紛れるように、シェリナの押し殺したような言葉が聞こえてくる。
何とかお互いに傷付かずにすんだが……こうなった原因はどうにもなっていない。
だけどラティスはシェリナの胸の内を思いやって、自分の胸で泣く少女の髪を優しく撫で続けた。
川のほとりに夕焼けが降りてくるまで、ずっと……。
二人の英雄「英雄達の戦場」 了
第4話「夜明けは戦場に下りる」に続く
あとがき
ど〜も、wen-liです。
「英雄達の戦場」いかがだったでしょうか。
今回、ようやくマジメに(?)戦争できました。
でも主人公のラティス君が活躍できなかったかも。
まだ一兵卒だから仕方ないか。
意外と気に入ったのが、今回のやられ役その1ことワークリフト君。
でももう2度と出番はありません(笑)
やられ役その2こと、低血圧に悩む侯爵カルリーク君も、素敵に情けない悪役ぶりを発揮してくれました。
でもやっぱり出番はありません(笑)
さて、注目の第4話ではラティス君、活躍できるか?
刮目して待て!
感想お待ちしてます。
でわでわ。
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