二人の英雄 第1部・鷹獅子騎士団編
第2話「錫杖の行方」
石畳の街路を、赤く焼けた夕陽が照らしていた。
家路を急ぐ人々の影が長く伸び、影が追いかけっこをしているようだった。
兄妹らしい子供がすれ違っていくのを目を細めながら見ている、旅装束の男の姿があった。
亜麻色の髪の、まだ少年の日の面影を残した面立ちに、意志の強さを感じさせるまなざし。
すれ違う人達のほとんど全てが知らない事だったが、男の名前をラティスといい、エルラザ帝国の最精鋭と言われる鷹獅子騎士団の一員であった。
ラティスはふと隣を歩く少女を見た。
少年のように短く切り揃えられた髪は、銀色に近い美しい金髪だった。
旅装束の上から伺い知るだけの身体は確かに曲線を描き始めているものの、まだ発展途上という印象を受ける。
髪を伸ばして女の子らしい服装をしてアクセサリーのひとつでも付ければ、世間の男どもの見る目も大幅に変わる事だろう。
そして上向き気味のあごを引いて、愛想笑いのひとつでも浮かべてやれば、それだけで心を奪われる男も少なくないだろう。
いや、ラティスとしてはそこまでは要求しない。
せめて自分を見る時の、いかにも嫌々といった、敵意がこもっていると言ってもいい視線は何とかならないものだろうか。
少なくとも今はお互いに一人ずつの「相棒」なのだから。
「ラティス」
少女は声をかけてきた。
「街には入ったが、これからどうする?」
「そうだな……とりあえず宿を探そう。もう遅いし、後は明日だな」
「そうか。任せる」
シェリナはまた視線を正面に戻す。
ただそれだけの会話に疲労を感じて、ラティスは心の中でため息をついた。
この街にいる人達の中でラティスだけが知っている事だったが、少女の名前はシェリナといい、鷹獅子騎士団の紅一点だった。
ラティスはどうもシェリナの事が苦手だったが、その原因はシェリナの方にあった。
とりあえずラティスの言う事に逆らったりはしないのだが、その態度はいかにも渋々といった感じなのだ。
特に嫌われるような事をした覚えはないのだが……いや、先日は戦場で命を助けたくらいなのだが……シェリナはラティスと距離を置きたいように考えているらしかった。
自分達二人に与えられた任務……任務といえるのどうかよくわからない任務だったが……の事を思えば、少しでも心を割って話したいと思うのだが……。
各地で反乱軍を鎮圧しながら転戦を続ける鷹獅子騎士団。
ある日、アークザット将軍はラティスを呼び寄せた。
そしてひとつの命令を下した。
「シャルバサートに行って来い」
命令自体は単純明快だった。
そしてそれに対するラティスの答えも、しごく単純な物だった。
「わかりました……それでシャルバサートで何をしてくればいいんですか?」
「任せる」
「は?」
「任せるから、自分でやるべき事を見付けて、自分の判断で動けばいい」
「はあ……」
「そうだ。一人だと何かと動きづらいだろう。相棒も付けてやろうか」
そんな気楽なやり取りで、ラティスとシェリナのシャルバサート行きは決定したのだった。
ラティスとシェリナは選んだ宿屋の、酒場になっている一階で夕食を採っていた。
特に高級というわけではないが、明るく家庭的な雰囲気で、女性でも気兼ねなく入れる、普通の宿屋である。
二人は向かい合って食事をしていた。
端から見れば若い恋人同士に見えたかも知れないが、笑顔どころか会話もほとんど交わさない様子は、むしろ倦怠期を迎えた熟年夫婦といったところだろうか。
黙々と食事をするシェリナを見るとはなしに見ながら、ラティスは自分達の置かれた状況を整理する事にした。
シャルバサート。
それは高い城壁を持つ、とある中規模の都市の名前だった。
それが今は鷹獅子騎士団にとって小さからぬ意味を持つ存在だった。
領主ラルセンは温和な人柄で知られ、争いを好まない性格だった。
またシャルバサートが堅固な城壁で守られている事もあるのだろう。
周辺の都市の多くが帝国に反旗を翻し、自分の領地を守るため、あるいは皇帝の打倒と称して他の都市を侵略する中で、シャルバサートは他の都市を侵略する事がなかった。
ところが今は鷹獅子騎士団にとって軽視し得ない存在になっているのだ。
反乱軍の鎮圧のために兵を進める鷹獅子騎士団。
それを知って、シャルバサート周辺の反乱勢力は互いの血で汚れた手を一時的に結ぶ事にした。
それは己の利益だけを考え、他の勢力が不幸になる事に何ら痛みを感じない、心温まる利己的な同盟関係だったが、とにもかくにも兵力は集まった。
その数、およそ五万。
鷹獅子騎士団の三万を大きく上回る数とはいえ、反乱勢力は自分の勝利を確信していたわけではなかった。
確かに兵力では勝っているが、相手は名将と名高いアークザット将軍率いる鷹獅子騎士団である。
そして自分達の方こそ、昨日までお互いに剣を向け合ってきた間柄である。
どう考えても自分の将来を楽観視できる状況ではなかった。
そこで反乱勢力が目を付けたのがシャルバサートだった。
シャルバサートには五千人の、歩兵を中心とした兵力がある。
数としては決して多くないが、条件さえ揃えば反乱勢力と鷹獅子騎士団の力の均衡を覆すには充分な数だ。
そして反乱勢力はシャルバサートにほど近い平野に陣を敷き、鷹獅子騎士団もその正面に布陣し、反乱勢力に対して一歩も引かない態勢を取った。
そして鷹獅子騎士団の背後にはシャルバサートがある。
シャルバサートの領主ラルセンが反乱勢力と呼応すれば、鷹獅子騎士団を前後から挟撃できる態勢である。
もしラルセンが動かないとしても、鷹獅子騎士団にラルセンが動くかも知れないと印象付ける事ができれば、それだけで大きなプレッシャーを与える事ができる。
最後に残った問題は、ラルセンをいかにして動かすか、だが……。
「よっ、ご両人!」
突然かけられた陽気な声に、ラティスは思考を中断された。
シェリナの方は椅子から飛び上がらんばかりに驚いていた。
「レ、レイバート様……」
シェリナは自分達を驚かした相手の名前を言いそうになって、慌てて口を塞いだ。
その間に彼らの上官である、鷹獅子騎士団の副将レイバートは空いた席に座った。
「それにしてもお前ら、辛気くさい顔だったぞ。誰かの葬式でもあったのか?」
「違いますよ」
「もしウェインの葬式だったら、大いに笑ってやれ。俺が許す」
「レイバート様、いくら何でも不謹慎です」
さすがに声量は抑えているものの、シェリナの声には微かな怒りがこもっていた。
レイバートとウェインの間では、これくらいの毒舌の応酬は日常茶飯事である。
もしシェリナが今のラティスの立場になれば、必然的に気苦労が増える事だろう。
「おっと、失敬」
レイバートは口ではそう言うものの、軽い口調と笑顔は完全にその言葉を裏切っていた。
シェリナが小さくため息をつく。
ラティスは口を開いた。
「レイバート様、ひとつ聞いていいですか?」
「その『様』っていうのはイヤなんだけどなあ。ま、いいけど。で、なんだ?」
「レイバート様はどうしてシャルバサートにいるんですか?」
「お前らと同じ、任務って奴だよ。遊びに来ているとでも思ったのか?」
「そうじゃないですけど……任務の内容は……教えてくれないですよね?」
「大正解。秘密って奴だ」
レイバートはにやにやと笑って答える。
ラティスは考え込む。
自分の知りたい事……それは決して少なくない。
しかしレイバートにそれを尋ねて、その内のいくつに答えが返ってくるだろう。
「レイバート様」
今度はシェリナが口を開いた。
「私達は……これからどうすればいいと思いますか?」
「シェリナ、お前はアークザットから何か聞いてきたか?」
「いえ、何も……」
「それなら俺から言える事は何もないな。どうすればいいか考える事も、任務の一部なんだろ?」
「……はい」
シェリナはうつむき、消え入りそうな声で言った。
これから自分達がするべき事。
それはラティスにとっても一番知りたい事だった。
しかし自分達のするべき事を見付けてくる事も自分達に期待されているのだから、レイバートがそれに答えてくれない事も最初からわかっていた。
「それじゃあ邪魔しちゃ悪いし、俺はこれで退散するわ」
レイバートは言って席を立った。
「せいぜい仲良くやってくれよ」
そして二人の背中を強く叩き、去っていった。
その姿が外に消えるのを見届けてから、シェリナは口を開く。
「結局、ここには何しに来たんだ?」
「僕達に挨拶したかっただけと思う。きっと」
「……そうか?」
シェリナは納得していないようだった。
アークザットやウェインやノークトならともかく、レイバートならそれだけの理由のように、ラティスには思えた。
だけど……決して収穫がなかったわけではなかった。
食事を終えた二人は、二階の宿屋に借りた、自分達の部屋に戻ってきた。
別々に部屋を取るくらいの路銀はあったが、一緒に旅をしている風を装っているから、一緒の部屋の方が自然に見えると思われたのだ。
部屋に戻るなり、シェリナは疲れ切った様子でベッドに腰を下ろす。
「ラティス……お前は悔しくないのか?」
「え?」
「今の……私達の状況だよ。鷹獅子騎士団は今、より多勢の敵軍と対峙している。いくら鷹獅子騎士団とはいえ、決して楽観視できる状況ではないはずだ。
アークザット将軍は、一人でも多くの軍勢を必要としているに違いない」
「………」
「にも関わらず、私達はここにいる。戦場から離れた、このシャルバサートで、何をしていいのかさえわからないでいる」
「………」
「……アークザット将軍は、私達に何も期待していないのか?」
「………」
そんな事、考えた事もなかった。
だからラティスは、シェリナの言った事をよく吟味して、言葉を選び、それから口を開く。
「そんな事はないと思うけどな」
「………」
「少なくとも将軍は、僕達に何かを期待しているはずだよ。そのために僕達をシャルバサートに派遣したんじゃないのかな?」
「そうだろうか」
シェリナは答える。
「将軍はお前に期待していても、私には何も期待していないような気がする」
「違うよ。だって……」
ラティスは言い返そうとしたが、シェリナは聞く耳を持たないかのように、ラティスに背を向けてベッドに転がった。
ラティスはため息をつき、自分のベッドに腰を下ろした。
戦場という騎士にとっての晴れ舞台から外され、平和な場所にいる事が悔しいのだろうか。
ラティスはそんな風に考えた事は一度もなかった。
将軍が自分に期待する事なら、戦場で戦う事も、将軍に出す料理の味も、あるいはちょっとした気配りでも、同じように情熱を傾けていた自分だから。
そしてそんな悔しさが、彼女のラティスに対する素っ気ない態度につながっていたのだろうか。
「でも、そんな事ないと思うよ」
さっきシェリナに言いかけてやめた言葉を、聞こえないように小さな声で言うラティス。
「鷹獅子騎士団が必要としているのは、僕達の騎士としての戦力じゃない。少なくとも今はまだ……」
翌朝、ラティスとシェリナは宿屋を出て街の様子を見て歩く事にした。
街の様子から、自分達のするべき事が見付かるかも知れない。
ラティスはそういう口実でシェリナを誘ったが、実際には気晴らしのつもりだった。
少なくとも宿屋に閉じこもって頭を悩ませるより、暗い気持ちにならずにすむだろう。
二人の足は街の広場に向かっていた。
途中の街路の両脇には小さな露店が軒を連ねている。
店先に並ぶ商品は様々だった。
果物、野菜、肉や魚といった食料品はもちろん、細かな日用品の他にアクセサリーや貴金属の類も並んでいる。
そして店先の商品を覆い隠すように、それを買い求める人達が立ち、街路は売り買いをする声で埋め尽くされていた。
自慢の商品を売り付けようとする商人の声をさりげなく無視しながら、ラティスは隣を歩く同行者に声をかける。
「賑やかだなあ」
「………」
「シェリナ?」
返事がないので同行者をうかがうと、シェリナは物珍しそうに商人と客らしい男が値引き交渉しているのに見入っていた。
「ねえ、シェリナ?」
「……え? ……あ、呼んだのか?」
「そうだけど」
「………」
シェリナは何やら恥ずかしそうに顔を赤らめ、うつむいて小さな声で言った。
「すまん……実はこういう所は初めてで……その……」
「………」
考えてみれば、シェリナはれっきとした貴族の「お姫様」だった。
こういった場所に来るのが初めてでもおかしくないし、物珍しさについつい見入ってしまう事もあるだろう。
「だから……その……今日はあまり役に立てないと思う」
「………」
ラティスは散歩のつもりで誘ったのだが、シェリナは「街の様子を観察する」つもりだったらしい。
そういう事で謝られても……。
「あ、いや……別に気にしなくていいから……そうだな。散歩のつもりでいいよ」
「そうか。わかった」
「………」
借金を返して金貸しを破産から救って感謝されれば、こんな気持ちになれるだろうか。
出来のいい比喩だとは思えなかったが。
「だけど賑やかだな。よその街もこんなに賑やかなのか?」
「場所によるけど……こんなに賑わっている所はそんなにないと思う」
この近くの平野では、今も反乱勢力と鷹獅子騎士団がにらみ合い、相手の喉元に剣を突き付ける機会をうかがっている。
にも関わらずシャルバサートがこんなに賑わい、人々の顔から笑顔が絶えないのは、高い城壁に守られている安心感と、領主ラルセンの人望と、そして経済が上手くいっている事の証明だろう。
広場に近付いているからだろう、次第に通りに人が増えてきた。
シェリナがちょっとした物にすぐ見入るせいだろう。
ラティスがちょっと目を離すと、シェリナがかなり後ろに立っている事が多くなってきた。
土地勘のない場所ではぐれれば面倒な事になる。
そう思ったラティスは、本当に何気なく、それだけの理由で、シェリナの手を取ろうとした。
「きゃっ」
意外に……というと相手に失礼だろうか。
シェリナは女の子らしく可愛らしい悲鳴を上げて、手を引っ込めた。
「あ、ごめん……」
「いや、こちらこそ……」
「………」
「………」
二人は訳もなく黙ってしまった。
鷹獅子騎士団に入る前、まだ生まれ故郷の村に住んでいた頃、ラティスには幼なじみの女の子がいた。
何か面白そうな物を見付けるとすぐ駆け出してしまうその子が心配で、ラティスはいつもその子の手を握っていた。
手を握ってやると、その子は本当に幸せそうに笑って……。
今もその子にしているようなつもりだった。
考えてみるまでもなく、いきなりシェリナの手を握って驚かれないわけがなかったのだが……。
この無意味な、しかし罪のない沈黙を破ったのはシェリナだった。
最初は驚いた彼女だったが、ラティスが決して邪な気持ちで自分の手を取ろうとした訳ではなく、ただ単にはぐれるのが心配だった事がすぐにわかったのだろう。
小さく笑って、ラティスの服の袖をつかんだ。
「さ、行こうか」
「……ああ」
どうやら自分はお姫様をエスコートする騎士になるには、まだ経験不足らしい。
今さらのようにそんな事に気付き、ラティスは苦笑した。
その後も二人は通りを歩いていく。
会話らしい会話はなかったが、それでも時々振り返って見るシェリナの表情が以前より少し柔らかくなったような気がして、ラティスは嬉しかった。
何度目の事だったか。
袖を引かれて、ラティスは立ち止まった。
しかしそれはシェリナが袖を引いたからではなく、彼女が立ち止まったからだ。
「……ラティス、ちょっといいか?」
シェリナがラティスの事を見上げて言った。
ラティスがひとつうなずくと、シェリナはラティスの袖を離し、近くの露店へと駆け出していった。
そして背中を丸めて店先の商品をしばらく見つめて、その中のひとつを手に取った。
それはリュートだった。
半球状の胴体に長い首が付いており、数本の弦が張られている。
この弦を指で弾く事によって音を奏でる楽器なのだが……。
「ちょっと待ってろよ」
シェリナは慣れた手つきでリュートを抱えると、まず調子を確かめるようにひとつ弦をかき鳴らした。
それからある歌の、有名なフレーズを歌う。
それは悲恋を題材にした歌だった。
ある国の王女と、一介の騎士の身分違いの恋。
遠い異国に出征する騎士。
しかしそれは愛し合う二人を引き裂かんとする、王女の父の陰謀だった。
ひとたび出征すれば二度と帰ってくる事はできない。
そうと知りながら出征する騎士と王女の、最後の逢瀬の時。
王女は自分の想いの丈を拙い言葉に託す。
「『自分ではあなたを幸せにする事はできない』とあなたは言う。
けれど私の心はあなたと共にある事でのみ満たされる。
ただ心に願うのは、鳥になって異国に旅立つあなたのそばにいたい。
ただ心に願うのは、異国の雲になってあなたを見つめていたい……」
歌い終えて、シェリナはリュートを戻した。
「うちにいた使用人に得意なのがいて、習っていたんだ。どうだ? ちょっとした物だろう?」
「………」
シェリナはふと名残惜しそうにリュートを見て、そして感傷を振り払うように笑う。
「さ、行こうか。ラティス」
「………」
「……ラティス?」
「………」
しかしラティスはシェリナがさっきまで演奏していたリュートを見つめたまま、何やら考え込んでいた。
そして自分自身を納得させるようにひとつうなずくと、店の主人に話しかける。
「おじさん、これ、いくら?」
「お、おい! ラティス!」
しかしシェリナが戸惑う間に、ラティスはアークザットからもらった路銀の一部を使い、リュートを買ってしまった。
「ラティス……ただ懐かしかっただけで、欲しかったわけじゃないんだが……」
うつむくシェリナに、ラティスはばつの悪い表情を作る。
「いや、シェリナのために買ったわけじゃなくて……ひとつ頼みたい事があるんだけど……」
その日の夜、とある酒場に吟遊詩人が現れた。
まだ十代半ばの兄妹らしい二人で、妹らしい女の子の方がリュートを演奏しながら歌っていた。
普段は無口で、口を開いても、らしからぬ男言葉で短くしゃべるだけだった。
しかしひとたびリュートをかき鳴らし、歌い始めると、それは一変する。
少女らしく高い声は、時に悲しくも美しい恋を切々と歌い、時に遠い過去の英雄の勇姿を高らかに歌い、そして時には間抜けな商人が自分の強欲故に儲け損なった歌を、面白おかしく歌い上げた。
歌声は流れるようなリュートの旋律に乗り、時に胸に熱く訴えかけ、時に心の底からの笑いを誘った。
そしてもう一人の、兄らしい方の少年は、妹らしい女の子の歌の合間に、酒場に居合わせた客と近隣の情勢を話したり、あるいは新しい歌を作るために、自分の知らない話を聞き求めた。
素晴らしい歌を聴いた嬉しさと二人に対する好意にほろ酔い加減も手伝い、多くの客は明るい気持ちで色々な事を包み隠さずにしゃべった。
そして翌朝には自分が何をしゃべったのかも忘れ、今日もあの二人が来ていないかと酒場を訪ねる事になるのだが……。
過去の英雄譚を歌う彼らが、まさか現代の英雄であるアークザット将軍率いる鷹獅子騎士団に属する騎士だとは、ついに気付く事はなかった。
「はい、お疲れ様」
「あ……ありがとう」
疲れた様子でベッドに座るシェリナに、ラティスは絞った果汁に蜂蜜を加えて温めた飲み物を渡した。
礼を言って受け取ったシェリナはそれを一口飲んで、大きく息を吐いた。
「こんな大勢の前で歌うのは初めてだが……最初は緊張もしたが、こんなに楽しい物だとは思わなかった」
「そうだね。僕も楽しかったよ」
「しかし……おかげで喉が痛い」
「それは悪かったよ」
「いや、この飲み物で帳消しだ」
冗談めかして笑うシェリナ。
リュートを買ったラティスに、酒場で歌ってくれないか? と言われ、最初は怒ったシェリナだったが、理由を聞いてからも「嫌々」という題名が相応しい表情だった。
しかし実際に歌い終わって帰ってくると、ラティスが初めて見る上機嫌な顔だった。
やっぱり怒っているよりも、笑っている方がいいな。
ラティスは思ったが、口にすると反発されるのが目に見えていたので、心の中にとどめる事にした。
「シェリナ、明日も歌えるかな?」
「大丈夫だと思うが……明日も情報収集なのか?」
「うん……そのつもりだけど……」
それからラティスは酒場で聞いた話の中から、気になった話をひとつ、シェリナに話した。
この近くに住む職人らしい男が言うには、シャルバサートの領主ラルセンは週に一度くらい、街の広場を臨む、城のバルコニーに立ち、集まった民衆に対してあいさつをするらしい。
ところが数日前、いつものようにバルコニーに立った領主ラルセンの手には錫杖がなかった。
錫杖とは、儀礼用の短い杖である。
宝石などで豪華な装飾を施されているために金銭的な価値は高いが、実用性はない。
一種のアクセサリーではあるが、剣が騎士の誇りを現わすように、錫杖には王侯貴族の権力の象徴という一面を持っている。
それを領主ラルセンは持っていなかったという。
ただそれだけの話なのだが、逆にそれがラティスの注意を引いた。
そんな些細な事を、何故男は気にするのか? そして何故話したのか?
詳しく聞こうと思ったが、話の流れで聞きそびれてしまい、そのまま……。
「バカか、お前は」
そんなラティスに、シェリナは世界で最もわかりやすい悪口を言った。
「そんな事も知らなかったのか?」
「………」
それからシェリナは説明した。
それは昔々、エルラザ帝国がまだ辺境の小国に過ぎなかった頃。
当時の国王は平和的な手段と非平和的な手段を巧みに使い分けて……どちらも道徳的に避難されるべき物だが……領土を拡大していった。
領土が大陸全体の三割ほどを占めるようになった頃、国王は自ら兵を率いた戦争で、敵国の策略と味方の裏切りによって大敗を喫した。
命からがらシャルバサートに逃げ込んだ国王だったが、あまりにも手痛い敗北のために、すっかり覇気を失っていた。
自ら拡大した領土も、父祖伝来の小さな領土も、そして残してきた家族や自分自身の命も、どうでもいい事のように思えたのだ。
そんな国王に救いの手を差し伸べたのが、当時のシャルバサートの領主だった。
彼は自らの責任を放棄し、精神的な死人になってしまった国王を叱咤激励し、ついには立ち直らせる事に成功した。
そしてそれだけでなく、自らシャルバサートの決して多くはない軍隊のほとんどを率いて、国王の指揮下に入る事を申し出たのである。
領主が自分の領地の安泰だけを望むなら、やがて別な国の軍隊が侵攻してきた時に降伏を申し入れればいいだけの事である。
もはや従う軍隊もなく、身ひとつになった男に肩入れする事は分の悪い賭けだった。
そしてその掛け金は自分自身の命と領土である。
にも関わらず、領主は国王に全てを託す決断をしたのである。
感激した国王は、領主に一本の錫杖を手渡した。
それはエルラザ帝国に代々伝わる錫杖……いわばエルラザ帝国の政治的権力の象徴といえる物だった。
身体ひとつで敗走してきた国王にとって、領主の忠誠に応える物はその錫杖しかなかったのだが……そういった事情を踏まえてなお、シャルバサートのささやかな兵力の代価としては過大な物であった。
そして敗残兵を加えたシャルバサート軍はエルラザ帝国軍の中核となり、エルラザ帝国軍の再建を担い、その後のエルラザ帝国の版図の拡大の基礎を作る事になるのだが……。
エルラザ帝国の領土が大陸の過半を占めるようになると、シャルバサート領主は自らの軍隊と共に帰郷する事にした。
あくまでも彼は一地方領主としての立場にこだわり、エルラザ帝国の中枢を担う重臣になるつもりはなかったのである。
「……というわけだ」
「なるほど」
「有名な話だぞ。本当に知らなかったのか?」
「………」
ラティスは不機嫌な顔で黙り込んだ。
地元の人間ならともかく、遠くの小さな村の猟師の息子に過ぎないラティスが知らなくても無理はない事柄である。
一方のシェリナは貴族の娘であるから、きちんと歴史学の教育を受けいて、その時に知った事なのだ。
そうした事情はさておき、シェリナの説明でラティスもその錫杖の重要性を理解した。
その錫杖は現代のシャルバサートの領主や住民にとって、滅亡寸前のエルラザ帝国を救った自分達の父祖の偉業と誇りの象徴であり……そして同時にエルラザ帝国に対する忠誠の証なのだ。
いつもそれを持っているはずの領主が持っていないとなると、気にかける人もいて然るべき物なのだ。
ラティスは腕組みして考え込む。
現在の鷹獅子騎士団と反乱勢力、そしてシャルバサートの三すくみの状況。
鷹獅子騎士団が必要としている物、そして反乱勢力にとって避けるべき事。
そして何よりも、アークザットが自分に何を期待しているのか。
自分とシェリナの、たった二人でできる範囲で……。
やがてラティスは顔を上げると、決然とした視線をシェリナに向ける。
「シェリナ、明日は情報収集はやめにしよう」
「そうか……少し残念だな。こいつの役目も終わりか」
そう言って、リュートに手を置くシェリナ。
しかしラティスは首を横に振って、人の悪い笑みを浮かべる。
「いや、むしろこれからの方が重要だよ。明日からは……情報収集の逆をやろうと思うんだ」
「情報収集の……逆……? ……あ、そうか!」
シェリナも合点がいったようだ。
かくしてラティスとシェリナは、ようやく鷹獅子騎士団が必要としている事に行き着いたのであった。
夕焼けの時間が終わり、空全体に広がった赤は影を潜め、代わりに漆黒の夜空と星の輝きが領域を広げつつあった。
月明かりに照らされる街路を、ラティスとシェリナは吟遊詩人らしい服装で歩いていた。
「なあ、ラティス」
シェリナが口を開く。
「ラティスはどうして騎士になった?」
「……どうしてそんな事を?」
シェリナの質問に多くの驚きと若干の戸惑いを覚えながら、ラティスは不誠実に聞き返した。
一方、シェリナの方も、
「……何となく」
不誠実に応じた。
ラティスは少し考えてから、結局、正直に答える事にした。
いや、そもそも隠すべき理由など一片もなかったから、むしろ誇らしく、胸を張って答える事にした。
「アークザット将軍は、僕と僕の故郷の村の恩人なんだ」
今でもあの時の事を鮮明に思い出す事ができる。
いや、むしろ時を重ね、アークザット将軍に再会する事ができて、あの時の光彩はより輝きを増していた。
朝日に照らし出された、真紅に染まった甲冑姿のアークザット。
いつもは精悍さを感じさせる眼差しがこの時は憂愁を帯びて、戦場だった場所を見下ろしている……。
強くなりたい。
そう思った。
強くなって、大切な物のために命を張れる、アークザットのような男になりたい。
そう子供心に誓ったのだった……。
ラティスはその時の事を、シェリナに話した。
ただしシェリナの父親である、前任の将軍の話は省いたが。
「そうか……」
シェリナはうなずいた。
「それじゃあラティスは今、幸せか?」
「ああ」
一片のためらいもなく、ラティスは強くうなずいた。
鷹獅子騎士団に入団して、目標までの距離は大きく縮んだのだ。
同じ背中を追いかけるでも、その距離が遠いより近い方がいいに決まっている。
もっとも、今のラティスの幸せは、彼の故郷の村が滅ぼされるという不幸によって得られたのだが……。
「……ラティス」
シェリナは手を差し出した。
その手を取って欲しい、という意味に気付くのに、ラティスはしばらくの時間が必要だった。
そしてその時間の後に手を取って……驚いた。
ラティスの経験と知識にある女の子の手というのは、ほっそりしていて、柔らかい感触だった。
しかしシェリナの手はほっそりとはしていたものの、その表面は硬く……そう、それはむしろラティス自身の手の感触に近かった。
昨日、シェリナの手を取ろうとして振り解かれたのも、あるいはこれがその理由のひとつだったのかも知れない。
シェリナはラティスの手の中から自分の手を抜き取ると、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「私は子供の頃からお父様に剣技を叩き込まれて……何度も手に血豆を作っていたが……それでも普通の貴族の娘らしく生きていけるのだと思っていた」
あるいはそうである事を夢見ていた。
貴族の娘らしく豪華なドレスを着飾り、華麗な舞踏会に出席する事を夢見ていた。
同じく着飾った貴族の娘と噂話に花を咲かせる自分の姿を夢見ていた。
そして恋をして、相手の男と軽やかにダンスを踊る自分を夢見ていた。
その風景はシェリナにとって、「幸せ」という言葉を夢という絵の具で描いた絵画だった。
しかし夢は実現しなかった。
夢は夢のまま、現実に生まれ変わる事はなかった。
早過ぎる父親の死。
武門の家に伝わるしきたりと厳格な祖父のせいで、シェリナは少女の身で従軍せざるを得なかった。
祖父はかつて父親が在籍していた鷹獅子騎士団に、という無理を貴族らしい傲慢さで通し、一方で一兵卒から、という道理を武門の家系らしい律儀さで通した。
シェリナを迎え入れた者にとっても送り込んだ者にとっても曖昧で中途半端な場所に、シェリナの立場はあった。
「……私は望んで鷹獅子騎士団に入ったわけじゃない」
シェリナは寂しげに笑い、隣を歩くラティスの顔を見る。
「その鷹獅子騎士団の一員としての私だって、辛うじて落第していないだけだ。今も鷹獅子騎士団は大軍とにらみ合っているのに、私は戦場から離れたシャルバサートにいる」
「………」
ラティスは黙って、うつむくシェリナの横顔を見つめる。
自ら望んで騎士になった自分と、望まないのに騎士になったシェリナ。
貧しい平民出身の自分と、貴族の娘のシェリナ。
アークザットに期待されてその一番近くにいる自分と、その努力にも関わらずただの騎士に過ぎないシェリナ。
そして……夢を叶える途上にある自分と、自分の夢とはあまりにもかけ離れた場所に立っているシェリナ……。
共通している事も少なくないのだろうが、対照的な事の方がはるかに多かった。
「だから私はお前の事がうらやましい」
シェリナは言った。
まぶしそうに目を細めて……ささやかな月明かりの下であるにも関わらず……ラティスを見つめる。
「私は今の任務が嫌で嫌で仕方がなかった。騎士の本懐は戦場で武勲を上げる事なのにとか……そもそも望んで騎士になったわけでもないのに、適当な理由を見付けていた。
だけどお前は、いつだって今の任務にまっすぐに向き合っていた。真剣に悩み、答えを探していた」
「………」
「私と違って自分の生き方から逃げていないお前が、本当にまぶしく見えて……うらやましい……」
そこまで言って、シェリナは少し顔を赤らめて、視線を逸らした。
「悪い。変な事を言った」
「あ、いや……」
こういう時にどのような言葉を返せばいいのか、ラティスにはわからなかった。
困ったように人差し指で鼻の頭をかくのがせいぜいだった。
そんなラティスを面白がるように笑い、シェリナは冗談めかして言った。
「いっそ騎士も貴族の娘もやめて、吟遊詩人を本職にしようか」
仮定の話。
それは決してあり得ない仮定の話だった。
「それは困るよ」
ようやくラティスも調子を取り戻したようだった。
「冗談だ、冗談。今はまだ鷹獅子騎士団のシェリナだ」
そして二人の姿は、近くにあった酒場の扉に消えていくのだった。
酒場に入った二人は、あたかも普通の吟遊詩人のように振る舞った。
シェリナが歌い、その合間にラティスは近隣の情勢などの世間話をし、そして歌の題材を集めていると言って色々な話を聞き出した。
そしてこの時、ひとつの「噂話」をもっともらしく話したのである。
「少し前に小耳に挟んだのですが、ここの領主様は立派な錫杖をお持ちだとか」
「おう。昔に国王陛下を助けて、そのお礼にいただいたという……領主様にとっても俺達にとっても、ご先祖様の誇りだよ」
「実は今回、私達がシャルバサートを訪れたのはその錫杖を一目見たかったのですが……この前、城のバルコニーにいる領主様を見た時は錫杖を持っていませんでした」
「きっとたまたま忘れたんだろうさ。次は見られるさ」
「だといいんですけど……あ、いえ……そんな顔しないで下さいよ。あくまでも噂、ただの噂なんですけどね、実は錫杖が盗まれたんじゃないかって話なんですよ」
「盗まれた? そんなバカな! 盗まれたなら何故盗まれたと公表しない? 領主様は懸賞金をかけて取り戻すに決まってる」
「でも……こういう理屈はないですか? 公表できないのは、錫杖と引き替えに脅迫されている、というのは……」
「………」
「それにただの泥棒が厳重な警戒の城に簡単に忍び込めると思いますか? 大きな組織がバックについた、訓練された人間ならともかく……」
「何なんだよ! その大きな組織っていうのは!」
「例えば……あ、いえ、ただの噂話ですからね。例えば……この近くに集結した反乱勢力とか……だからあくまでも噂話ですよ、噂話」
「………」
「まあ、どちらにしろ、今度領主様が私達の前に姿を現わした時に全てがはっきりするわけですが……」
という具合である。
二人はあちこちの酒場を転々としながら、そんな事を一週間に渡って続けたのである。
そしてある日の晩、この日もラティスとシェリナは酒場で吟遊詩人のフリをしながら噂をばらまいていたが、そろそろ帰ろうと酒場を出た。
しばらく歩いたところで、シェリナはラティスの腕に抱き付き、肩に自分の頭を寄りかからせる。
ラティスは腕に柔らかい感触を感じたが、その感触がシェリナの胸のふくらみの感触だと気付いて顔を赤くした。
シェリナの方もアルコールのためか、それともそれ以外の理由があるのか、ラティスと同じような顔の色をしている。
端から見ればまるっきり仲睦まじい恋人同士だったが、小声で耳元にささやくシェリナの言葉は、恋人同士らしい甘美な響きを少しも含まない言葉だった。
「……勘違いするなよ。あくまでも演技だからな」
「……わかってるよ」
「気付いていると思うが、尾けられている」
「それもわかってる」
さりげなく後ろを見ると、物陰に身を隠しながら、数人の男がこちらをうかがっていた。
酒場でやけにこっちを気にしていた連中である。
シェリナの「恋人同士らしいフリ」も、話している内容を後ろの男達に気付かれないようにしているだけだ。
「……嘘を吐け。最初からわかっていたくせに」
「……?」
「私も今になってようやく気付いた。お前は最初から、向こうからちょっかいをかけてくるのを待っていたんだろう?」
「その通り……ところでシェリナ、走れる?」
「大丈夫だ。限度以上には飲んでいない」
「わかった。それじゃあ……」
さらに二言三言、小声で打ち合わせした後、二人はいきなり全力で走り出した。
後ろの男達も慌てて駆け出す。
振り返る事なく、二人はそれを気配で察知していた。
二人の足は次第に細かい路地に向かっていく。
シャルバサートの細かい路地はすでに熟知していた。
吟遊詩人のフリを続けていた、ささやかな副産物である。
こういう時に役立つ路地もいくつか押さえてあった。
「追え!」
「逃がすな!」
二人を追いかける男達が怒声を上げる。
両者の走るスピードはほとんど変わらない。
時には曲がり角で二人の後ろ姿を見失う事はあったが、それも一時的な事で、すぐに見付かった。
実際にはラティスとシェリナが付かず離れずの距離を保つように調整していたのだが、男達はそれに気付かなかった。
自分達が追いつめようとしているつもりで、実はその逆だったのである。
そして今もまた男達は曲がり角を曲がって……行き止まりに出くわした。
そこには二人の姿は見当たらない。
二人を見失った?
しかしどこへ?
狼狽する男達。
しかし答えはすぐ後ろから返ってきた。
「僕達に何か用かな?」
男達が振り返ると、そこには吟遊詩人らしい二人の姿があった。
二人の手にはすでに抜き身の剣があり、月光を反射して青白い冴え冴えとした輝きを放っていた。
「てめえら、何者だ?」
ラティスの質問を無視して、男達も剣を抜く。
「ただの吟遊詩人だよ……こんな美しい月の夜なのに、剣を抜くとは無粋な人達だね」
「黙れ!」
男達は実力で黙らせようと、二人に斬りかかる。
こっちは四人で、相手は二人。
しかも相手はただの吟遊詩人風情で、その内の一人は女である。
圧倒的に自分達が有利なはずであった。
しかし狭い路地では二人が並んで剣を振るうのが精一杯で、二対二の構図になり、大人数の有利を生かせない。
しかも吟遊詩人風の二人は恐るべき手練れであった。
吟遊詩人らしい二人の、男の方に斬りかかった男は、何度か剣を合わせただけで剣を持つ右腕を浅く切られ、剣を取り落としてしまった。
それから少しの間を置いて、女の方に斬りかかった男も同じ結末を迎えた。
「くっ……貴様ら……」
男達は吟遊詩人風情に剣で負けるという惨憺たる結果に歯噛みする思いだった。
二人が鷹獅子騎士団の一員だと知っていれば、男達の傷付いた自尊心も少しは慰められるかも知れない。
しかし吟遊詩人らしい男は冷笑を浮かべて、人を食ったような事を言った。
「今夜の美しい月に免じて、見逃してあげるよ」
「………」
悠然と立ち去る二人。
男達は呆然として二人の後ろ姿を見送ったが、しばらくして我に返ると、負傷した仲間の応急手当てを始めた。
二人がいなくなって危機は去ったが、今は他の仲間の所に戻り、今後の対策を考えなくてはならない。
今回は破れたが、いずれより多くの人数で雪辱を晴らさなくてはならない。
しかしこの時、男達は気付いていなかった。
立ち去ったはずの吟遊詩人らしい二人がその場に舞い戻り、負傷者に肩を貸して人目を忍びながら隠れ家に戻る自分達の跡を付けていた事を。
翌朝、ラティスとシェリナは夜中の戦いの末に見付けた、反乱勢力の手先と思しき男達の隠れ家の前にいた。
街の中心部から離れた、人目に付かない場所である。
「さて、と。ラティス、これからどうする?」
信頼した表情でラティスを見上げるシェリナ。
しかしラティスは首を傾げて見せる。
「さあ……これからどうした物か」
「……おい、まさか何も考えていないのか?」
「もちろん考えたさ」
しかし正解は見付からなかった。
力ずくで錫杖を奪い取る?
現実的な方法とは思えなかった。
隠れ家にいる敵の数は不明だが、四人より多いのは確実だろう。
一対一ならともかく、相手の方が多数という状況で勝てるとはとても思えない。
そのために昨夜は細い路地に誘い込んだのだ。
「何かいい方法はないのか?」
「もし僕達だけで制圧できたとして、やってる事はただの強盗だよ」
そもそもラティスとシェリナがやっている事には法的根拠がない。
錫杖が見付かろうが見付かるまいが、ただの強盗の所業と処理される事になる。
鷹獅子騎士団という正規軍に所属しているからこそ、守られるべき事だった。
「それじゃあ八方塞がりじゃないか」
「そういう事だよ」
旅人のフリをしてシャルバサートに忍び込んだ二人の、これが限界だった。
「だけど……」
ここまでで充分じゃないかな?
そう言いかけたラティスの言葉を遮るように、街路の向こうから軍靴と甲冑の鳴り響く、彼らにとって聞き慣れた音が聞こえてきた。
そしてその先頭を歩く人物の姿もまた、見慣れた物だった。
「よっ、ご両人! 元気だったか?」
いつかしたように、陽気に声をかける。
「レ、レイバート様……」
シェリナの驚いた声。
「しかしお前ら、デートならもっと色気のある場所に行けよ。人気が少ないのはいいとして」
「デートじゃありませんっ!」
「恥ずかしいのはわかるが怒鳴る事ないだろう? 女の子なら女の子らしい恥ずかしがり方があるだろう?」
「………」
シェリナが黙ったのはレイバートの意見を受け入れたからではなく、この男に何を言っても無駄なのを悟ったのだろう。
「さて、再会のあいさつはこの辺にして、仕事を済ませる事にするか」
そう言ってレイバートは率いていた数十人の兵士に命令を下した。
もちろん、隠れ家を制圧するためである。
それから数刻後、ラティスとシェリナとレイバート、それにレイバートが率いてきた兵士の姿は馬上にあり、シャルバサートを離れて、鷹獅子騎士団の陣地に戻るところだった。
むろん、取り戻した錫杖と反乱勢力の手先の男達をシャルバサートの領主ラルセンに引き渡した後の事である。
この時、感激したラルセンはシャルバサートの兵力五千を鷹獅子騎士団に貸し出す事を申し出たが、レイバートは丁重にこれを断った。
精鋭の鷹獅子騎士団に実戦経験の少ない五千の兵力を加えたところで、却って足手まといになる。
シャルバサートの兵力が動かない事を確信しただけで充分なのだ。
そしてシャルバサートを離れてすぐ、レイバートは今までの事情を話した。
事前に領主との間で手紙でのやり取りがあった事。
錫杖が反乱勢力の手に落ち、それを理由に領主が脅迫されていた事を知ったアークザットは、レイバートを派遣して錫杖の行方を探らせた。
ついでに、というか悪戯心も働いたのかも知れない。
事情を知らせずにラティスとシェリナもシャルバサートに派遣したのだ。
そしてレイバートは部下を使って地道に捜査をして、錫杖の行方を突き止めたのだ。
「俺の話はこの辺で終わりだが……お前達の方はどうだった?」
「そうですね。まず……」
ラティスとシェリナは交互にこれまでの事を話した。
「なるほどなあ……しかしよく領主が錫杖をネタに脅迫されていた事がわかったなあ」
「え? そんな事、わかるわけないじゃないですか」
ラティスの言葉に、レイバートだけでなくシェリナまでぎょっとした表情になった。
そんな二人をよそに、ラティスは平然と言い放つ。
「そもそも証拠がありませんよ」
反乱勢力の手先が錫杖を盗んだという噂を流すラティスとシェリナを襲ったからといって、彼らが反乱勢力の手先だとは限らない。
ただの反乱勢力のシンパが、反乱勢力に言いがかりを付ける不届き者に思い知らせようと思っただけかも知れない。
もし反乱勢力の手先だとしても、本当に錫杖を盗んだとは限らないのだ。
「だけど、それでいいと思いましたから」
反乱勢力の手先がシャルバサートで暗躍している可能性は決して低くない。
あらぬ噂でも高い信憑性を持って広まれば、反乱勢力の手先にとって何かと制約になるだろう。
もし噂を流す自分達を狙う者がいれば、そこからたぐり寄せるように反乱勢力の手先なりシンパなりにたどり着く事もできる。
自分達は錫杖を盗んだ犯人を捜していたわけではない。
シャルバサートで反乱勢力の味方をする者達の妨害をし、その正体を突き止めただけなのだ。
自分達の広めた噂通りだったという事は、ただの偶然に過ぎない。
身体ひとつでシャルバサートに放り出された自分達にできる事はここまでだ。
領主のバックアップと数十人の部下を連れてきたレイバートならともかく。
「………」
「………」
シェリナとレイバートはそれぞれ「呆然」とか「唖然」とかいう題名が付きそうな彫像になってラティスを見ている。
二人の視線に居心地の悪さを感じながら、ラティスはさらに続ける。
「だけどひとつ確かな事もあったんです。将軍は、しばらく反乱勢力と戦端を開くつもりはないと思いました」
「どうしてわかった?」
「レイバート様がいるからです」
レイバートは鷹獅子騎士団きっての猛将である。
数に勝る反乱勢力との決戦において、鷹獅子騎士団にとって大きな損失になるに違いない。
それは分かり切っている事なのにレイバートを派遣したという事は、しばらく反乱勢力との決戦はない、もしくはするつもりがないと、アークザットが思っていたに違いない。
そして現に、自分ととシェリナがシャルバサートに来てから十日近く経つが、未だに鷹獅子騎士団と反乱勢力に小競り合い以上の戦いは起きていない。
反乱勢力との決戦を起こせなかった理由。
それは旗色の定まらないシャルバサートの領主にあったに違いない。
「……しかしラティス、結局、私達は何もできなかった」
これまで黙って話を聞いていたシェリナが口を開いた。
「錫杖を取り戻し、領主を味方に付けたのはレイバート様だ。私達は何も役に立たなかった」
結局、自分達にできたのは、怪しげな連中の隠れ家を突き止めたところまでである。
あと少し時間があれば、相手の出方とこちらの対応次第で錫杖を取り戻す事もできたかも知れない。
しかし実際には錫杖を取り戻していない以上、結果的には何もしなかったに等しいのではないか?
「必要な事はレイバート様に任せて……将軍は私達に何も期待していなかったのではないか?」
「そんな事はないと思うよ」
「しかし……」
なおも言い募ろうとするシェリナを制したのは、ラティスではなくレイバートだった。
「なあシェリナ。お前、アークザットからどんな命令を受けてここに来た?」
「え?」
シェリナは目を丸くする。
そう。
自分達は何ひとつ、具体的な命令を受けなかった。
ただ「シャルバサートに行って来い」と言われた以外には。
「アークザットがお前達に期待していた事は、今の鷹獅子騎士団が必要としている事を、二人だけでできる範囲で見付けられるか、という事なんだ。だから具体的な結果を必要としている物じゃない」
「………」
「ま、影から若者二人を見守っていた俺としては、充分に合格点だと思うがな」
にやにやと笑って、レイバートは締め括る。
対するシェリナは不満げな顔をラティスに向ける。
レイバートの言った事に、ラティスはかなり初めの段階から気付いていたが、シェリナには何も話さなかった。
どうやらその事が彼女は不満だったらしい。
しかしそれはラティス自身に責任のある事で、弁解のしようもなかった。
ラティスはシェリナの避難の視線を甘んじて受け止めると、視線をはるか彼方、鷹獅子騎士団が布陣している方角に向けた。
そこでは自分の忠誠と尊敬と憧憬の対象である、アークザットが待っている。
アークザットの期待に応えられた事は、もちろんラティスにとって非常に喜ばしい事であったが……一方でアークザットの側にあって、彼の勇姿を見上げ、彼の活躍を肌で感じたいという自分自身の気持ちを痛感していた。
自分の帰るべき場所は、アークザットの側なのだ。
そしてそこで待つのはより多勢の敵軍との戦いである。
しかしそれは同時に、強くなりたい、アークザットに追い付きたいという、少年の日の誓いを果たすために避けては通れない道なのだ。
昂揚する気持ちを押さえ切れずに……ラティスははるか彼方に思いを馳せた。
自分達が鷹獅子騎士団の陣地に帰り着いた時に、本当の戦いが始まる。
二人の英雄「錫杖の行方」 了
第3話「英雄達の戦場」に続く
あとがき
ど〜も、wen-liです。
「錫杖の行方」いかがだったでしょうか。
第1話がシリーズ全体の雰囲気とか世界観とかを描くのがテーマだったので、第2話からはいよいよ本格的に戦争を……。
とか思っていたのですが。
我らが主人公ラティス君はしっかりと女の子とデートを楽しんでいるようです。
っていうかアークザットの出番がなかったし。
っていうか謀略ミステリー(即席造語)としても中途半端だったし。
本当なら錫杖盗んだ犯人が領主自身とか領主の息子とかそういう展開が必要だったかも。
とりあえず第3話へ続く部分はきちんと描けたし。
あ、ちなみに第3話ではきちんと戦争する予定ですので、お許しを。
感想お待ちしてます。
でわでわ。
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