この小説はTacticsより発売されたWindows95用ゲーム「ONE〜輝く季節へ〜」をもとに作成されています。
 ゲーム中のテキストから引用した文章、あるいは改変された文章が含まれています。


雨の日の待ち人(前編)

「まだ……こんなところにいるの?」
 声が聞こえる。
 どこか遠く、手を伸ばしても届かないような、はるか遠くから。
「こんなところ、じゃないぞ」
 僕は言った。
「ここにはみんながいるんだ。おばさんとか、学校の友達とか。だから……」
「まだこっちには来れないの?」
「うん……たぶん……」
「今は無理でも、いつか来てくれるんだよね?」
「いや、ずっと無理だ。僕はずっとここにいるんだ」
「永遠に?」
「そうだよ。僕は永遠にここにいるんだ!」
 僕は言った。
「僕は……ずっとここにいるんだ……」

 目が覚めた。
 とにかく目が覚めた。
 何がなんでも目が覚めた。
 この俺、折原浩平はベッドから抜け出し、自分の部屋の真ん中に仁王立ちになった。
「ふっふっふ………ふわっはっはっはっはっはっ!」
 見たか、長森!
 ついに俺は勝ったぞ!
 お前が俺を起こしに来るより先に自力で起きたんだ!
 そして、見よ! この俺を祝福するような眩しいばかりの朝日を!
 俺は大股に窓まで歩いていくと、勢い良くカーテンを開けた。
 カシャアッ!
 ザーーーーーーーーーー……。
「………」
 なんだ雨じゃねえか。しかも徹底的にどしゃぶりの。
 う〜ん、せっかく早起きしたんだから、どうにか長森の奴を驚かしてやろうと思ったんだが……こうもどしゃぶりだとやる気が失せてきた。
「………」
 俺はしばらく考え込み、そして決めた。
 よし、長森は置いて一人で学校に行こう。
 まずは着替えをすませ、ベッドを直す……ついでに誰かが寝ているように偽装工作でもしておこうか。
 よいしょよいしょよいしょ……。
 よし、完成。長森の奴、きっと驚くぞ。
 一階に降り、おばさんが作っておいていった朝食を適当につまむ。
 さあ、靴を履いて出発!
 おっと、戸締まりをきちんとしていかないとな。
 それと今日は雨降りだから傘も忘れずに。
 さあ、今度こそ出発!

 外に出た。
 傘をさし、雨に濡れるアスファルトの道を歩く。
 雨のせいか、それともまだ朝早いせいか、道を歩く人はほとんどいない。
 通い慣れた通学路も、雨のカーテンごしに見るといつもと違って見える。
 いつも隣で口うるさい長森がいない事にも、いつもは感じない解放感のような物を感じていた。
「たまにはこういうのもいいな」
 そうつぶやいてみても、声は雨の音にかき消されて誰の耳にも届かない。
 それもまた、新鮮に思えた。
 しばらく歩くと、空き地の前を通りがかり、ふと立ち止まった。
 子供の頃、友達とみんなで秘密基地を作って遊んだ空き地だ。
 しかし今、俺の注意を引いたのは、子供の頃の思い出じゃない。
 ぼうぼうに伸びた枯草の中に埋もれるように、ピンク色の水玉模様の傘を斜めにさした女の子が立っていた。
 見覚えのある女の子……確か同じクラスだったはずだ。
 名前は里村茜。
 長い髪を二つに分けて身体の前に垂らしている。
 美人だけど……無口で近寄りがたい雰囲気なんだよなあ。
 俺だってろくに話した事がない。
 だけどあいつ、こんな所で何やってんだ?
 あんまりゆっくりしてると遅刻するぞ?
「お〜い……」
 呼びかけてから、里村と呼ぶべきか茜と呼ぶべきか決めていない事に気付いた。
 その中途半端な呼びかけに、里村茜は顔を上げ、俺の事に気付いた。
 一瞬。
 里村茜はピンク色の傘を放り出し、身体を翻した。
 靴に泥が跳ねるのも構わずに水たまりを蹴る。
 短い距離を飛ぶように走り、そして……。
 俺の身体に抱きついた。
「………」
 とっさの事で、俺はただ自分の傘を放り出して、里村茜の身体を受け止める事しかできなかった。
「……会いたかった……」
 里村茜が言った。
 その間にも、雨の雫は容赦なく俺と里村茜の身体に打ち付ける。
「帰ってきてくれるって思ったから……帰ってきてくれるって信じてたから……ずっと待ってました……」
「………」
「……だから……もうどこにも行かないでください……」
「おい、里村……」
 俺が辛うじて声を絞りだすと、里村茜は顔を上げた。
 俺の顔を見て、あっと小さな声を上げると、俺の身体から離れる。
 自分の傘を拾い、小さく頭を下げて小声でごめんなさい、と言うと、学校の方に走り去っていった。
 ……一体、何がどうなってんだ?
「あーっ! 浩平! やっと見付けた!」
 声に振り返ると……げっ! 眉を釣り上げた長森が立っていた。
「浩平、ひどいよぉ、私を置いて先に行くなんて!」
「いちいちうるさい奴だなあ! ……って長森、今何時だ?」
「えーっと……ああっ! 大変! もうこんな時間だよ!」
「よし、長森! 急ぐぞ!」
「浩平、待ってよ〜っ!」
 俺と長森は雨のカーテンの隙間をくぐり抜けるように走り始めた。

 ずぶ濡れになりながら、なんとか教室にたどり着いた。
「ふう、なんとか無事にたどり着いたな」
「はあ……浩平のせいでずぶ濡れだよ」
「おい長森、どうして俺のせいなんだよ」
「だって浩平のせいで学校まで走っていく事になったじゃない」
「走った分学校に早く着いたんだから、それだけ濡れなくてすんだじゃないか。感謝しろよ」
「走ったから傘がうまくさせなくて余計に濡れたんだよ!」
 まだぎゃーぎゃーと文句を言っている長森を無視して自分の席に座った。
 ちなみに前の席に座っている七瀬はなにやら頬杖をついて窓の外を見ている。
「おい、七瀬」
「ちょっと話しかけないでよ。私は雨に煙る景色を見ながら物思いに耽っているんだから……ふっ、乙女の為せる技よね」
「………」
 似合わない事を言ってる七瀬に何か言い返してやろうかとも思ったが、気が乗らないのでやめた。
 なんとなく教室を見回してみると、里村茜の姿が目に入った。
 机の上に教科書やノートや筆箱などを並べ、周りの友達とおしゃべりをする事もなく、ただじっと自分の席に座っている。
 黙って座っているとフランス人形か何かのようだ。
 ……だけどあいつ、今朝はどうして俺に抱きついたりしたんだ?
 それ以前に、あの雨の中、一人で突っ立って何をしてたんだ?
「ちょっと浩平!」
「……ん?」
 声に振り返ると、七瀬の心配そうな顔があった。
「急に黙ってどうしたの? 何か考え事?」
「七瀬には関係ねーよ」
「何よ! 人がせっかく心配してるのに!」
 そう言うと、七瀬は怒ってぷいっと正面を向いてしまった。
 ……そう、関係ない事なんだ。
 里村が何をしていようと、俺には……。

 退屈な授業が終わって昼休みになった。
 さて、昼飯でも食うか。
 机の上に俺様の豪勢なランチを並べる。
 ……ただの菓子パンだけど。
 袋を破ろうと手をかけて……一歩手前でやめた。
 自分の席でピンク色の小さな弁当箱を開いている里村茜の姿が目に入ったからだ。
「………」
 少しためらった後、俺は席を立って歩いていった。
 そして里村茜の前の席に座っている南に話しかける。
「おい、南」
「なんだよ、俺は忙しいんだぞ」
「さっき、お前に用があるって人が来てたぞ」
「ふ〜ん」
「女の子」
「なにっ! どこだ! どこにいるんだ!?」
「廊下で待ってるから、早く行ってやれ」
「おう!」
 南は教室を飛びだしていった。
 ……バカな奴。さっきまで俺は窓側にいたのに。
 俺はさっきまで南が座っていた席に後ろ向きに座った。
「よう、里村」
「………」
 俺はさわやかに声をかけたが、里村は嫌そうな顔で俺を見る。
「何か用ですか?」
「いや、用というほどじゃないんだけどね。今朝、空き地で何やってたんだ?」
「……ごちそうさま」
 里村は俺の問いかけを無視し、まだ半分以上残っている弁当に蓋をして、席を立って教室を出ていった。
「………」
 一人取り残された俺は、悔しいから後ろ向きに座ったままパンを食べ始める。
 南が戻ってきた。
「おい、浩平! 女の子なんて誰もいないじゃないか! ……って何やってんだ? 一人で後ろ向いて座って」
「……知らん」
 パンを食べ終えると、自分の席に戻った。

 午後の授業が終わった。
 適当に住井達と世間話をした後で学校を出ると、外はまだ雨降りだった。
「……やれやれ」
 朝と同じように傘をさして歩く。
 こう雨降りだと、寄り道するのも嫌だけど……家に帰ってもヒマなんだよなあ。
 しばらく歩くと、近所の空き地にさしかかった。
「………」
 朝に通った時と同じように、彼女はそこにいた。
 ピンク色の傘をさして、ぼうぼうに伸びた枯草の中に埋もれるようにして。
 寂しげな目を、悲しげな瞳を、すがるような眼差しを伏せて、里村茜は立っていた。
 俺は声をかけようと、一歩踏み出した。
 踏み出した足が水たまりに踏み込み、その音で里村茜は顔を上げた。
「………」
「よお、また会ったな」
 俺は里村に近付いていった。
 地面は雨を含んで泥のようになっていて、一歩踏み出すたびに靴が泥で汚れていく……よく見ると里村の靴もすでに泥だらけになっていた。
「………」
「ここでなにやってんだよ」
「………」
 里村は一瞬だけ目線を伏せ……またまっすぐ俺を見て言った。
「……待っているんです」
「待っている?」
 ここで待っている?
 何を待つって言うんだ?
 この空き地で。
 枯草の他には何もない、この空き地で。
「待っているって……何を待っているんだよ」
「………」
 里村は俺の問いかけには答えず、ただ目を伏せる。
 そして一言、こう言った。
「……あなたにはわかりません」
「………」
 俺が何も言えずにいる間も、ただ雨は降り続いていた。

 家に帰っても雨はまだ降っていた。
 里村はまだ空き地にいるのだろうか。
 そして里村はなんのために空き地にいるのだろうか。
 そんな事を気にしながら、そしてその事を忘れようとテレビを見たりマンガを読んで大笑いして……それでもやっぱり里村の事を考えていた。
 明日は晴れるといいな。
 そんな風に思いながらベッドに入った。

「おにいちゃん、雨は好き?」
 みさおがそんな事を聞いてきた。
「嫌いだよ」
 僕はそっけなく答える。
「雨が降ったら、靴の中がぐちゃぐちゃになって気持ち悪いじゃないか」
「ふうん……みさおは好きだよ」
「雨が?」
「うん」
「靴の中がぐちゃぐちゃになっても?」
「今は雨が降っていても、雨がやめば乾くから平気だよ」
「ふ〜ん……じゃあ、いつまで経っても雨がやまなかったら?」
「やむよ」
 みさおが笑って言った。
 自信に満ちたみさおの笑顔を見て、何故か僕は腹立たしくなった。
 ムキになって言い返す。
「やまないよ」
「それでも、いつかきっとやむよ」
 みさおは言った。
「みさおはそう信じているから……信じる他に何もないから……」

 ジリリリリリリリリリリ……。
 …………………………………。
 ジリリリリリリリリリリ……。
 …………………………………。
 ジリリリリリリリリリリ……。
 …………………………………。
 ジリリリリリリリリリリ……。
 …………………………………。
 ジリリリリリリリリリリ……。
 …………………………………。
 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ…………………………。
 ……ええいっ、うるさいっ!
 げしっ!
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 ふう、やっと静かになった。
 これでゆっくりと眠れる……ぐう。
「浩平! 早く起きないと遅刻するよっ!」
 ぐいっ。
 ずるっ。
 バタン。
 ……いてえ。
「浩平〜〜〜、早く起きてよ〜〜〜〜」
「起きてるよっ!」
 俺は身体を起こし、俺の身体を揺する長森を怒鳴った。
「だいたいなあ、人がベッドから落ちて痛がってるんだ! 少しは謝るとか心配するとかしたらどうなんだ!」
「浩平、ごめんね? 痛かった? ……これでいいの?」
「まあそんなところか」
「ほら、学校の支度」
 そう言って長森は制服を俺に押し付けてくる。
 ちえっ、仕方ない。
 今日のところはこれくらいで勘弁してやるか。

 昨日の夜遅くまで降っていた雨はもう上がっていた。
 晴れ渡った青空を見上げながら、まだ雨に濡れた町を長森と並んで歩く。
 ベッドから落ちて一発で目が覚めたせいで、いつもより少し時間に余裕がある。
「浩平、今日はいつもより早起きできたから、気持ちいいよね」
「うう、眠いーっ」
「明日も今日みたいに早く起きれたらいいね」
「寝不足で授業中に居眠りしたら、長森のせいだからな」
 そんな事を話しながら歩いていると、少し前に里村が歩いているのを見付けた。
「長森、悪いけど先に行く」
「あ、ちょっと待ってよ!」
 文句を言う長森を無視して走り出す。
 すぐに里村の隣に並んだ。
「よお、また会ったな」
「………」
 俺は明るく声をかけたが、里村は無言でちらっと視線を向けるだけだ。
「今日は空き地に立っていなくていいのか?」
「………」
 それでも里村は無言だった。
 俺がまた口を開こうとした瞬間、
「……あなたにはわかりません」
 俺の言葉を遮るように、里村が言った。
「………」
 俺は喉まで出かかった言葉を飲み込む。
 わかるもわからないも何も……。
「浩平!」
 長森が俺と里村の間に割って入ってきた。
「なんだよ、俺は里村と話してるんだ。邪魔するなよ」
「なに言ってるのよ。里村さん、嫌がってるよ! ……あ、ごめんね、里村さん。浩平に何か変な事言われなかった?」
 ……変な事ってなんだよ、変な事って。
 だいたい、なんだその「私は浩平の保護者です!」みたいな態度は。
「……いえ」
「そう、良かった……それじゃあ里村さん、また学校でね。ほら、浩平!」
 そう言って長森は俺の手を引っ張る。
「……あの」
 その時、里村が口を開いた。
「……二人は幼なじみなんですか?」
「………」
「………」
 脈絡のない里村の言葉に、俺と長森はそろって黙り込んでしまった。
 しばらくして長森が口を開く。
「うん、まあそうだけど」
「幼なじみっていうよりは腐れ縁だな」
「浩平、ひどいよお。毎朝起こしてあげてるのに」
「……うらやましいです」
 里村が言った。
「腐れ縁でも……うらやましいです」

 この後、俺と長森と里村の三人は学校まで並んで歩いていった。
 俺と長森は適当に話が弾んだが……里村はずっと黙り込んで、俺と長森が爆笑していてもにこりともしない。
 そのせいで俺も長森もなんとなく気が引けてしまった。
 ……別に里村を笑わせる義務なんかないんだが。

 さて、と。一時間目の授業はなんだっけな?
 ……と思ったら教室がやけに騒がしいな。
 ……………。
 あ、そうか。
 朝、教室に着いてすぐ居眠りしてしまったから、自分でも気付かない内に昼休みになってたんだ。
 失敗失敗。
 さて、と。今日の昼飯は……。
 俺は机の中から菓子パンの袋を取り出した。
 それを抱えて南の席に向かう。
「よお、南、ひとつ頼みがあるんだが……」
「席なら絶対に貸さないからな」
 俺は愛想よく笑ったが、南は思いっきり嫌そうな目で俺を見る。
「昨日は浩平に騙されて、廊下にいた女の子に片っ端から『俺に用事がある女の子って君?』って話しかけて変な目で見られたんだからな!」
 それは確かに変だな。
 その時廊下にいた女の子、ごめん。
「とにかくこの席は絶対に貸さないからな!」
「う〜ん、それじゃあアイドル歌手が来ているから、サインをもらいにいくなら今のうちだっていうのはどうだ?」
「絶対に嘘だ!」
「それじゃあ……やっぱりやめた。南、その席は諦めた。好きに使ってくれ」
「言われなくても好きに使うが……だけどどうして?」
「だって里村がいないじゃないか」
「………」
 俺が南の席を借り受けようと、紳士的に、かつ友好的に交渉しているうちにどこかへ行ってしまったらしい。
 俺は里村を追いかけるために廊下に出た。
 さて、里村はどこへ行ったんだろう。
 昼飯を食べる場所……。
 食堂? いや、あいつはたぶん弁当を持ってきているはずだ。
 食堂で弁当を食う奴もいるが、今の時間帯は混んでいる。
 里村の事だから、人の多い食堂には行かないだろう。
 そうすると……中庭か。
 今の時期だと少し寒いかも知れないが、とにかく行ってみよう。

 中庭に出た。
 うーっ、寒い。
 里村の奴、本当にこんな寒い場所で飯食ってるのか?
 え〜と……あ、本当にいた。
 植え込みの影に座って、ちょうど弁当箱の蓋を開けた所だった。
「よお、また会ったな」
「………」
 俺はさり気なく声をかけるが、里村は無言で俺に嫌そうな視線を送る。
「隣、座ってもいいか?」
「………」
 それでも里村は無言だった。
 嫌だと言わないのは隣に座ってもいいからなんだろう、たぶん。
 俺は勝手に里村の隣に腰を下ろし、菓子パンの袋を開ける。
「里村は中庭が好きなのか?」
「……いえ」
「じゃあどうして中庭で昼飯食ってるんだよ。こんなに寒いのに」
「人が来ないからです」
「そりゃそうだよな。誰もこんな寒い場所で飯食おうなんて……」
 言いかけて、途中でやめた。
「……もしかして俺、邪魔なのか?」
「はい」
「………」
 はっきりと言うな、はっきりと。
 その後に会話が続かないじゃないか。
「………」
「………」
 しかしまあ、どっちにしても里村と一緒にいても……。
「………」
「………」
 話題がないよな、話題が。
「………」
「………」
 俺の方から話しかけないと……。
「………」
「………」
 里村もしゃべらないから、静かになってしまう。
「………」
「……昨日も菓子パンでしたね」
 とかなんでもいいから話しかけてくれると……。
 ……え?
「……里村、今、なんて言った?」
「昨日も菓子パンでしたね、って言いました」
「………」
 里村の方から話しかけてくるなんて珍しい。何事かと思ったぞ。
「いつも菓子パンなんですか?」
「う〜ん、確かにここしばらく菓子パンばっかりだな」
「そんな物ばかり食べていると、栄養失調になりますよ?」
「別にいいじゃないか」
「よくありません」
「それじゃあ、里村が弁当でも作ってくればいいだろ?」
 俺がやや乱暴に言うと、里村はしばらく黙り込んだ。
 そして口を開く。
「……はい」
 え? 今、なんて言った?
 そうこうしている間に昼休みの終わりのチャイムが鳴った。
 里村は空になった自分の弁当箱を片付けて、教室に戻ろうと歩き始めている。
「おい、ちょっと待てよ」
 俺はパンの最後のひとかけらを口に放り込み、里村の後を追った。

 その日の夜は珍しく由起子おばさんが帰ってきた。
 二人で向かい合って食事をするのも久しぶりだと思いながら、学校であった事なんかを話した。
 だけど里村の事だけは話さないでおいた。
 いつか笑って話せる日が来るのだろうか。

「ねえお兄ちゃん、雨が上がったら、虹が見れるかな?」
「どうだろうな……晴れて太陽が出たら見れるかも知れないけど、曇ったままだったら見れないよ」
「じゃあきっと晴れるよね?」
「そうだな。みさおがそう信じているなら、きっと晴れるよ」
「うん」
 だけど僕は知っている。
 そもそも雨が上がるとは限らない。
 雨が上がったとしても、雲の隙間から太陽が顔をのぞかせるとは限らない。
 太陽が出たとしても、虹がかかるとは限らない。
 僕がみさおに虹を見せてあげられる可能性はほとんどないんだ。

 翌日の昼休み、住井とバカな話をしていたせいで少し遅れて中庭に行くと、すでに里村は植え込みの影に行儀よく座って弁当を広げていた。
「よお、また一人寂しく昼飯か?」
「……余計なお世話です」
 確かに余計なお世話だな。
 里村の隣に腰を下ろすと、目の前に布で包まれた四角い箱が現われた。
「………」
 見ると里村が無言でその箱を突き出している。
「なんだ? これは」
「……お弁当です」
「弁当? 俺に?」
「はい。約束でしたから」
 そういえばそんな事言ってたような言ってなかったような……。
「……ありがとう」
 とりあえず受け取って開けてみる。
 女の子らしく、それなりに彩りのある弁当。
 一目見た限りでは毒物らしき物は入っていない。
「……食べないんですか?」
 里村が聞いてくる。
 食べればいいんだろ、食べれば。
 一緒に入っていた割り箸を割る。
「………」
 里村が無言で俺が食べるのを見ている。
 う〜、何だか食べづらい。
 まずはご飯を一口。
 続けておかずを一口。
 う〜ん、これはなかなかうまい。
 この卵焼きの味付けと焼き具合はなかなか。
 鳥の唐揚げもいい感じだ。
 ぱくぱくもぐもぐ……。
 あ、しまった。あっという間にみんな食べてしまった。
 ちくしょう。もっと味わって食べれば良かった。
「ありがとう、里村。うまかったよ」
 蓋をしてから弁当箱を里村に差し出した。
「………」
 しかし里村は無言でその弁当箱を見て、ややあってから口を開いた。
「……茜です」
 一瞬、里村が何を言っているのかわからなかった。
「……私は名字より名前の方が好きですから」
 なるほど。
 続く里村の言葉で、ようやく意味がわかった。
「ありがとう、茜。うまかったよ」
「はい」
 うなずいて、茜がようやく弁当箱を受け取る。
「……確か浩平、でしたよね?」
「ああ」
「今度からそう呼びます」
 茜が言う。
 いつもと同じ無表情だった。
 だけど……いつもより少しだけ嬉しそうに見えた。

 今日は一日中晴れていた。
 明日も今日みたいに晴れてくれよ。
 そんな事を考えながら布団に潜り込んだ。

「お兄ちゃん、今日はなんだか嬉しそうだね」
 みさおがいる。
 とても嬉しそうに笑っている。
 だけどそこは手の届きそうな場所で……そして手を伸ばしてはいけない場所なんだ。
「そうかな?」
「そうだよ」
 ようやくわかった。
 みさおが笑っている理由だ。
 僕が笑っているからだ。
 僕が楽しそうだから、みさおも笑っているんだ。
「なにか嬉しい事があったの?」
「うん……今までわからなかった事がちょっとだけわかった気がするんだ」
「ふうん、そうなんだ」
 みさおは笑っている。
「これからももっとわかっていけるといいね」
「うん」
 僕はうなずいた。
 だけど同時に胸の痛さを感じる。
 僕が笑うとみさおも嬉しそうに笑う。
 そして嬉しそうなみさおを見て、僕は辛い気持ちになる。
 僕にはみさおのためにできる事が何もないから。
 みさおを幸せにしてやる事ができないから。

 今日は日曜日だ。
 目覚まし時計も仕掛けずに眠ったおかげで、もう十二時を回っている。
 せっかくの日曜日だというのに外はどしゃぶり。
 雨の中ゲーセンに行くのも面倒だ。
 とりあえず昼飯でも食うか。
 残りのご飯とありあわせの材料をフライパンに放り込んでチャーハンを作る。
 ……そういえば昨日の晩飯もチャーハンだったか。
 まあ他に作れる料理もないし、仕方ないか。
 自分で作った昼飯を食べ、その後はベッドに寝転がってマンガでも読む。
 しかしお気に入りのマンガも、何度も読んでいるせいか飽きてきたなあ。
 今度住井の家に乗り込んで新しいマンガを略奪してくる事にしよう。
 だけど今は雨が降っているから、ここにあるマンガだけで我慢して……。
 ……………。
 ザーーーーーーーーーー……。
 ……………。
 雨のせいか、どうも集中できないなあ。
 ザーーーーーーーーーー……。
 ……………。
 ザーーーーーーーーーー……。
 ……ああ、わかってるよ。
 行けばいいんだろ? 行けば。
 俺は読みかけのマンガを閉じて一階に降りた。
 玄関で靴を履いて傘を取り、外に出た。
 降りやまない雨の中へ。

「う〜っ、寒いなあ」
 冬が近いせいか、空気が凍えるほど冷たい。
 傘を持っていない方の手に息を吹きかけながら歩いていると、途中で自動販売機を見かけた。
 もう暖かい飲み物が入っている。
 その中からコーヒーとココアを選んで買い、ジャンパーのポケットに放り込む。
 また空き地に向かって歩き始めると……いた。
 長く伸びた枯草の中に、ピンク色の傘をさした茜が立っている。
「よお、また会ったな」
「……浩平」
 俺が声をかけると、茜はゆっくりとした動作で顔を上げた。
「雨が降ってるから茜がいるんじゃないかと思ったんだ」
「………」
「ほれ、差し入れだ」
 茜の目の前に、さっき買ったばかりの缶コーヒーを差し出す。
「………」
 とりあえず缶を受け取った茜だったが、何があったのかよくわからない、といった表情で自分の手の中の缶コーヒーを見ている。
「俺のおごりだ。遠慮なく飲んでいいぞ」
 そう言って俺も自分のココアをよく振り、プルトップを開けてから口に運びかけて、
「………」
 茜がじっと俺の手の中を見つめている事に気付いた。
「……どうした?」
「そっちがいいです」
「………」
 茜にココアを渡して、代わりにコーヒーを受け取る。
 ココアを受け取った茜はそれを一口飲んで、ふうっと白い息を吐いた。
「うまいか?」
「はい……とてもおいしいです」
 茜が言う。
 笑顔。
 茜の笑顔。
 安心しきった笑顔。
 茜のこんな笑顔……初めて見た気がするな。
「浩平?」
「ん?」
「どうしたんですか? 私の顔、ずっと見てます」
「……え? あ、いや、なんでもない」
 慌てて目を逸らす。
 照れ隠しにコーヒーを口に運んだが、まだプルトップを開けていない事に気付いただけだった。
「………」
 俺はなんとなく悔しい気持ちになりながら、改めてプルトップを開けてコーヒーを一口飲む。
「ふう……」
 冷えた身体に暖かいコーヒーが染み渡っていくような気がする。
「おいしいですか?」
「ああ」
「そうですか」
 茜は目を逸らして、別な方向を向いた。
 その目は何かを見ているようで、何かに向けられただけのようにも見える。
 その横顔に向かって、俺は話しかける。
「なあ茜、いつもここで何してるんだよ」
「………」
 しかし茜は黙ったままだ。
 まあ、なんでも隠し事なしに話し合えるような仲じゃないから仕方ないか。
 俺はひとつため息をついて、正面を向いた。
「……確か浩平には幼なじみがいましたよね?」
 突然、茜がわけのわからない事を言い出した。
「ああ、長森の事か。確かに幼なじみといえば幼なじみだな」
「……私にも幼なじみがいました」
 いました?
 今はいないっていう事か?
「あの人は人の気持ちも知らないで、いつも突拍子のない事をして周りの人に迷惑をかけてばかりいる人でした」
「………」
「ついでにだらしがなくて、いつも周りの人に世話を焼かせてお礼のひとつもありませんでした」
「……なんだかひどい奴じゃないか」
「そうですね。だけど……」
 茜は言った。
「だけど……本当に好きでした」
「………」
「本当は繊細で優しくて、笑っていても実は自分が一番傷付いている……そういう人でした」
「………」
「そしてその事を、そういう面を持っている事を、私だけが知っていました」
「………」
「だから……本当に好きでした」
 そして茜は寂しそうに目を伏せる。
 知らなかった。茜にそんな幼なじみがいたなんて。
 ……待てよ、確か前に茜は、待っている、とか言ってたよな。
「茜、もしかしてお前、その幼なじみを……」
 待っているのか?
 そう言いかけて、口ごもる。
 その幼なじみを待っているとして、どうしてここで待っているんだ?
 この何もない空き地で。
 それも雨の日に限って。
「……浩平にはわかりません」
 茜がぽつりとつぶやくように言う。
 その間も、雨はただ降り続いていた。

 その日の夜は珍しく住井から電話がかかってきた。
 最初は適当な雑談をしていたが、途中で「学食のラーメンとカレー、どっちがお買い得か」、というどうでもいい話題が妙に白熱してしまい、電話を切った時には深夜になっていた。
 明日の朝が心配……と思ったが、どうせ長森が起こしてくれるから安心か。

「……あったかいね」
 みさおが言った。
「え? 何が?」
「お兄ちゃん。一緒にいる時はすごく暖かい気持ちになれるよ」
「そうか」
「だからもう少しだけ……一緒にいて」
「うん」
 そして思う。
 あいつにはそういう人がいるのだろうか。
 暖かい気持ちにさせてくれる人が。

 次の日の放課後、ヒマ潰しにゲーセンにでも行こうかと商店街をぶらついていたら、茜の姿を見付けた。
 なにやら女の子が長い行列を作っていて、その中に茜の姿も混じっていたのだ。
 しかしまあ、他の女の子はみんなわいわい騒いでいるのに茜だけは無愛想な表情だから、周囲から浮きまくっている。
 俺は近付いていって茜に声をかけた。
「よお、また会ったな」
「……浩平」
「この行列はなんなんだ?」
「山葉堂です。今日は新製品が出ますから」
 なるほど。
 山葉堂は女の子に評判のワッフルの店だ。
 俺も長森に付き合わされて何度か食べた事があるが、なかなかの味だ。
「新製品か。それなら行列ができるわけだ」
「浩平の分も買ってきましょうか?」
「え? いいのか?」
「昨日のココアのお礼です」
 それはありがたい。
 俺も甘い物は大好きだからな。
「それじゃあ頼む。向こうで待ってるから」
「はい」
 茜に見送られて、俺は行列から離れていった。
 ……ところで新製品ってどんなのなんだ?

 しばらくして紙袋を抱えて茜が戻ってきた。
「お待たせしました」
「え〜と……それじゃあどこで食おうか」
「近くに公園がありますから、そこに行きませんか?」
「そうだな」
「でもその前にお金払って下さい」
 そう言って手を差し出す。
「……茜のおごりじゃなかったのか?」
「違います」
 ちえっ、やっぱりそうだったのか。

 夕日に染まる公園は子供が何人か遊んでいるだけで、なんとなく寂しい感じだった。
 俺と茜は誰もいないベンチに座る。
「どうぞ」
 茜が紙袋を差し出す。
 俺はその中からワッフルをひとつ取り出し、一口かじった。
「……うぐっ」
「おいしいですか?」
「………」
 茜が聞いてくるが、俺は返事ができなかった。
 あ、甘い……どうしてこんなに甘いワッフルが作れるんだ!?
 いくら俺が甘党でも、ここまで甘いワッフルは食べられないぞ!?
「………?」
 そんな俺の様子を訝しげに見ながら、茜もワッフルを一口かじる。
「………」
 もぐもぐもぐ。
 茜の口がゆっくりと動いて口の中のワッフルを食べる。
 そして一言、
「……おいしいです」
 と言った。
「何っ!? 本当か!?」
「はい」
「実は食べたふりして袖の中に隠してたりしてないか!?」
「どうしてそんな事しなくちゃいけないんですか?」
 ……それもそうか。
 しかし茜の奴、どうしてこんなに甘い物を平気な顔で食べれるんだ?
「浩平は食べないんですか?」
「……どうしても食べなきゃダメなのか?」
「ダメです」
 ……ちくしょう。食べればいいんだろ、食べれば。
 ぱく。
 う……死ぬほど甘い……。
「なあ茜、ソースかケチャップはないか?」
「ありません」
 やっぱりないか。
 しかし死ぬ気で食べればなんとかなるかも。
 ぱく。
 ぐ……本当に死ぬかも……。
 それでもなんとか半分くらいは食べたかな?
「もうひとつありますから。遠慮なく食べて下さい」
「………」
 茜……俺を殺す気か?
 などとやっていると、鼻の頭に冷たい感触を感じた。
「………?」
 空を見上げると、黒い雲が俺達の頭上を覆っていた。
「雨?」
 続いて一滴、二滴と次々と雨は降ってくる。
 さっきまで晴れていたのに。
 夕立か。
「茜、とりあえず俺の家に来ないか?」
 俺は茜に言ったが、
「ごめんなさい」
 返事は冷たい言葉だった。
 茜はカバンの中から折り畳み式の傘を取り出していた。
「私、急に用事ができましたから。ワッフルの残りは浩平にあげます」
 茜はそう言って俺に背を向けて歩きだす。
 ……茜、どうしても行くのかよ。

「よお、また会ったな」
「……浩平」
 俺が声をかけると、茜が驚いた表情で俺を見上げた。
 なんの事はない、ただ単に一度家に帰って傘を取ってきただけだ。
 しかし茜も今度ばかりは俺は来ないと思っていたのだろう。
「……どうしてここに来たんですか?」
 どうして?
 そう、どうしてなんだろう。
 最初はただの好奇心だった。
 ろくに話した事もないクラスメートが、雨の中、何もない空き地で立ち尽くしているのが興味を引いただけだ。
 だけど今は……いや、そんな事はどうでもいい。
「とりあえず、忘れ物を届けに来たのかな?」
 そう答えてワッフルの入った紙袋を差し出す。
「………」
 茜は無言でその中からワッフルを取り出し、口元に運ぶ。
「冷めちまってあんまりおいしくないかも知れないけどな」
「……いえ、そんな事ないです」
「そうか。良かったな」
 俺もワッフルを取り出して食べ始める。
「なあ茜、俺達、一体なにやってるんだろうな……」
「……さあ、何をしているんでしょうね」
 真顔で答える茜。
 雨はまだ降り続いていた。

 辺りがすっかり暗くなってから家に帰った。
 仕事を早く切り上げて帰ってきた由起子おばさんが作ってくれたシチューの暖かさに、自分の身体が冷え切っていた事に気付いた。

「ねえ、お兄ちゃん」
「ん? どうした、みさお」
「………」
 だけどみさおは黙ってしまった。
 黙ったままのみさおを見ていると、段々と不安になってくる。
 みさおの声が聞こえなくなったのだろうか。
 僕の声は届くのだろうか。
 それともみさおは声の届かない所に行ってしまったのだろうか。
 僕が不安に耐えかねてきた頃、みさおが口を開いた。
「……お兄ちゃんは……みさおと一緒にいるのが嫌なの?」
「そんなわけないよ!」
 僕は思わず怒鳴っていた。
 そしてみさおの驚いた表情を見て、怒鳴った事を後悔する。
「ご、ごめん……ごめんな、みさお」
「ううん、悪いのはみさおだよ。お兄ちゃんにはおばさんとか友達とか大切な人達がいるから、こっちに来れないのに……」
 違うよ、みさお。
 僕はみさおのために一歩を踏み出せない自分を、周りの人のせいにしているだけなんだから。

「浩平〜〜〜、起きてよ〜〜〜」
 ゆさゆさゆさ………。
 身体が揺れる。
 きっと長森が俺を起こしにきたんだろう。
「長森、あと三分だけ待ってくれ」
「ダメだよ。遅刻しちゃうよ」
「石の上にも三分って言うじゃないか。だから俺はこれから三分間寝ていなくてはならないのだ」
「そんな事、誰も言わないよ!」
 ゆっさゆっさゆっさ………。
 揺れ方が激しくなる。
 仕方ない。そろそろ起きるとするか。

 いつもと同じように、朝早い通学路を長森と並んで走る。
「このまま走ればなんとか間に合いそうだね」
 走りながら長森が言う。
 なんだか知らないがにこにこ笑っている……なんだか薄気味悪いなあ。
「いいや、わからないぞ。物陰から七瀬が飛び出してきてタックルをかましてきたら、間に合わなくなるぞ」
「いつも浩平の方が突き飛ばしたり肘鉄を入れたりしてるじゃない」
「あれ? そうだったか?」
「うん、そうだよ」
 長森はそう言うが、表情が笑っている。
 どうしたんだ? こいつ、何か悪い物でも食ったんじゃないか?
「なあ、長森、さっきからどうしたんだ? 表情が弛みっぱなしだぞ」
「え? そう?」
「何かいい事でもあったのか?」
「うん、実はね……」
 長森は立ち止まり、カバンの中に手を入れてごそごそと探る。
 そして中から取り出した物を俺の首に巻き付ける。
「……なんだ? これは」
「マフラーだよ。浩平にプレゼント」
 暖かい毛糸のマフラー。
 手編みのようだが、出来栄えは悪くない。
 長森の奴、いつのまに編み物なんて覚えたんだ?
 しかし……色が真っ赤なんだよなあ。
 男の俺にはちょっと似合わないぞ。
「……誕生日はまだ先だったはずだが」
「誕生日じゃないよ。今日はクリスマスイブだよ」
「あ、そうか」
 そういやあ、そんな日もあったか。
 ……それはそうと、今はそんなに寒くないし、こんな恥ずかしいマフラーつけたままじゃ学校に行けない。
 俺がマフラーを外そうと手をかけると、
「あ、ダメだよ、つけててよ!」
 長森に怒られた。
「だってなあ、今まで走ってたから暑いんだよ」
「うん……」
 長森が落ち込む。
 全く、しょうがない奴だな。
「寒い時はちゃんとつけるよ。それでいいだろ?」
「うん。そうだね」
「……いけね。急がないと間に合わなくなる……長森、走るぞ!」
「あっ! 待ってよ! 浩平〜〜〜!」
 マフラーをポケットに押し込んでから走り出す。
 ……あ、長森にお礼言うの忘れてた。

 終業式が終わった。
 教室に戻り、担任から適当に冬休みの注意事項などを聞くと、この日の日程はみんな終わった。
 帰る支度や友達との雑談で騒がしくなった教室の中、俺は茜に話しかけた。
「茜、これから家に来ないか?」
「嫌です」
 はっきりと言うな、はっきりと。
「用事でもあるのか?」
「はい」
「友達とクリスマスパーティか?」
「違います」
 そうだろうな。茜には一緒にクリスマスパーティやるような友達はいないか。
「……これから雨が降るんです。今朝の天気予報で言ってました」
「雨? 本当かよ。外はこんなに……」
 あ、雲行きが怪しくなってる。いつのまに……。
「……さようなら」
 そう言って茜は教室を出た。
 俺は慌てて後を追いかけ、廊下で茜の隣に並ぶ。
「じゃあ、雨が降るまで俺の家でクリスマスパーティっていうのはどうだ?」
「………」
 茜はしばらく考え込み、そして答えた。
「はい、それなら構いません」

 俺と茜は並んで学校を出た。
 途中でケーキ屋に寄る。
 茜は物欲しそうにクリスマスケーキを見ていたが、二人では食べ切れないので小さなショートケーキをひとつずつ買って俺の家に向かった。
「いいか、茜。耳の穴かっぽじってよーく聞けよ」
「はい」
「ここが俺の家だ」
「……はい」
 どうやら茜はあまり感動しなかったらしい。
 ……当たり前か。
 ドアの鍵を開けて家に入り、玄関先で靴を脱いでいると、茜が話しかけてきた。
「家の人はいないんですか?」
「ああ、由起子おばさんはいつも仕事が忙しいからな。今日は誰もいない」
「おばさん?」
「そうか。茜は知らなかったのか。両親は俺が子供の頃に死んだんだ。今はおばさんのところに世話になってる」
「そうだったんですか……ごめんなさい」
 聞いちゃいけない事を聞いてしまったと思ったんだろうか。
 茜の奴、暗い表情でうつむいている。
「謝るなよ。俺は気にしてねえから」
「……はい」
 俺達は居間に上がった。
「お茶煎れてくるから。そこで座って待ってろ」
「あ、私がやります」
「そうか。じゃあ任せる」
「はい」
 二人で台所に行く。
「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「え〜と、それじゃあ紅茶……なあ茜、お茶を煎れるだけなのにどうしてエプロンをするんだ?」
「気分の問題です」
「そういうもんなのか? まあいいけど」
 茜は手際よく紅茶を煎れる準備をしていく。
 他人の台所だっていうのに、手慣れたもんだ。
「浩平」
「ん?」
「浩平には兄弟はいないんですか?」
「うん……みさおっていうんだけどな……妹がいた」
「………」
 茜は小さく、あっと声を上げて、またうつむいてしまった。
「だから気にしてねえって。ガキの頃の話だからな」
「……はい」
 紅茶を煎れ終え、俺達はまた居間に戻ってきた。
 ソファに座り、茜が煎れてくれた紅茶をすすりながらそれぞれのケーキを食べる。
 無口な茜と二人だから、当然のように黙々とフォークを動かす事になる。
「浩平」
「ん?」
「これのどこがクリスマスなんですか?」
「……さあ」
 クリスマスツリーはないし、それらしい飾り付けもしていない。
 唯一あるのはクリスマスケーキじゃなくてショートケーキだけだ。
 だけど、もしここにクリスマスツリーがあったとしても、やっぱりクリスマスらしくならない気がするのは何故だろう。
「だけど……」
 茜が口を開いた。
「ケーキがおいしいからそれでいいです」
「……そうだな」
 それからしばらく、俺は適当に世間話をして、茜は適当に相づちを打ちながらそれを聞いていた。
 茜が時々、窓の方に視線を向ける。
 雨が降っていないか気にしているのだ。
 それがわかるから、茜が俺から目を逸らす度に辛い気持ちになる。
「去年のクリスマスは……」
 茜が言った。
「あの人が一緒でした」
「……あの人?」
「私の幼なじみです。あの人ともう一人の幼なじみの三人でパーティをやったんです」
「………」
「いつものように二人だけではしゃいで、私だけが取り残されていました」
「………」
「でも、それでも良かったんです。あの人が笑っているなら、あの人の笑顔を隣で見ていられるのなら、それで良かったんです」
「………」
「恋人じゃなくて……ただの幼なじみのままで……」
 寂しげな目で窓の向こうを見る茜。
 そう、茜はいつもこんな目をしていた。
 ピンク色の傘をさし、枯草に埋もれる空き地で、雨に打たれながら。
「私、そろそろ帰ります」
 茜がソファから立ち上がった。
「……ああ、そうか」
 生返事を返しながら、俺は何気なく視線を窓の外に向ける。
 陽が落ちてすっかり暗くなった景色。
 一滴、また一滴と雨の雫が落ち、アスファルトの色を黒く変えていく。
 俺は急に帰ると言い出した茜の真意を知った。
「茜、待てよ。俺も行く」
「………」
 茜は返事もせず、ただ目を伏せた。

 雨の降る町を、茜と二人で並んで歩く。
「浩平」
「ん?」
「今日は誘ってくれてありがとうございました。とても楽しかったです」
「……ああ」
 俺は適当に返事をする。
 しかしその言葉とは裏腹に、茜はどこか寂しそうな表情を見せている。
 しばらく歩くと、空き地に着いた。
 浅い靴が泥で汚れるのも気にせず、雨でぬかるんだ地面に踏み込んでいく茜の背中に、俺は声をかけた。
「なあ茜……」
「はい」
「……辛くないか?」
 叶わない事を知っている片思いと、雨の中、その片思いの相手を待ち続ける事が。
「………」
 茜は目線を伏せてしばらく黙り込み、そして顔を上げて俺をまっすぐに見て答える。
「はい。とても辛いです」
「………」
「自分が消えてしまうんじゃないかと思うくらい辛いです。それでも……」
「………」
「それでも私には他に何もありませんから。待つ事の他には、何も……」
 茜は俺から視線を外し、あさっての方向を見る。
 どうしてだよ。
 どうしてそんなにそいつの事を待っていられるんだよ。
 本当は辛いのに。本当は傷付いているはずなのに。
 なあ神様、今日はクリスマスだっていうのに、どうして茜にこんなに辛い思いをさせるんだよ……。
「くしゅんっ!」
 突然、茜がくしゃみをした。いや、咳だったかも知れない。
「どうした? 風邪でもひいたか?」
「……少し寒いだけです」
 そう言って自分の肩を抱く茜。
 確かに今日はちょっとどころじゃなく寒い。
 俺も上着のポケットに両手をつっこみ、そこに長森からもらったマフラーが入っている事に気付いた。
 長森、ごめん。
 心の中で謝った。そして、
「茜、ちょっとじっとしてろ」
「………」
 ポケットからマフラーをひっぱりだし、茜の首に巻いてやった。
「浩平……」
「いいか、それは長森からもらったマフラーなんだからな。後でちゃんと返せよ」
「はい……ありがとうございます」
 茜はマフラーの端を口元に押し当てる。
「本当に……暖かいです」
「………」
 俺は空を見上げた。
 いつまでも雨の雫を落とし続ける空を見上げて息を吐いた。
 白い息。
 白い息は空中に広がり、薄れて消えていく。
 ん? 今、何か……。
「……浩平、雪です」
 茜が言った。
 速く落ちる雨の中に、ゆっくりと落ちる雪が混ざっている。
 最初は雨に比べて量が少ない雪だったが、少しずつ増えていき、やがて雨はやんで雪だけが降るようになった。
「完全に雪になったけど……茜は帰らないのか?」
「……もう少しだけここにいます」
「そうか。じゃあ俺も付き合うよ」
 答えてから茜の様子をうかがうと、茜は目を細めて雪を見つめていた。
 メリークリスマス、茜。
 心の中でつぶやいて、俺は茜の視線を追って空を見上げた。

 帰ってから、由起子おばさんと二人でささやかなクリスマスパーティをした。
 明日から冬休みに入る。
 次に茜に会えるのはいつになるだろうか。

「みさお、メリークリスマス」
「……え?」
 みさおは一瞬、不思議そうな顔をしたがすぐににっこりと笑う。
「あ、そうか。今日はクリスマスだったんだね」
「バカだな。そんな大切な日を忘れるなよ」
「うん。ごめんね」
「クリスマスを忘れる悪い子にはサンタさんが来てくれないぞ」
「うん。そうだね」
 しかしみさおはにこにこと笑ったまま答える。
「でもいいよ、サンタさんが来なくても」
「え?」
「みさおにはお兄ちゃんがいるから。お兄ちゃんがいてくれるから、サンタさんはいらないよ」
「……みさお」
 そうだ、みさおにはサンタは来てくれない。
 それはみさおのせいじゃなくて、僕のせいなんだ。
 だから僕はクリスマスイブの夜が明けるまで、サンタの代わりにみさおと一緒にいなくちゃいけないんだ。

 年が明けた一月五日。
 クリスマス以来、雪が降る日はあっても雨が降る日はなかった。
 それでもたまに例の空き地に行っては茜がいない事を確認していた。
 そして今日、久しぶりに雨が降ったので空き地に行ってみた。
 案の定、茜はそこにいた。
 雨の中、ピンク色の傘をさして。
「よお、また会ったな」
「……浩平」
 俺が声をかけると、茜はこちらを振り返った。
「雨が降ってたからな。きっとここにいると思った」
「そう……」
 消え入るような声で答えて、茜は空を見上げる。
 俺も茜の視線を追いかけるようにして空を見上げた。
 この雨は、いつまで降り続けるのだろう。
 重い雲に覆われた空を見ていると、この雨が永遠に降り続くようにも思えてくる。
「なあ、茜」
「はい」
「茜の幼なじみ……茜が待っているっていう奴……本当に帰ってくるのか?」
 そう言った瞬間、俺の耳のすぐ近くで弾けるような音が鳴った。
 頬に痛みが走り、それがゆっくりと熱さに変わっていく。
 茜が平手で俺の頬を打った事に、ようやく気付いた。
 あっと小さく声を上げて、茜は目を伏せる。
「……ごめんなさい」
「いや……」
 茜にとって最も辛い言葉を、俺は言ってしまったんだ。
 殴られて当然だ。
 だけどな、茜。辛いのは俺も一緒なんだ。
 誰かを待ち続けて、しかし待っている相手が帰ってこなくて、一人傷付いている。
 そんな茜を見ている俺だって、少しは辛い思いをしているんだ。
 殴られた頬よりも、茜のために何もできない自分が痛かった。

 今日は由起子おばさんは新年会とかで帰りが遅い。
 晩ご飯はテレビを見ながらコンビニの弁当を食べたが、茜の事が気にかかって味わう余裕なんかなかった。

「みさお」
「………」
「……みさお?」
「………」
「みさお! みさおっ!」
「……え? あ、お兄ちゃん」
「どうしたんだよ、黙り込んで」
「うん……ちょっと考え事してたから」
「お兄ちゃんが話しかけているんだから、ちゃんと返事しないとダメだぞ」
 僕はみさおを叱り付けた。
「うん。ごめんね」
 そしてみさおが謝る。
 だけど本当はわかっていた。
 僕がみさおを叱り付けたのは、返事をしなかったみさおが悪いからじゃない。
 みさおが返事をしてくれなくて、僕はこの世界にたった一人取り残されたような気がしてしまった。
 そしてその不安をごまかしたかっただけなんだ……。

 ザーーーーーーーーーー……。
 しつこい雨音に起こされ、俺はベッドの上に身体を起こした。
 目覚まし時計が喧しく騒ぎ立てる前にひっぱたいて目覚ましがならないようにする。
 はあ……。
 ため息をつき、カーテンの隙間から外を見る。
 雨だけが唯一の色彩の、グレーの景色。
 雨の降る景色を見ていると、ピンク色の傘をさして雨の中に立っていた少女の事を思い出す。
 しかしこのままベッドに座っていても仕方がないので、ベッドから降りて身体を伸ばした。
 のそのそと着替えをひっぱりだしていると、
「浩平! 早く起きないと遅刻するよ!」
 長森がドアを開けて声を張り上げる。
「よお、長森」
 長森の目が点になった。

「今朝は本当にびっくりしたよ」
 隣を歩く長森が思いっきり感情を込めて言った。
「何が?」
「だって、ドアを開けたら浩平がもう起きてたんだもん。こんなに驚いたの、何年ぶりかなあ」
「あのなあ、毎朝俺が驚かしてやってるじゃないか。洋服ダンスの中に隠れたり、裸で寝たりしてさあ」
「う〜ん……」
 長森は人差し指をあごに当ててしばらく考え込み、そして言った。
「ああ、そんな事もあったっけ」
「………」
 そんな他愛のない会話を交わしながら、雨の町を学校に向かって歩く。
 途中で例の空き地に差しかかり、俺は足を止めた。
「あれ? 浩平、どうしたの?」
 急に立ち止まった俺を長森が怪訝そうに見る。
 雨の降る空き地。
 ぼうぼうに伸びた枯草の中に、ピンク色のかさを差して茜は……あれ?
 茜が……いない。
 いつのまにか見慣れた雨の降る空き地の景色というジグソーパズルの中から、茜という肝心のピースが抜け落ちていた。
「ねえ、どうしたの?」
 長森が俺の袖をひっぱる。
「え……あ、いや、なんでもねえよ。さ、行くぞ」
「うん」
 俺と長森はまた並んで歩きだす。
 後ろ髪引かれる思いで、俺は途中で一度だけ振り返る。
 やっぱり茜はいなかった。

 キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン。
 チャイムが鳴った。
 あれ? 茜の奴、まだ来てないぞ。
 あいつあれでもしっかり……じゃなくて意外とちゃっかりしてるから、寝坊して遅刻するとは思えないんだが……。
 きっと風邪ひいて休むとか、何かの用事で学校に来れないとか、そういう事なんだろうな。
 そんな事を考えている内に担任の髭がやってきた。
 そして出席を取り始める。
 まずは五十音順に男子の名前を呼び上げ、返事を聞いて出席簿に書き込んでいく。
 しばらくして男子全員が終わり、女子の番になった。
 一人ずつ名前を呼び上げていき……。
「里村! ……里村? ……里村は来てないのか?
 ……おかしいなあ。何も連絡はなかったのに……遅刻かな?」
 髭は出席簿の上で手を動かして……恐らく里村茜のところに遅刻の印を付けたのだろう、それを終えるとまた出席を再開する。
 休みじゃない?
 それじゃあ、茜はどうして来ない? 今どこにいる?
 心がざわめく。
 雨の音が気になって仕方がない。
 雨が降っていなかったら、さっきまでは小降りだった雨がこんなに騒がしくなかったら、こんなに心をかき乱されるだろうか……。
 髭が教室を出ていくのを待って、自分の席を蹴り飛ばして立ち上がる。
「あっ! 浩平! どこ行くの!?」
 追いかける長森の声を降り払うように、俺は教室を飛び出した。

 学校に来た時とは比べ物にならないほど激しくなった雨の中を、俺は走る。
 茜っ、無事でいてくれっ!
 激し過ぎる雨のせいで表面に水の膜を張ったようなアスファルトを蹴り、滝のように降る雨の中を泳ぐように走る。
 茜がいる場所はわかっている。
 そこにいると確信している。
 しかしそこにいて欲しくない。
 茜にとって、そこは悲し過ぎる場所だから。
 茜がいない事を祈りながら、そして茜がいない事を確かめるために、俺は走った。
「茜っ、茜ぇっ!」
 雨の降る空き地。
 誰からも忘れられ、見向きもされないこの場所。
 地面に落ちたピンク色の傘が、降り続く雨に叩かれて揺れている。
 そして枯草の中に隠れるように、一人の少女が泥の中に倒れていた。
「茜っ、茜ぇっ!」
 俺は茜の元に駆け寄った。
 そして泥の中から助け起こし、名前を呼ぶ。
「茜っ、しっかりしろ! 茜ぇっ!」
 軽く頬を叩く。
 すると茜は泥に汚れたまぶたをうっすらと持ち上げる。
「……会いたかった……」
 里村茜が言った。
 苦しげに、しかし微かに笑ってみせる。
 だけどわかっていた。
 茜が見ているのは俺じゃない。
 俺の姿を見て、俺以外の誰かを瞳に映していた。
「帰ってきてくれるって思ったから……帰ってきてくれるって信じてたから……ずっと待ってました……」
「茜……」
「……だから……もうどこにも行かないでください……」
 茜のまぶたが閉じ、その身体からふっと力が抜ける。
「……茜?」
 俺が呼びかける。
 しかし返事はない。
「……茜! 茜っ! 茜ぇぇぇぇぇっっっっっ!」

 軽くドアをノックする。
 自分の部屋に入るのに、どうして気を遣わなくちゃいけないだ?
 一瞬だけそんな疑問を感じたが、事情が事情だけに仕方がないか。
 ……………。
 しばらく待ったが、返事はない。
 できるだけ静かに、ゆっくりとドアを開ける。
 茜はベッドの上に身体を起こしていた。
「あ、悪りい、起こしちまったか?」
「………」
 俺が言うと、茜は力なく首を振る。
「あの……」
 茜が何か言いかける前に、俺は口を開く。
「倒れてたんだよ、空き地で」
「………」
「それで会社に行く寸前の由起子おばさんをつかまえて、車で俺の家まで運んでもらったんだ」
「………」
 茜はじっと黙り込んでいる。
 俺の話を聞いているのかいないのか……。
「茜……」
 俺は茜に近付くと、その細い身体をぎゅっと抱き締めた。
 茜があっと小さな声を上げるのを耳元で感じる。
「茜……どうしてそんなに……そんなになってまで待っているんだよ……」
「………」
「俺、茜を見ているのが辛い。茜が一人で傷付いて、悲しんでいるのを見ているのが」
「………」
 茜は俺の腕の中でじっと黙って、俺の服を固く握っている。
 ふられたんだよ。
 茜、お前はそいつにふられたんだ。
 だからそいつは帰ってこない。
 永遠に帰ってこないんだ。
 お前がどんなに待ち続けて、一人傷付いていても……。
 危うく口に出しかけた言葉を、心の中に押しとどめる。
 今はまだ、言ってはいけない。
 何も知らない俺に、そんな事を言う資格はない。
「……だからみんな話してくれよ。
 茜が好きになった奴の事。茜が待っている奴の事……」
 そうすれば、俺は茜を救ってやれる。
 もう待たなくていいんだ、そう言ってやれる。
「……茜、俺じゃダメなのか?
 俺が茜の側にいてやる。
 お前を置いて行ったりしない。
 だから……」
「浩平には……」
 忘れろよ、そいつの事は。
 俺がそう言うより一歩早く、茜は口を開いていた。
「……浩平にはわかりません」
「………」
 一瞬、時間が止まった気がした。
 俺の中にあった情熱とか、あるいはそういった物が音を立てて崩れる。
「……そうか」
 ひどく冷めた、自分の声。
 俺はあらん限りの力を込めて、俺の身体を茜から引き剥がす。
「学校には由起子おばさんから連絡してあるから心配するな。今日一日、ゆっくり休んでろよ」
 俺は重い足取りで、しかしこの場から逃げ出したい一心で、部屋のドアまで歩いていき、ドアをくぐった。
 俺と茜の間を塞ぐようにドアが閉まる。
 その音が、俺の心の中でやけに大きく響いた。


雨の日の待人(前編) 了
後編に続く


あとがき

 ど〜も、wen-liです。
 「雨の日の待ち人(前編)」いかがだったでしょうか。

 ゲーム本編より素晴らしい小説を、という大それた目標を掲げた「ONE〜輝く季節へ〜」の二次創作小説の第二弾です。
 前作の「いつもそばにいる君へ」は長森瑞佳をヒロインにしましたが、今回の「雨の日の待ち人」は里村茜をヒロインにしています。
 でも里村茜の幼なじみ、柚木詩子は出てきません。期待していた方、ごめんなさい。

 まず「ONE〜輝く季節へ〜」をやって一番気になった点は、主人公が「えいえんの世界」に行くという事はどういう事なのかがよくわからなかった事です。
 前作では本来は隠れキャラの氷上シュンを使ってみましたが、今回はゲーム中に近い方法を使ってみました。
 なお、ゲーム中では「みずか」というキャラクターが出てきましたが、本作では「みさお」になっています。あしからず。

 ここからは茜シナリオで気になった点です。
 茜はONEの中でも人気のあるキャラクターですが、彼女のシナリオ中のイベントは、「雨の中で消えた幼なじみを待っている」という設定を使ったイベントと、「甘い物が好きな無口で変な性格の女の子」という設定を使ったイベントの2種類にはっきりと分けられます。
 しかし前者のタイプのイベントは、最初に会った時と何度かだけでバリエーションも少なく、幼なじみを待っているのは辛い事だ、というのが伝わらなく、主人公が「ふられたんだよ」と言うイベントも、「ああ、そんな設定もあったっけ」としか思えませんでした。
 本作では雨絡みのイベントを色々と工夫してみました。
 ゲーム中、主人公は、「幼なじみを待っている」という茜、しかし詩子の「私の他に茜には幼なじみなんていない」という言葉から、茜の待っている幼なじみは「えいえんの世界」に行ってしまった事を推測し、「ふられたんだよ」と茜に言います。
 しかしこれまでの茜シナリオの中では、「このゲームの世界では人間が『えいえんの世界』に行ってしまい、知り合いの記憶の中から消えてしまう」という現象が起こりうる事が一切書かれていません。
 従ってファーストプレイで茜シナリオにたどり着いた人や、察しが悪くて事態が飲み込めない人(私のように)には、どうして「ふられたんだよ」なんて言えるんだ? という事になってしまいます。
 そういうわけで詩子は出さないで、「ふられたんだよ」という言葉も言わないでおきました。
 それとこの後のストーリーで主人公が「えいえんの世界」に行ってしまう以上、主人公が茜に言うべき言葉は「ふられたんだよ」じゃないと思います。
 ではなんと言うべきかというと……後編まで待っていただけると幸いです。

 それと後編ですが、タイトルの後半が同じなだけに、オリジナル小説「十二時の待ち人」にちょっと似てしまうかも。
 だから「十二時の待ち人」は読まないで下さい……じゃなくて、後編ができるまでに読んでくれると嬉しいです。

 でわでわ。


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