この小説はTacticsより発売されたWindows95用ゲーム「ONE〜輝く季節へ〜」をもとに作成されています。
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雨の日の待ち人(後編)

 深い深い闇の中。
 遠い遠い時の彼方。
 夢のような、現実のような。
 そこは夢であり、現実であり。
 そして夢ではなく、現実でもない。
 触れれば消えてしまう水泡のようにもろく。
 そしてまばたきの間に通り過ぎてしまう一瞬のように儚い。
 夢と現実の間の揺らぎの中に生まれた、僕とみさおだけのためだけの世界。
 いつものように、みさおはそこにいた。
「ねえ、お兄ちゃん」
 みさおが話しかけてくる。
 みさおの声ははるか彼方から聞こえてくるようで、また耳元で話しているようにも聞こえる。
「お兄ちゃん、泣いてたの?」
「……泣いてなんかいないよ」
「ウソ。みさおにはわかるよ。お兄ちゃん、心の中では泣いてたよ」
「………」
「みさおにはわかるよ……みさおにだけは……」
 そう、確かに僕は泣いていた。
 泣き出しそうな人がいたから。
 悲しい思いをしている人がいたから。
 叶わない思いを抱えている人がいたから。
 その人を助けたいと思った。
 その人の幸せになりたいと思った。
 だから手を差し伸べた。
 だけどその手は……。
「悲しい事があったんだね?」
「………」
 こくり、と小さくうなずく。
 膝を抱えて途方に暮れる子供のように。
「……じゃあ、こっちにおいでよ」
「え?」
「お兄ちゃんもこっちの世界においでよ」
「ダメだよ。ここにはみんながいるから……」
「そしてまた傷付くの? 誰かを思って、自分だけが傷付くの?」
「………」
「こっちの世界においでよ。こっちにはお兄ちゃんを傷付けるものは何もない。悲しい事なんて何一つないから」
「………」
「だけど寂しくなんかないよ。みさおがずっと側にいてあげるから」
「……ダメだよ」
「どうして?」
「ダメな物はダメなんだ! 僕はここを離れちゃいけないんだ!」
 僕はそう叫んでから、後悔した。
 みさおが泣き出しそうな表情で僕を見ていたから。
「お兄ちゃん、ひどいよ……みさおは……みさおはお兄ちゃんの事、ずっと待っていたのに!」

 ………。
 ……。
 …。
 うあーーーん…
 うあーーーーーーーんっ!
 泣き声が聞こえる。
 誰のだ…?
 ぼくじゃない…。
 そう、いつものとおり、みさおの奴だ。
「うあーーーーん、おかあさーーんっ!」
「どうしたの、みさお」
「お兄ちゃんが、蹴ったぁーーっ!」
「浩平、あんた、またっ」
「ちがうよ、遊んでただけだよ。真空飛び膝蹴りごっこして遊んでたんだ」
「そんなのごっこ、なんて言わないのっ! あんた前は、水平チョップごっことか言って、泣かしたばっかじゃないのっ」
「ごっこだよ。本当の真空飛び膝蹴りや水平チョップなんて真似できないくらい切れ味がいいんだよ?」
「ばかな理屈こねてないで、謝りなさい、みさおに」
「うあーーんっ!」
「うー…みさおぉ…ごめんな」
「ぐすっ…うん、わかった…」
「よし、いい子だな、みさおは」
「浩平、あんたが言わないのっ!」

 じっさいみさおが泣きやむのが早いのは、べつに性分からじゃないと思う。
 ぼくが、ほんとうのところ、みさおにとってはいい兄であり続けていたからだ。
 そう思いたい。
 母子家庭であったから、みさおはずっと父さんの存在を知らなかった。
 ぼくだって、まるで影絵のようにしか覚えていない。
 動いてはいるのだけど、顔なんてまるではんぜんとしない。
 そんなだったから、みさおには、男としての愛情(自分でいっておいて、照れてしまうけど)を、与えてやりたいとつねづね思っていた。
 父親参観日というものがある。
 それは父親が、じぶんの子供が授業を受ける様を、どれ、どんなものかとのぞきに来る日のことだ。
 ぼくだって、もちろん父親に来てもらったことなんてない。
 でもまわりの連中を見ていると、なんだかこそばゆいながらも、うれしそうな顔をしてたりする。
 どんな頭がうすくても、それはきてくれたらうれしいものらしかった。
 しかしそのうれしさというものは、ぼくにとっては、えいえんの謎ということになる。 きっと、たぶん、二度と父親なんて存在はもてないからだ。
 振り返ったとしても、そこには知った顔はなく、ただ誰かから見られているという実感だけがわく、ちょっと居心地の悪い授業でしかない。
 ぼくの父親参観とは、そんな感じでくり返されてゆくのだ。
 でもみさおには、男としての愛情を与えてやりたいとつねづね思っているぼくにしてみれば、ぼくと同じような、『ちょっと居心地の悪い授業でした』という感想で終わらしてやりたくなかった。
 だから、一大作戦をぼくは企てたのだ。
「みさお、ぼくがでてやるよ」
「お兄ちゃんって、あいかわらずバカだよね」
「バカとは、なんだ、このやろーっ!」
「イタイ、イタイよぉーっ、お兄ちゃんっ!」
 アイアンクローごっこで少し遊んでやる。最近のお気に入りだ。
「はぅぅっ…だって、お兄ちゃん、大人じゃないもん」
「そんなものは変装すればだいじょうぶだ」
「背がひくすぎるよ」
「空き缶を足の下にしこむ」
「そんな漫画みたいにうまくいかないよぉ、ばれるよぉ」
「だいじょうぶ。うまくやってみせるよ」
「ほんとぉ?」
「ああ。だから、次の父親参観日は楽しみにしてろよ」
「うんっ」
 初めはバカにしていたみさおだったが、最後は笑顔だった。
 みさおの笑顔は、好きだったから、うれしかった。
 そして来月の父親参観日が、ぼくにとっても待ち遠しいものになった。

 みさおが病気になったのは、そろそろ変装道具をそろえなきゃな、と思い始めた頃だった。
 ちょっと直すには時間がかかるらしく、病院のベッドでみさおは過ごすことになった。
「バカだな、おまえ。こんなときに病気になって」
「そうだね…」
「おまえ、いつも腹出して寝てるからだぞ。気づいたときは直してやってるけど、毎日はさすがに直してやれないよ」
「うん、でも、お腹に落書きするのはやめてよ。まえも身体検査のとき笑われたよ」
 ぼくはいつも、油性マジックでみさおのお腹に落書きしてから布団をなおしてやるので、みさおのお腹はいつでも、笑ったり、泣いたり、怒ったりしていた。
「だったら、寝相をよくしろ」
「うん。そうだね」
 みさおの邪魔そうな前髪を掻き上げてやりながら、窓の外に目をやると、自然の多く残る町の風景が見渡せた。
 そして、秋が終わろうとしていた。
「みさおー」
「あ、お兄ちゃん。どうしたの、こんな時間に」
「みさお、退屈してると思ってな」
「ううん、だいじょうぶだよ。本、いっぱいあるから、よんでるよ」
「本? こんな字ばっかのが、おもしろいわけないだろ。やせ我慢をするな」
「ぜんぜんがまんなんかしてないよ。ほんと、おもしろいんだよ」
「というわけでだな、これをやろう」
 ぼくは隠しもっていた、おもちゃをみさおに突きつけた。
「なにこれ」
「カメレオンだ」
「見たらわかるけど…」
 プラスチックでできたおもちゃで、お腹の部分にローラーがついていて、それが開いた口から飛び出た舌と連動している。
「みろ、平らなところにつけて、こうやって押してやると、舌がぺろぺろ出たり入ったりする」
「わぁ、おもしろいね。でも、平らなところがないよ」
「なにっ?」
 言われてから気づいた。
 確かにベッドで過ごしているみさおからすれば、平らな机などは、手の届かない遠い場所だ。
「あ、でも大丈夫だよ。こうやって手のひら使えば…」
 ころころ。
「お、みさお、頭いいな。でも少し爽快感がないけどな」
「そんな舌が素早くぺろぺろ動いたって、そうかいじゃないよ。これぐらいがちょうどいいんだよ」
 ころころ。
「そうだな」
「お兄ちゃん、ありがとね」
「まったく、こんなくだらない本ばっかでよんで暮らすおまえが、見るにたえなかったからな。よかったよ」
「うん。これで、退屈しないですむよ」
 しかし話しに聞いていたのとは違って、みさおの病院生活は、いつまでも続いていた。 一度、大きな手術があって、後から知ったのだけど、その時みさおのお腹は、みさおのお腹でなくなったらしい。
 そして、そのころから母さんは病院よりも、ちがう場所に入りびたるようになっていた。
 どこかはよくしらない。
 ときたま現れると、ぼくたちが理解できないようなわけのわからないことを言って、満足したように帰ってゆく。
 『せっぽう』とか言っていた。どんな漢字を書くかはしらない。

「わ、病室まちがえたっ!」
「合ってるよ、お兄ちゃん」
「え…? みさおか?」
「うん、みさおだよ」
 みさおは、髪の毛がなくなっていた。
「びっくりしたぞ、お兄さんは」
「うん…」
 ただでさえ、ここのところやせ細っているというのに、さらに頭がツルツルになっていれば、ぼくだって見間違える。
 そのくらい、みさおは姿が変わってしまっていた。
「やっぱり、お腹がなくなったら、体重減っちゃったのか?」
「そうかも」
 喋りながら、ころころとカメレオンのおもちゃを手のひらで転がしていた。
 ぺろぺろと舌が出たり入ったりするのを、みさおはくぼんだ目で、見つめていた。
 ぼくはみさおには絶対に、苦しいか、とか、辛いか、とか聞かないことにしていた。
 聞けば、みさおは絶対に、ううん、と首を横に振るに違いなかったからだ。
 気を使わせたくなかった。
 だから、聞かなかった。
 ほんとうに苦しかったり、辛かったりしたら、自分から言いだすだろう。
 そのとき、なぐさめてやればいい。
 元気づけてやればいい。
 そう思っていた。

 年が明け、みさおは、正月も病室で過ごしていた。
 ぼくも、こんなにも静かな正月を送ったのは初めてだった。
「みさお、今年の願い事はなんだ?」
「もちろん元気になることだよ。それで、お兄ちゃんがきてくれる、ちちおや参観日をむかえるの」
「そうだな。去年は無理だったもんな」
「うん。今年こそはきてもらうよ」
 時間はあのときから止まっていた。
 そろえ始めていた変装道具も、中途はんぱなままで、部屋に置いてある。
 進んでいるのは、みさおのやせる病状だけに思えた。
 そのときを機に、みさおは父親参観日のことをよく口にするようになった。
 ぼくも、今年こそはと、強く思うようになっていった。

 正月も終わり、街並みが元通りの様相に戻ってゆく。
 でも、みさおの過ごす部屋だけは、ずっと変わらなかった。
「みさおー」
「お兄ちゃん、また、こんな時間に…」
「また手術するって聞いて、きたんだよ。また、どこか取るのか?」
「ううん…。その手術はしないことになったよ」
「そうか。よかった。どんどんみさおのお腹が取られてゆくようで恐かったんだよ」
「うん。もうしんぱいないよ」
「ほんと、よかったよ」
「うん…」
 ころころ。
 二人が黙り込むと、ただカメレオンを手のひらで転がす音だけが聞こえてくる。
「おかあさんは、どんな感じ?」
「相変わらずだよ」
「お兄ちゃん、お母さんのことも心配してあげてね」
「うん、そうだな…」
「じゃあ、そろそろ眠るよ」
「ああ」
 静かに目を閉じる、みさお。
 手には舌を突きだしたままのカメレオンを握ったままだった。
 恐いくらいに静まり返る室内。
「………」
「…みさおー」
 ………。
「…みさお?」
 ………。
「みさおっ!」
 ………。
「みさおーっ! みさおーーっ!」
「…なに、お兄ちゃん」
「いや、寝ちゃったかなと思って」
「うん…寝ちゃってたよ。どうしたの?」
「ううん、なんでもない。起こしてわるかったな」
「うん…おやすみ」
「おやすみ」

 月がまた変わった。
 でもぼくたちは、なにも変わらないでいた。
 みさおは誕生日を迎え、病室でささやかな誕生会をした。
 でもぼくひとりが歌をうたって、ぼくひとりがケーキをたべただけだ。

 ………。
 ころころ。
「………」
 ………。
 ころころ。
「………」
「おにいちゃん…」
「うん、なんだ?」
「ちちおや参観日にしようよ、今日…」
「今日…?」
「うん、今日…」
「場所は?」
「ここ…」
「ほかの子は…?」
「みさおだけ…。ふたりだけの、ちちおや参観日」
「………」
「だめ?」
「よし、わかった。やろう」
「…よかった」
 みさおが顔をほころばす。
 ぼくは走って家に戻り、変装道具を押し入れから引っぱり出し、それを抱えて病院へと戻った。
 病院の廊下で、ぼくはそれらを身につけ、変装をおこなった。
 スーツを着て、ネクタイをしめ、足の下に缶をしこんだ。
 そして油性マジックで、髭をかいて、完成した。
 カンカンカンっ!と、甲高い音を立てながら、みさおの部屋まで向かう。
 ドアの前にたち、そしてノックをする。
 ノックより歩く音のほうが大きかった。

「みさおー」
 ドアを開けて中に入る。
 ………。
「みさおーっ?」
 ………。
「…みさおーっ?」
「う…おにいちゃん…」
 口だけは笑いながらも、顔は歪んでいた。
「ちがうぞ、おとうさんだぞ」
 みさおが苦しい、辛いと言い出さない限り、ぼくも冷静を装った。
「うん…そだね…」
「じゃあ、見ててやるからな」
 ぼくは壁を背にして立ち、ベッドに体を横たえる、みさおを見つめた。
 ころころ…。
 弱々しくカメレオンが舌を出したり、引っ込めたりしている。
 ただそんな様子を眺めているだけだ。
 ………。
 ころころ…。
「………」
 ………。
 ころころ…。
「………」
「うー…」
「みさおっ?」
「しゃ、しゃべっちゃだめだよぉ…おとうさんは…じっとみてるんだよ…」
「あ、ああ…そうだな」
 ………。
「うー…はぅっ…」
 苦しげな息が断続的にもれる。
 ぼくはみさおのそんな苦しむ姿を、ただ壁を背にして立って見ているだけだった。
「はっ…あぅぅっ…」
 なんてこっけいなんだろう。
 こんなに妹が苦しんでるときに、ぼくがしていることとは、一番離れた場所で、ただ立って見ていることだなんて。
 ………。
「はーっ…あうっ…」
 ………。
 カメレオンの舌が動きをとめた。
 そして、ついにみさおの口からその言葉が漏れた。
「はぁぅっ…くるしいっ…くるしいよ、おにいちゃんっ…」
 だからぼくは、走った。
 足の下の缶がじゃまで、ころびながら、みさおの元へ駆けつけた。
「みさお、だいじょうぶだぞ。お兄ちゃんがそばにいるからな」
「いたいよ、おにいちゃんっ…いたいよぉっ…」
 カメレオンを握る手を、その上から握る。
「だいじょうぶだぞ。ほら、こうしていれば、痛みはひいてくから」
「はぁっ…あぅっ…お、おにいちゃん…」
「どうした? お兄ちゃんはここにいるぞ」
「うんっ…ありがとう、おにいちゃん…」
 ぼくは、みさおにとっていい兄であり続けたと思っていた。
 そう思いたかった。
 そして最後の感謝の言葉は、そのことに対してのものだと、思いたかった。

 みさおの葬儀は、一日中降り続く雨の中でおこなわれた。
 そのせいか、すべての音や感情をも、かき消されたような、静かな葬儀だった。
 冷めた目で、みさおの収まる棺を見ていた。
 母さんは最後まで姿を見せなかった。
 ぼくはひとりになってしまったことを、痛みとしてひしひしと感じていた。

 そして、ひとりになって、みさおがいつも手のひらでころころと転がしていたカメレオンのおもちゃを見たとき、せきを切ったようにして、ぼくの目から涙がこぼれだした。
 こんな悲しいことが待っていることを、ぼくは知らずに生きていた。
 ずっと、みさおと一緒にいられると思っていた。
 ずっと、みさおはぼくのことを、お兄ちゃんと呼んで、
 そしてずっと、このカメレオンのおもちゃで遊んでいてくれると思っていた。
 もうみさおの笑顔をみて、幸せな気持ちになれることなんてなくなってしまったんだ。
 すべては、失われてゆくものなんだ。
 そして失ったとき、こんなにも悲しい思いをする。
 それはまるで、悲しみに向かって生きているみたいだ。
 悲しみに向かって生きているのなら、この場所に留まっていたい。
 ずっと、みさおと一緒にいた場所にいたい。

 うあーーーん…
 うあーーーーーーーんっ!
 泣き声が聞こえる。
 誰のだ…?
 ぼくじゃない…。
 そう、いつものとおり、みさおの奴だ。
「うあーーーーん、うあーーーんっ!」
「うー…ごめんな、みさお」
「うぐっ…うん、わかった…」
 よしよし、と頭を撫でる。
「いい子だな、みさおは」
「うんっ」

 ぼくは、そんな幸せだった時にずっといたい。
 それだけだ…。

「……やっと思い出した?」
「みさお……」
 そう、僕はあの日からずっと、みさおを待たせ続けていたんだ。
 こんな世界で、たまに僕がやってくる他には何もない世界で、みさおを待たせ続けていたんだ。
 みさおのためじゃない。
 僕がみさおを失った悲しみを紛らわせるために、みさおを少しでも僕の住む世界の近くに置いておきたかった。
 みさおとずっと一緒にいたかった。
 みさおと一緒にいられた幸せを永遠に続けたかった。
 そんな子供じみた永遠の中に、みさおを閉じ込めてしまったんだ。
「みさお……ごめん、一人きりで寂しかったんだろうな……」
「ううん、いいんだよ。みさおはお兄ちゃんのためにここにいたんだから」
「………」
 僕は黙って少し考え込む。
 みさおのために、僕ができる事……。
 それはひとつしか考えられなかった。
「……なあ、みさお。どうしてもそっちに行かなくちゃいけないのか?」
「違うよ」
 みさおが笑う。
 どこまでも優しく笑う。
「お兄ちゃんが望んだんだよ。
 この世界を。
 永遠にみさおと二人だけで暮らす世界を」

 目が覚めた。
 カーテンを開けてみる。
 最近は雨音で目を覚ます事が多かったが、今日は晴れていた。
 一月の冷たい空気の中、風に揺れる木々に太陽が降り注いでいる。
 時計を見る。
 長森が来るにはもう少し時間がありそうだ。
 制服をひっぱりだし、のそのそと着替える。
 着替えが終わった。
 長森はまだ来ない。
 しばらく待つか。
 ベッドに腰かけてボーッと長森を待つ。
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 来ない。
 時間に余裕があるわけでないし、とりあえず朝飯でも食うか。
 お湯を沸かしてインスタントコーヒーを煎れる。
 由起子おばさんが作ってくれた朝飯を、コーヒーで流し込むようにして食べる。
「ふう……」
 朝飯を平らげ、ついでにコーヒーともう一杯煎れて一息つく。
 それでも長森が来る気配はない。
「………」
 あんまりゆっくりしていると遅刻する。
 仕方ないから一人で学校に行くか。
 俺はカバンを手に取り、玄関を出た。

 空はそれなりに晴れていたが、快晴にはほど遠かった。
 少しくすんだ青の上に、ところどころ白い雲の塊がちりばめられていた。
 道の先によく見知った後ろ姿を見付ける。
 俺は軽く走ってその隣に並び、声をかける。
「よお、また会ったな」
「浩平……」
 茜はいつもの無表情な顔に軽い驚きを浮かべて俺を見た。
 それから辺りを見回す。
「長森さんは?」
「ああ、どういうわけだか長森の奴、今朝は来なかったんだよ」
「……そうですか」
「きっと風邪でもひいて家で寝ているんじゃないか?」
「………」
 それから俺達は一言の会話もないまま、学校まで並んで歩いて行った。

 教室に入ると、長森は自分の席に座って教科書を開いていた。
 俺の事を置いて先に学校に来て、その上のうのうと次の時間の予習をしているとは長森の分際で生意気な。
 ここはひとつ、ガツンと言ってやらなくては。
 俺はつかつかと長森の席に近付いていった。
 きょとんとした目で俺を見上げる長森に、俺は言ってやった。
「おい! 長森っ!」
「……え? わ、私?」
「お前の他に誰がいる! 今朝はよくも俺を置いて行ってくれたな。そんな事をしてただですむと思ったら大間違いだ!」
 そう言ってから、別に長森が俺を起こさきゃいけない義務はない事に気付いた。
 ……ま、いいか。相手は長森なんだし。
 当の長森は、指先をあごに当ててしばらく考え込み、そして恐る恐る、といった感じで口を開いた。
「……あの……どちら様ですか?」
「どちら様ってなあ、まだそんな生意気な事を……」
 え? なんだって?
 今、なんて言った?
「……それともどこかで会った事あったかな? え〜と、ちょっと待ってね。今、思い出すから……う〜ん……」
 長森は腕を組んで必死になって俺を思い出そうとしている。
 そんな長森を見て、俺は夢の中で聞いたみさおの言葉を思い出した。
「お兄ちゃんが望んだんだよ。この世界を」
 そうか。そういう事だったのか。
 あれは夢なんかじゃなかったんだ。
「……悪りぃ、どうやら人違いだったみたいだ」
 名前を読んでおいて人違いも何もないが、俺は言った。
「え? で、でも……」
「じゃあな」
 引き止めようとする長森を振り払うように、俺は教室を出た。

 それぞれの教室に向かう人達の波。
 俺はその中を泳ぐようにして学校を出た。
 どこか行くあてがあるわけじゃない。
 ただこれ以上、学校にいたくなかった。
 長森やそれ以外の友達の隣に、これ以上いられなかった。
 理由はわかっていた。
 自分の存在が少しずつ薄れ始めている。
 だから長森は俺の事を思い出せなかったんだ。
 子供の頃からずっと一緒だった長森が俺の事を忘れたんだ。
 きっと他の人だって同じに違いない。
 それでも、俺は最後の希望にすがって、自分の家に向かって走り出した。

 みさおが死んで由起子おばさんに引き取られて、二人だけで暮らしてきた家。
 といってもおばさんは忙しかったから二人で家で過ごす事は決して多くはなかった。
 俺は玄関で靴を脱ぐと、アドレス帳を開いておばさんの会社に電話をかけた。
 電話に出たのはおばさんの部下らしい、若い男だった。
 俺は甥の浩平と名乗ったが、おばさんには取り次いでもらえなかった。
 もちろん、おばさんが忙しかったからではない。
 自分には甥はいないと言ったらしい。
 いないわけじゃない、これからいなくなるんだ、だからその前におばさんの声が聞きたいんだ、と言いたくなって、やっぱりやめた。
 すみません、と謝ってから受話器を置く。
 幼なじみの長森、そして由起子おばさん。
 この二人が俺の事を忘れてしまった。
 恐らく、俺の事を思い出せる人はもう誰もいないだろう。
 俺は両足を伸ばしてその場に座り込んだ。
「……みさお、これはちょっと……ないんじゃないのか?」
 せめて二人にはさよならを言っておきたかった。
 ずっと世話になってきたお礼と一緒に。
 だけど、みさおと一緒に暮らすためには必要な事なんだ。
 俺はふらふらと立ち上がると家を出た。
 どこにも行くあてなんかない。
 だけど、ここはもう俺の家じゃないから。

 玄関のドアを開けた。
 その瞬間に目に入ったのは、見慣れた家の道路ではなく、里村茜の姿だった。
 ちょうどチャイムを鳴らそうとしていたところだったらしく、伸ばしていた手を引っ込める。
「茜……」
「浩平、学校をさぼってはダメです」
 茜は眉をひそめて、避難がましく言う。
 笑顔じゃない、怒った顔の茜。
 それでも涙が出るほど嬉しかった。
 もう誰ともまともに言葉をかわせないまま、旅立たなくちゃいけないと思っていたから。
「別にいいじゃねえか。たまに一日くらいさぼったって」
 しかし実際に口から出た言葉は、憎まれ口としかとれない言葉だった。
「ダメです。さあ、早く学校に行きましょう」
「嫌だ。俺は絶対に行かないぞ」
「ダメです」
「俺がどうしようと勝手だ。茜にとやかく言う権利はないぞ」
「じゃあ、浩平には学校を休む権利があるんですか?」
「………」
 ないな、きっぱりと。
 しかし何があろうと学校に行くわけには行かない。
「とにかく俺は絶対に学校に行かないからな。俺なんか放っておいて一人で行けばいいだろ?」
「嫌です」
 茜はきっぱりと言った。
「浩平がどうしてもさぼるなら、私も一緒にさぼります」
「………」
 何を考えてるんだ? こいつは。
 俺は根負けして、ひとつため息をついてから言った。
「……わかったよ。勝手にしろ」
 俺は玄関の鍵をかけて、どこに行くか考えながら歩きだした。
 隣に茜が並んで付いてくる。

「浩平、これからどこに行くんですか?」
「そうだな……商店街に行こうか」
「はい」
 しかし不思議な気分だ。
 幼なじみの長森や由起子おばさんが俺の事を忘れてしまった。
 それなのに、ほんの数ヵ月前までは同じクラスのくせにろくに口を聞いた事がなかった茜だけが俺の事を覚えている。
「……浩平、どうかしましたか?」
「え?」
「さっきからずっと私の顔を見てます」
「……いや、なんでもねえよ」
 しかしわかっている。
 茜だってもうすぐ俺の事を忘れてしまうだろうし、それよりも先になるか後になるかわからないが、いずれ俺自身がこの世界から旅立ってしまう。
 それならせめてそれまでの間、茜と一緒に過ごした短い時間にすがっていたい。
 商店街に着いた。
 平日の昼間の商店街は、学生がいないせいで寂しい雰囲気だった。
「そういやあ、前にここでばったり会った事があったな」
「はい。私が山葉堂の前で並んでいたら、浩平が声をかけてくれた時ですね?」
 良かった。茜はまだ覚えている。
 一ヵ月も経たない、覚えていて当たり前の事を、茜は覚えてくれている。
 たったそれだけの事が、泣き出しそうなくらいに嬉しかった。
「……食べませんか?」
「え?」
「山葉堂のワッフルです。あの時みたいに公園で食べませんか?」
「……そうだな。そうするか」
「はい」
 俺と茜は山葉堂の前まで行ってみた。
 いつもは店の前に行列ができている山葉堂も、学生がいない平日の午前中は並んでいる客は一人もいなかった。
「今度は俺が買ってくるよ。何にする?」
「この前と同じのがいいです」
「……そうか。じゃあ俺もそれにしようかな」
 答えて歩きだそうとした俺を、茜が引き止める。
「……無理しなくてもいいですよ?」
「え?」
「無理に私に付き合わなくてもいいです。浩平の好きなのを買って下さい」
「いや、今日はあれを食べたい気分なんだよ」
 そんな気分には永遠にならないだろうな、と思いながら俺はウソをついた。
「……本当ですか?」
「本当だよ……そうだな、他のはまた今度食べるよ」
 また今度、なんてもうないけどな。
 俺はまだ何か言いたげな茜を置いて山葉堂の前に行く。
「すいません、蜂蜜練乳ワッフル四つ下さい」
「え?」
 店員が聞き返す。
「い、今、なんて言いましたか?」
「蜂蜜練乳ワッフル四つ」
「……本当に蜂蜜練乳ワッフルでよろしいですか?」
「はい」
「今ならストロベリーワッフルが……」
「……いいから早くして下さい。連れを待たせているんです」
「は、はい……」
 店員はようやくワッフルを箱に詰め始める。
 ……まともに商売する気あるのか? この店は。
 俺はワッフルの箱を受け取り、代金を払うと、すぐに茜の所に戻った。
「茜、待たせたな……あれ?」
 茜がいない。
 辺りを見回してみる。
 しかし茜はいない。
 トイレにでも行ったのだろうか。
 しばらく待ってみる。
 それでも茜は帰ってこない。
 俺を置いて帰ったのか?
 いや、普通は俺に一言声をかけるだろう。
 それなら茜は一体どこに……。
「……そうか」
 口から震えた声が漏れる。
 忘れてしまったんだ、茜が俺の事を。
 これで俺の事を覚えている人は一人もいなくなった。
 俺をこの世界につなぎ止める物は、何もなくなったんだ……。

 行くあてもなく、ふらふらと町を歩く。
 みさおと母さんが死んで、由起子おばさんに引き取られてやってきた町。
 あれからどれだけの季節が巡っただろう。
 だけど俺は何も変わらなかった。
 小さな子供のように膝を抱えてうずくまって、大切な人が隣にいた、二度と帰らない時を思って、ただ一人で泣き続けていた。
 それは今も変わらない。
 いよいよこの町を離れようというのに、俺は何も変わっていない。
 ……いや、変わらなかったからこそ、この町を離れなければならないのだ。
「……雨か?」
 鼻の頭に冷たい感触を感じ、顔を上げる。
 いつのまにか暗い雲が空を覆い、いくつもの雨の雫を落としている。
「………」
 俺はいても立ってもいられない気持ちになり、歩きだした。
 行く先は決まっている。
 ぼうぼうに伸びた枯草に覆われた空き地。
 そこにいる人は、もう俺の事を覚えていないだろう。
 それでも俺は歩いていた。
 頭で考えるよりも早く、身体が勝手に動きだしていた。
「………」
 空き地に着いた。
 予想通り、ピンク色の傘をさして、ぼうぼうに伸びた枯草の中に埋もれるようにして、里村茜はそこに立っていた。
 俺は意を決して空き地に足を踏み入れ、声をかける。
「よお、また会ったな」
「………」
 しかし茜は無言で俺を見ただけだった。
 いつものように嫌そうな顔で、でも少しだけ驚いたように、俺の名前を呼んではくれなかった。
「……誰ですか?」
 まるで知らない人に声をかけられたように、茜は言った。
 ああ、そうか。
 俺の事は忘れてしまったのか。
 やっぱりそうだったのか、という気持ちがある一方で、胸が痛くなったのも事実だった。
 数ヵ月前にこの空き地で出会うまでは、教室ですれ違っても言葉を交わさない。
 あの時の関係に戻っただけなのに。
 胸を痛める必要なんて、何もないはずなのに。
「……悪りぃ、人違いだった」
「………」
 茜はただ黙って俺の事を見ている。
「なあ、こんな所で何してるんだよ」
「待っているんです」
 いつも通りの答え。
 そして俺もいつも通りに聞き返す。
「待っている?」
「はい。好きになった人を……好きになって、まだ気持ちを伝えていない人の事を待っているんです」
「ひでえ奴もいるもんだなあ」
「……いえ、私が勝手に待っているだけですから」
「そうなのか……あ、そうだ。良かったらこれ、食えよ」
 そう言って、さっき買ってきたばかりの山葉堂のワッフルの箱を茜に渡す。
「……これは?」
「差し入れだ。もし多かったら、お前の好きな奴に食わせてやれよ。ちょっと甘すぎるかも知れないけど……」
「……二人で食べるんじゃなかったんですか?」
「!」
 茜の言葉に、俺は一瞬、心臓が止まったような衝撃を受けた。
「私が浩平の事を忘れたと思ったんですか?」
 茜は俺の事を忘れたわけじゃなかった。
 そして俺がこの世界から消えてしまうのを知っている。
 それはつまり……。
「私はここで浩平の事を待っていたんです」
 ようやく全てがわかった。
 茜の幼なじみは……茜が好きになった奴は……俺と同じように、永遠を望んで、この世界から消えてしまったんだ。

「……あの日も、こんなひどい雨の日でした」
 どこか懐かしそうな遠い目で、だけどどこか寂しそうに、茜は言った。
「最初はすれ違ってからその人だと気付くような、そんな違和感でした。
 それが次には友達があの人の事を忘れて、両親が忘れて、私とあの人の共通の幼なじみが忘れて、そしてあの人も周りの人を避けるようになりました」
「………」
「最後に、私だけが彼の事を覚えていました」
 いつもの俺なら、何も知らないままの俺なら、きっと茜の話を、そんな事あるわけないだろ、と笑っていただろう。
 しかしそれは今の俺の周りで起きている事と同じだから、俺もいずれ茜の幼なじみと同じようにこの世界から消えてしまう人間だから、何も言えなかった。
「……あの日も、こんなひどい雨の日でした。
 行く場所をなくしてこの空き地にいたあの人に、私は何が起きてるのか問い詰めました。
 だけど彼は寂しそうに笑って、話したって無駄だよ、どうせお前だってもうすぐ俺の事を忘れるんだからって……そう言ったんです。
 そして……私の目の前から消えてしまったんです」
 傘を握る茜の手が、白くなっている。
 雨の冷たさでかじかんで、そして傘を握る手に力を入れ過ぎて。
「だから私は、あの人の事を忘れないようにしました。
 毎日毎日、空いた時間を見付けてはあの人の事を思い出して……。
 あの人がくれた言葉を繰り返して、あの人のぶっきらぼうな、だけど優しい笑顔を思い浮べて……そして時折見せる寂しそうな遠い目を何度も何度も思い返しました。
 そうしてあの人の事を記憶にとどめていれば、あの人をこの世界につなぎ止めている物をなくさないでいれば、いつか帰ってくるんじゃないかって。
 そして最後に別れたこの空き地で待っていればあの人がひょっこり帰ってくるんじゃないかって、その時は雨に濡れないように傘をさしてあげて、お帰りなさいって言ってあげなくちゃいけないと思って。
 だけど……」
 茜はうつむいて、首を左右に振った。
「だけどあの人は帰ってきませんでした。
 こうして待っているのに……冷たい雨の中、私はあの人が帰ってくるのを待っているのに。
 他の人が忘れてしまっても、私だけはあの人の存在を忘れてないでいるのに……」
「茜……」
 何かを言おうとして、俺はやめた。
 今の俺に、何が言えるのだろう。
 茜の幼なじみと同じように、茜を置いていかなくてはいけない俺に。
「だから……」
 茜はそう言って、さしていた傘を放り出した。
 傘はゆっくりと、雨で泥のようになった地面に落ちて、小さな音を立てる。
「だからあなたの事は忘れます。
 待っていても帰ってこないなら……待ち続けて一人で辛い思いをするなら……。
 忘れてしまえば楽になるから……傷付かずにすむから……」
 茜が俺に背を向ける。
 その細い肩に、いつも以上に小さく見える肩に、容赦なく雨は降り続ける。
「茜……」
 つぶやいて、茜を抱き締めようと手を伸ばしかけて、俺は思いとどまった。
 ああ、そうだったな。
 この空き地で会ってから、ずっとそうだったな。
 俺と茜の間にはいつも雨が降っていて、俺は雨の隙間から茜を見ていた。
 一人で大切な人を待ち続けて、傷付いている茜の事を。
 この世界から旅立つ俺に、茜を抱き締める事はできない。
 だけどこの世界から旅立つ俺だから、俺にしか言えない言葉が、俺にしか伝えられない気持ちがあるはずだ。
 茜を抱き締めようとして、中途半端なところで止まっていた手を握り締めて、俺は言った。
「俺は……帰ってくるよ」
「……あなたの事は待ちません。
 あなたが帰ってきても、私は別な人を好きになっているかも知れません」
「それでもいい。
 茜が俺の事を忘れていても、それでも俺は帰ってくる」
「どうして? どうして辛くなるような事ばかり言うんですか!?」
「俺は茜の事が……」
 好きだから。
 言いかけた言葉は、最後まで言えなかった。
「浩平!」
 茜が振り返り、俺の名前を呼ぶ。
 それがこの世界で俺が聞いた、最後の言葉だった。

「俺は茜の事が……」
 浩平の言葉は、途中で途切れてしまいました。
「浩平!」
 私は振り返り、浩平の名前を呼びました。
 伸ばした手は何もない空間を……ただ降り続く雨の他には何もない空間を横切っただけでした。
 泥のようになった地面に両膝をつき、私は行き場をなくした腕で自分の身体を抱きました。
「どうして!? どうして私が好きになった人は、みんな私の前から消えてしまうの!?」
 私は地面にうずくまり、大きな声を上げて泣きました。
 いつまでも泣き続けました。
 その間にも雨は降り続いています。
 あの日……私の目の前から幼なじみが消えてしまった、あの日からずっと。

「お兄ちゃん!」
 声と共に、小さな身体が俺に飛び付いてくる。
 みさおだった。
 あの日、小さな子供のままで死んでしまったみさおだった。
 あの頃のままで、あの頃に帰ったかのように、俺の身体にしがみ付いている。
「お兄ちゃん……これからはずっと一緒にいられるんだね……ずっと……ずぅっと……もうみさおを一人にしないでね……」
 確かにあの時、俺は永遠を望んだ。
 みさおと二人だけの、永遠を望んだ。
 だけど……ごめん、みさお。
 長くは一緒にいられない。
 俺には大切な人がいるから。
 大切な人のために、帰らなくちゃいけない場所があるから……。

 そして……。

 今日もこの町に雨が降ります。
 私はいつものように傘をさして、あの空き地に立っています。
 私がこの空き地で大切な人が帰ってくるのを待つようになってから、一年以上が過ぎました。
 最初、私が待っていたのは、ずっと片思いだった幼なじみでした。
 しばらくすると、ろくに話をした事もないクラスメートが現われ、私に声をかけるようになりました。
「よお、また会ったな」
 そう気安く声をかけるクラスメートを、初めは煙たく思いました。
 しかし何度も何度も私を訪ねてきては少し照れくさそうな笑顔を見せられるうちに、幼なじみの記憶を思い返していてもクラスメートの事を思い出すようになりました。
 最初はクラスメートの向こう側に、幼なじみの記憶を見ていると思っていました。
 あのクラスメートが幼なじみの長森さんに接する姿を、私の幼なじみが私に接する姿に重ねていると思っていました。
 幼なじみが時折見せた寂しそうな遠い目を、クラスメートの瞳の中に探していると思っていました。
 しかし彼がくれたココアの暖かさに、口に合わないワッフルを苦労しながら食べる横顔に、幼なじみが持っていなかった物を、クラスメートの彼しか持っていない物を見付けてしまいました。
 そして私が幼なじみの影ではなく、クラスメート本人に惹かれている事に気付きました。
 雨の降る空き地で幼なじみを待ちながら、心の中ではクラスメートが来てくれるのを待っている自分を知りました。
 だけど……言えませんでした。
 言えるはずがありませんでした。
 私の幼なじみが永遠を望んで私の目の前から消えてしまった事は。
 クラスメートとこの空き地で初めて会った時、彼の瞳の中に見た物。
 それは幼なじみが時折見せた寂しそうな遠い目だったから。
 夕焼けよりも遠く遠く、永遠を望む目だったから。
 彼がいつか、私の隣から旅立ってしまう事がわかっていたから。
 幼なじみと同じように、永遠を望んで私の目の前から消えてしまう事がわかっていたから……。
 だから……。
 もう二度と、こんな思いをしたくなかったから。
 帰ってこない誰かを待ち続けて、一人傷付いていたくなかったから。
 あなたの事は忘れると言ったのに。
 あなたの事は待たないと言ったのに。
 それなのに今もこうしてあなたの事を待っています。
 あなたの事を忘れるために他の事を考えても、巡り巡ってあなたの顔に行き着いてしまいます。
 あなたの事は待たないつもりなのに、雨が降ると自然にこの空き地に足が向いてしまいます。
 最後の時、あなたがこの世界から旅立つ最後の時、あなたはどうしてあんなに残酷な事を言ったんですか?
 帰ってくると……必ず帰ってくると……。
 あんな事を言わなければ、私はあなたの事を待たずにすんでいたのに。
 あなたの事を忘れてしまえたのに。
 忘れてしまえば、こんなに辛い思いはせずにすんだのに!
 泣き出しそうな気持ちを抱えながら、帰ってこないあなたを待ち続けなくてもよかったのに!
 その時。
 水たまりを踏んだ、小さな水音。
 私はとっさに傘を放り出しました。
 靴が泥で汚れるのも構わず、短い距離を飛ぶように走って……あの人の身体に抱き付きました。
「茜、顔上げろよ」
 少しだけ戸惑ったような声で、あの人は言いました。
「……嫌です。人違いだったら辛過ぎます」
「人違いなんかじゃねえよ。だから顔上げろよ」
「……はい」
 ゆっくりと顔を上げます。
 涙で歪んだ視界の中に少し照れくさそうな笑顔を見付けて、私は嬉しい時にも涙が流れる事を知りました。
 そしてあの人は……私が雨の中でずっと待ち続けたあの人は……私がずっと聞きたかった言葉を言ってくれました。
「よお、また会ったな」

 それから数日後。
 俺は商店街にほど近い公園で茜と待ち合わせをしていた。
「……お待たせしました」
「遅いっ!」
 俺は怒鳴った。
「三十分も遅刻してるぞ!」
「ごめんなさい」
 少しも悪びれた様子を見せず、茜が言った。
「だけど私は浩平を一年も待っていたんです。三十分くらい気にしないでください」
「ちえっ、これからは茜と待ち合わせをする度に待たされるのかよ」
「冗談です。本当は寝坊しただけです」
「………」
 ま、いいけどな。最初から怒ってないし。
「これからどうする?」
「何か食べたいです」
「そうだな。まずは商店街に行くか」
「山葉堂のワッフルがいいです」
「……個人的には蜂蜜と練乳の奴は嫌だぞ」
「おいしいのに……」
 心底残念そうな顔をする茜。
「わかった、わかった。あれはまた今度食べてやるから」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「じゃあ、今日は新製品を食べてみましょう」
「し、新製品!?」
「はい。今日、新製品が出るんです」
「……なんだかついこの前、新製品が出たばかりのような気がするんだが」
「もう一年になります」
「あ、そうか」
 気分はすっかり浦島太郎だ。
「さ、浩平、早く行きましょう」
「そんなに急がなくても山葉堂はなくならないぞ」
「山葉堂があっても新製品が売り切れていたら嫌です。だから急ぎましょう」
 茜が俺の手をひっぱる。
 俺も仕方なく、茜に引きずられるように歩きだす。
「浩平」
「ん?」
「言い忘れてました。さっきはありがとうございました」
「ありがとう?」
 全然心当たりがないな。
「はい。私が来るのを待っていてくれた事です」
 明るく笑って茜が言う。
 茜にもこんな明るい笑顔ができたんだなあ。
 妙な事に感心してみたりして。
 茜が俺を待っていた時間に比べたら大した事ねえよ、と言いかけたところで、茜が俺の手を引く力が少しだけ強くなった。
「走りませんか?」
「そうだな。走っていこうか」
 俺と茜は走り出す。
 もう二度と雨なんて降らなさそうなくらいに、どこまでも晴れ渡った空の下を。

雨の日の待ち人(後編) 了


あとがき

 ど〜も、wen-liです。
 「雨の日の待ち人(後編)」いかがだったでしょうか。

 なんだかとってもいい感じに仕上がりましたねと自己満足気味の今日この頃。
 これだけいい設定があるのに、どうしてタクティクスさんはあんなシナリオしか書けなかったのかしらと増長しまくりっていうか自信過剰な今日この頃です。

 やっぱり私がONEで気に入らなかったのは、主人公が別の世界に行く事の意味がよくわからない事です。
 主人公が消えた後、茜は主人公の帰りを待つ事になりますが、主人公が消える前はみずか(本作ではみさおになってます)が主人公の事を待っているのではないか、と思ったので、その辺からいろいろとふくらませて、主人公とみさおの立場を明確にしてみました。
 ゲーム中ではわけわからん事しか言ってないみずかですが、本作のみさおはできるだけ主人公が今日一日体験した事について話すようにして、普段の主人公との一体感みたいのを出してみました。

 次は茜シナリオへの文句と本作での変更点について。
 ゲーム中では茜は自分が待っている幼なじみの話をほとんどしていません。
 本作では私の想像を交えつつ、主人公と幼なじみの事を比較してみたりしました。
 でも前編でもうちょっと幼なじみの話が多くても良かったかな、というのと、幼なじみのエピソードの関係で、やっぱり詩子は出しておけば良かったかな、とちょっと後悔。
 それでも前編のあとがきで書いた事は間違ってないと思うし、「ふられたんだよ」という言葉は入れませんけど。
 ゲーム中では例の空き地で工事が始まり、茜は空き地で主人公を待つ事ができなくなります。
 しかし茜の「待つ」という行為が本当に報われるには、やっぱり雨の降る空き地に主人公が帰ってこなくちゃいけないと思います。

 それで思うのは、茜は幼なじみの話をほとんどしませんが、もしかするとゲームの脚本書いた人は「茜の幼なじみは主人公と同じく永遠の世界に消えてしまった」という設定が途中でばれてしまうのが怖かったのかも知れません。
 私のは二次創作なので、読んでくれる人はもうそんな事はとっくに知っていると思いますので、全然気にしなくていいのですが……っていうのは冗談として、これくらいならばれませんよね?

 本作は基本的にゲームのストーリーとほとんど同じ構成になっており、ゲーム中で説明不足だったり、このシーンちょっと変じゃない? というのを書き直しています。
 それで切り捨てられた要素もまるでないわけではありません。
 茜に自分の事を忘れられたのかと主人公が誤解するシーンで、「忘れられたことよりも…。笑顔を取り戻した茜に、その冷たい表情が戻ってしまったことが…。それだけが…。悲しかった。」という文章があります。
 確かにHもしたし、だいぶ親しげな感じにもなりましたが……なんか笑うようになったかっていうと、あんまりそういう気はしないんですけどね。
 それに「ふられたんだよ」と言う前から少しずつ仲良くなってますし。
 その辺を実際のストーリーで強調すると茜が別人になってしまうので、本作ではそういう方向性は切り捨てました。
 他にもいろいろとあるので、書こうと思えばあと2,3パターンは書けるんじゃないでしょうか。
 面倒なので書きませんけど。

 次回は盲目の美少女、川名みさき先輩を予定しています。
 いつになるか自分でもわからないので、あてにしないで待っていただけると嬉しいです。

 感想お待ちしてます。
 でわでわ。


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