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天使のいた日々

うあーーーん。
泣き声。
女の子の泣き声だ。
聞き覚えがある…誰だっけ?

≪11月30日≫

「…うへい。」

「浩平!おきなさいよ。」
長森の声だ。今日も起こしに来てくれたらしい。
俺は思い切って目を開ける。
光に馴染んでないのでまだ目が痛いがベッドの横に立つ長森の姿を確認して、
「おはよう」
と声を掛ける。
「おはよう。今日は機嫌がいいみたいだね。」
「昔の夢を見たよ。ほら、転校して来たばかりの頃。おまえ泣き虫だったよな。」
「浩平が意地悪ばっかりしたからだよ。」
「そのくせ、俺が謝るとけろっと泣き止んでな。」
「違うよ。浩平が先生に怒られて謝りに来た時には、もう泣き止んだ後だったじゃない。」
「そうだっけ」
「そうだよ。それよりもう起きないと」
そう言われてしかたなく上体を起こす。それにあわせて飛んできた制服を胸元で受け取る。
もう5年近く繰り返してきているので二人とも息はピッタリだ。二人して芸人でも食っていけるんじゃないかと思えるほどだ。前にそのことを長森に話したら見事に拒否されたけど…。
そんなことを考えながら階段を降り、リビングで制服に着替える。上着を方にかけただけに状態で台所に入ると、いつもどおりおばさんがが用意しておいた朝飯がある。
空のマグカップにトマトとチーズのオープンサンド。
おばさん自身イスに座って朝食を取ってなどいられない身分なので、朝飯は必ず片手で食えるようになっている。
パンを咥えながら、カップを冷蔵庫の横にあるコーヒーメーカーに置いて、スイッチを入れると少しぬるめのコーヒーが注がれる。これも熱いコーヒーだと一気に飲み干せないからだ。
再びカップを取って口をつけはじめる頃、階段を降りてくる音がして長森が入ってきた。
「長森コーヒーは?」
「そんなにのんびりしていられないよ。」
「そうか」
そう言われて俺は残りのパンを口に押し込み、コーヒーで一気に流し込む。長森から鞄を受け取り玄関で靴を履き替える。
「何分?」
そう聞くと長森が腕時計をこちらに向ける。
「なんだ。走ればまだ間に合う。」
「走らなきゃ間に合わないのっ!」
俺は長森の反論から逃れるように玄関を飛び出した。

俺には両親がいない。父親は俺が4歳の時に交通事故で他界。母親は現在行方不明。失踪したのは俺が7歳の時だ。こうして身寄りを失った俺を引き取ったのが今の同居人である由紀子さんだ。由紀子さんは俺の母親の妹でバリバリのキャリアウーマン。独身だが金銭的に余裕があるので、引き取り手としてはもってこいだった。もっとも俺自身は親戚にどんな人間がいるのかなどまったく知らないが。
俺がこの町に連れてこられたその日、由紀子さんは一人の女の子を俺に紹介した。
俺は速度を緩めない様に後ろを見る。
そう。あの時紹介された女の子こそ、この長森瑞佳なのだ。
あの頃の俺は家族を失った悲しみのせいか、母親に捨てられて人間不信になっていたのか、とにかく自分に近づく人間を拒否し続けた。大抵の人間はすぐに俺から離れていったが、何故かこの長森だけは俺に付き纏った。あまりにしつこいので追い払うために長森を苛めるようになった。それでも長森は俺に付き纏うのを止めなかった。そうして苛めがエスカレートしていき…。ひどい話しだがあの頃はそれが生き甲斐みたいなものだった。止める奴や庇う奴は一緒に苛めてやったし、先生に叱られれば腹いせに車に傷をつけてやった。
そして俺の周りには俺を尊敬する奴や、おれの行動力を買いたがる奴等が集まるようになり…今に至る訳だ。
「おわっ」
「きゃあぁ」
回想に浸っていたせいで認識が遅れたらしい。気がつくと俺の目の前には女の子が立っていて俺はそこに突っ込もうとしていた。しかし踏ん張りを効かせて後方へ飛び引き、衝突を回避する事に成功した。ところが向こうも咄嗟に身を引こうとしたらしく横に跳ねたのだが、着地時に踏ん張り損ねたらしく、バランスを崩して地面に倒れ込む。
ビターーーン
ついでに受け身も取り損ねたらしい。音から判断して腹を打ち付けているに違いない。
一瞬、手を貸してやろうかと思ったが、こっちは急いでいる身だし、ぶつかった訳じゃない。
「危なかったな。気を付けろよ。」
倒れている女にそう声を掛けると、彼女の脇を抜けて走り去った。
「まちなさいよっ」
後ろで怒鳴り声が聞こえたが空耳に違いない。

昇降口に入った時には予鈴が鳴り始めていた。靴を履き替えて猛ダッシュをかけたおかげで教室に入ったのは最後の鐘と同時だった。
「今日は危なかったな。」
自分の席に着くと隣の住井護に声を掛けられた。
「ちょっと事故があってな。」
「何ぃ、相手の車が変形するほどの勢いでぶつかったのに、平気な顔して学校に出てきたと言うのか?」
住井とは高校に入ってからだが、結構気が合うので俺は何かやる時はこいつの協力を仰ぐ事にしている。住井の方は俺と同じ中学の出身者が広めた『折原の伝説』を聞いて、俺に興味を持ったらしい。『折原の伝説』と言うのは今こいつが言ったようなホラやデタラメの事だ。
「車じゃなくて人間だ。それに直前に回避した。」
「と言う事は…」
住井の奴が何かを言いかけた時、教室のドアが開いて髭面の担任が入ってきた。しかし今日はその後に女が付いてきている。
教育実習生?しかしその割には幼く見えるな。見た目16、7ってところか?それにあのツインテールどっかで見た事がある。
「あー、静かにしろー」
俺が考え事をしている間に教室は大騒ぎになっている。廊下から始まったウェーブは隣の列までやってきて、住井の奴も立ち上がってそれに混ざる。住井が立ち上がったのを見て俺もそれに倣うことにする。まあ、なんとなくだけど。
「あまりはしゃぐな。…と言う訳で、転校生君だ。」
なるほど転校生か。しかしあの女、今朝の…。
「えーとぉ、七瀬留美です。こんな時期に転校になって不安だったんですけれどぉ、みんな楽しそうな人たちで安心しました。」
再び教室は拍手とシュプレヒコールの渦に包まれる。松野などは椅子から立ち上がって手を叩いている。だんだん拍手が手拍子に変わってきて、松野がそれに合わせて踊りはじめた。あいつなりの自己アピールってところだな。
「そこ席に就けー。折原、奥の教室から椅子と机を持って来ておまえの後ろに付けてやれ。住井、おまえも手伝ってやれ。以上。」
髭が出て行くとクラスの野郎共は転校生を取り囲む。それを横目で見ながら俺と住井は教室を出た。
「まいったぜ。」
まず俺がそう言った。
「言っとくけど、俺は手伝いだからな。おまえが机で俺が椅子な。」
住井は俺が企んでると解釈したらしい。
「実はな。」
「なんだよ。」
「今朝ぶつかりかけたって言うのはあの子なんだ。いやぁ、いかにも運命的だと思わないか?」
予備教室のドアを開けながらそう言ってやった。本心はまったく嬉しくないのだが。
「つくならもっとましな嘘を付け。」
普段が普段なだけにまったく信用されていない。
「今度ばかりは本当だ。ちゃんと証人もいるしな。」
俺は室内にあった机のうちの一つを持ち上げる。
「その自信。さては本当だな。」
「さっきからそう言っているだろう。」
「いや、おまえの場合は信用できないからな。」
こいつに信用されなくて困ることなど無いが…。
そんなくだらないことを話しているうちに教室に戻って来た。教室の前の方にはさっき見たとおりの黒山の人だかりが在って、その中心にあの転校生がいることが伺える。
俺は机を持って自分の席の前まで来ると一旦それを自分の机の横に降ろした。次に自分の椅子と机を抱えてずりずりと後ろに引き摺る。
「おいおい、何をする気だ。」
椅子を抱えたまま俺の行動を見ていた住井が質問を投げてくる。
「手伝ってもらった礼におまえの隣にあの子の席を置いてやろう。」
「おお、それは魅力的な提案だ。礼を言うぞ、折原。」
そう言うと住井は自分の席の横に転校生の席を作った。げんきんな奴で、自分にメリットがあると見ると行動が速い。
「机持って来てもらってありがとう。」
顔を上げるとそこに転校生が立っている。よく見れば結構可愛い顔をしている。身長は俺より少し低いくらい、165から168ってところだろう。若干肩幅がしっかりして見える。多分、何か運動をやっているんだろう。
「あ、俺は住井護。ところで七瀬さん、この折原とぶつかりかけたんだって?」
七瀬とか言うこの女は俺の顔を見て表情を引きつらせる。
「悪かったな。急いでいたもんで。」
俺は悪気はなかったと言うように言ってやった。しばらく見詰め合った後七瀬は黙って席に着いてしまった。
「嫌われちゃったかな?」
住井の方に向き直して聞いてみる。住井はさあとでも言うように肩をすくめて見せた。

終業の鐘が鳴り、6時間目の授業が終わった。何度か七瀬に和解を求めたが、七瀬の方が取り合ってくれなかった。こう言う事は時間を置いた方が良いだろう。
「長森、一緒に帰ろうぜ。」
長森の席は教室の扉脇にある。俺はまだ帰り支度をしている長森の近くまで言ってそう声を掛けた。
「私、今日は部活だもん。」
「なんだよ、抜けられないのか?」
「抜けられないこともないけど…。それより浩平もたまには部活に出たら?」
「俺が出たところで何も変わらないよ。」
俺が所属する軽音部は、活動状況が芳しくない。どうしても音楽に対するポリシーの違いなどがあって、部全体が折り合わず、解散同然の状態だ。
「でも、誰か来ているかもしれないし」
「わかったよ。」
「じゃあ、途中まで一緒に行こ。」
「ああ。」
俺がそう言うと、長森は鞄を持って立ち上がり、二人一緒に教室を出た。
「28日だったよな?」
長森はオケ部に所属している。28日と言うのは毎年市民ホールで催される第九の合唱会のことだ。その前座としてさまざまな出し物が用意されていて、うちの学校からオケ部が出るのは毎年恒例のことだった。
「本格的な練習は来月半ばからだよ。今日は主に卒業送別会で演奏する曲のパート選び。」
「ほとんど暇がないな。」
「そうでもないよ。日曜日とかは練習休みだし、それに1月はほとんど練習ないはずだよ。」
「それにクリスマスだって空いているし。」
「そんなんで良いのかねぇ。」
「ちゃんと22、と26に練習があるから、本番前はそれぐらいがちょうど良いんだって。」
「ふーん。じゃあ、ここで」
俺は『軽音部』と書かれたドアの前で立ち止まる。瑞佳の所属するオケ部はこの先の音楽室で練習している。
「じゃあ、がんばってね。」
長森はそう言って音楽室に向かった。
「どうせすぐ帰るだけさ。」
俺はそう呟くと、誰もいる筈のない部室のドアを開けた。
「やあ、折原君。」
不意に声を掛けられる。部室にはクラリネットを手にした野郎が一人いるだけ。
「誰だおまえ?」
「キミと同じ部員さ。しばらく来ていなかったけどね。」
「なんで俺の名前を知っている?」
「覚えてないかい。僕らは初対面じゃないんだよ。」
「自己紹介のときのことを言っているのか?あんなの一瞬だったじゃないか。」
「僕は覚えているよ。人の名前と顔は一回で覚えるようにしているからね。」
俺は感心してしまった。俺は人の名前を覚えるのが苦手な方で、特に馬が合いそうにない奴はなかなか覚えられない。
「僕は2―Aの氷上シュン。」
「俺は2―Dの折原浩平だ。」
「女の子と一緒だったね。恋人かい?」
どうやら廊下の声が聞こえていたらしい。
「いや、幼なじみだ。付き合いが長いんで何処にでもくっついて来る。」
「うらやましいね。」
「そうか?」
「キミにとって彼女は欠くことの出来ない存在であるように、彼女にとってもキミは欠くことの出来ない存在なんだろうね。」
確かに俺は長森に頼っている所が多いけれど、あいつは俺がいなくてもやっていけるような気がする。
「そうでもないさ。別れたら別れたでそれぞれやっていけるだろう。」
そう言ってやると氷上は軽く首をかしげたが、すぐに俺の方を見て
「どうだい。あわせて見ないか?」
と言った。
「クラとベースで?何をやるんだ?」
「何だっていいさ。とりあえずやってみれは相性がわかる。」
「相性?縁起でもねえ。悪いが今日は気分が乗らねえんだ。」
「そうかい。残念だ。」
氷上はそう言ったものの、たいして落胆しているようには見えない。
「また会えるかな?」
「わからん。今日会ったのだって偶然だからな。また会えるとしたら奇跡かもな。」
「じゃあ、信じてみるよ。その奇跡を」
俺はあえて何も言わず部室を出た。
氷上シュンか…なんかあいつとは馬が合いそうだな。

うあーん。痛いよう。
うあーーーーーん。
うあーーーん。
ごめん。あやまるから泣きやんでくれ。
うん。わかった。

≪12月5日≫
ボッボボンボンボッ…
不思議なドラム音。聞いたことの無い曲だ。
しかしすぐにそれが音楽でないことに気が付いた。
俺は瞼を開け、上半身を起こし、ベッドから這い出た。
まだ長森の来る時間ではないらしい。
俺は窓の側に行き、カーテンを開ける。
やっぱりな…。外は雨が降っていた。夢見心地で聞いたドラムの正体は、トタンのひさしを打つ雨の音だった。
起きたついでだ。俺は制服に着替えて一階に降りた。
いつもより早く起きたとは言え、おばさんは既に出た後らしい。台所にはいつも通り朝飯が用意されている。今日はハムチーズトーストだ。俺は皿ごと電子レンジにいれて、『あたため』のボタンを押す。それを待つ間、カップをコーヒーメーカーに乗せ、抽出のスイッチを入れる。20秒ほどでカップにコーヒーが満たされる。今日は冷えるので、まずそれを一気に飲み干し、二杯目のを注ぐ。カップが満たされないうちにピーッと言う音がして電子レンジが止った。俺はすぐに皿を取り出し、熱々のトーストをかじる。それから左手にカップを取って、コーヒーを一口啜り、再びトーストかじる。
僅か三口で朝食を食べ終え、残ったコーヒーもすばやく飲み干す。 それからトイレに行って用をたし、出て来てから時計を見る。
今出ればゆっくり歩いてちょうど良いくらいだな。長森がまだだが、行きがけに捕まえられるだろう。
そう考えて、雨の降る中、学校へ向かうことにした。
家を出て少し歩いた所にある交差点。普段なら真っ直ぐ行く道だ。しかし左手の通りを覗き込むと、そこにはうちの女子制服を着た長いおさげの少女が立っていた。
あいつ、またいるな…。
彼女は同じクラスで里村茜と言う。正直言って里村と話したことは一度も無い。里村は女子の中でもおとなしい方で、あまり誰かと一緒にいるのを見たことがない。俺は何度かその場所に立つ里村を見た事があるが、彼女がそこで何をしているのかまでは知らなかった。
俺は一旦時計を見てから道を折れ、里村のいる方に向かった。
へえ、まだ空き地のままだったんだ。
子供の頃よく遊んだ場所だ。その頃は隣の土地も空き地で、その広いスペースはどんなことにも使えた。
そんな懐かし居場所で、里村は何をする訳でもなく、ただ立っているだけだった。
「里村もここの出身か?」
里村の言えがこの近くならば、里村もここで遊んだ口だろう。もしかすると子供の頃にさとむらと会っているかもしれない。
「コーヘー?」
俺は里村が名前で呼ぶのを聞いて驚いた。再びさっきの考えに戻って、あの当時の子供達の顔を必死になって思い出そうとした。
「ごめんなさい。馴れ馴れしかったですね。」
「長森さん…あなたのことを浩平浩平って呼んでいるから…」
なるほど、そういう事か。里村の席は長森の席の2列後ろだ。俺が長森をからかっている所をしょっちゅう見ていたのだろう。
「俺は別に構わない。名前でも、名字でも言い易い方で呼んでくれて」
「長森さんは一緒じゃないんですか?」
「別にいつもいつも一緒って訳じゃないさ。それより、よくここにいるみたいだけれど、何しているんだ。」
「…。」
「ここに何かあるって言うのか?」
「思い出の場所です。」
「里村。家、この近くか?」
「いいえ、でもここはいつも通る場所ですから。」
「じゃあ、ここで何かあったのか?」
「…あなたの知らないことです。」
「浩ぉ平ぇー。」
後ろから長森の声がした。どうやら追い付いたらしい。
「先行きます。」
里村が俺の脇を抜けてその場を去る。そして入れ替わりに長森が俺のいる所にたどり着く。
「浩平。待っているんだったら…あれっ、あれ里村さんだよね。浩平、里村さんとなんか話してたの?」
「いや…、あのな、長森、昔ここで遊んだガキ共の中に、里村がいたか覚えてないか?」
「えっ、あっ、ああ、ここね。へえ、まだ残ってたんだ。」
「いいからっ。覚えてないか?」
「うーん。みんな覚えている訳じゃないけれど、多分、里村さんはいなかったよ。」
「そうだよなぁ。」
そう言いながら俺は学校の方に向かって歩き出した。

「おはよう。七瀬」
教室に入った俺は七瀬に挨拶をする。いつもの習慣だ。
「うん。おはよ。って折原じゃない。」
「つれないな。もう少し愛想よくしてくれてもいいのに」
「あっ、護君。おはよう。」
ちょうど住井が自分の席に着こうとしている所だ。今、来たところなのだろう。
「七瀬さん、おはよう。」
「おまえ、そんなに愛想振りまいて疲れない?」
「こらこら折原。おまえ袖にされてるからって、絡むもんじゃないだろう。」
実際、七瀬は俺以外の野郎には愛想が良い。ただしそれは七瀬が『愛想の良い自分』を演じているのであって、本音で付き合える俺とは…。やめておこう。
ちょうどその時、髭が入って来た。

授業中、俺は里村のことを見ていた。
『思い出の場所』。里村はそう言っていた。しかしそんなに頻繁に訪れ、回想にふけるような思い出…。それほどの思い出っていったい?
例えばあそこで大金を拾ったとか…そんな訳ないか。
あの場所に立つ里村の姿を思い出してみる。只立っているだけで、特に何かをしている様子も無い。少しうつむいて、何処を視ているとも知れずに、なんとなく寂しそうにしていた。
寂しそう?好き好んで寂しそうに一人で立っているって言うのか?なんでまた。
気が付くと里村がこちらを見ている。さっきから見ていたので俺に視線が気になったらしい。しかし目が合うとすぐに向き直ってしまった。…ったく、何なんだよ。いったい

俺の昼飯は大抵パンだ。今日も学食で菓子パン2個とコーヒーを買って、教室に戻って来た。
里村は一人自分の机で弁当をつついている。教室に残っている他の連中は机を付けて、何人かで食卓を囲っているので、里村が一人浮いて見える。
「よう。里村」
俺は里村の前の机に腰掛け、里村に話掛けた。この机の持ち主は今ごろ学食だろう。
声をかけられた里村は、声の主が俺であるのを知って、露骨に嫌そうな顔をした。
「あの空き地のことなんだけど…」
「話す事なんかありません。」
きっぱり言われる。
「俺もあそこには思い入れがあってな」
「…。」
「ガキの頃の遊び場だったんだ。」
「…。」
「でも、里村の思い出ってそういうのと違うだろ?」
「…。」
「寂しそうだったな。」
「!」
ほんの少しだけ、里村の警戒が解けたように見えた。
「何があったか知らないけど、俺でよければ力に…」
「あなたには関係ないことです。」
「そんな。いつまでも過去を引き摺らなくても」
「あなたには…わかりません。」
そう言って里村は視線を逸らした。もう何も話す事はないと言うことなのだろう。
俺は最後のパンのひとかけらを口に入れ、コーヒー片手に自分の席へもどった。

午後一の授業は寝るに限る。しかし机に顔を伏せていると、アタマに何かが当たった。顔を上げてまわりを見てみると、斜め前の住井が後ろ手に紙片を差し出している。どうやらまた、くだらない事を考えたらしい。さっさと紙切れを受け取りそれを広げてみる。
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ミス2―Dコンテスト開催

クリスマス前企画として
ミス2―Dコンテストを開催します。

・ ノミネート資格は2―D女子限定
・ 投票締め切りは12月8日
・ 投票方法は期間中に住井護まで。

尚、結果は12月9日、
1時間目授業中に配布予定。
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まったく、こんなくだらない企画のために、もっともらしい文章を考えやがって。
とはいえうちのクラスの女子はこれでなかなかレベルが高い。
テニス部の堀部はモデル体型で人気度じゃ筆頭候補だ。
目の前にいる七瀬の人気も侮れない。俺以外の野郎にはあんなに無邪気そうな笑顔を振り撒いていやがるからな。あの笑顔に当てられる奴等の気持ちも解らなくもない。
そう言えば長森も人気あるんだよな。1年の頃はよく口利きを頼まれたもんだ。住井の奴も長森に気があるようだ。
それから…。
ふと、里村の顔が浮かんだ。特に特徴はないけれど、でもあの顔は日本的美人って感じだよな。
あいつ…どんな風に笑うんだろう?
俺はノートをちぎって、そこに里村の名前を書いた。

「七瀬ぇ、このあと暇?」
「残念ねぇ。私寄る所あるの。」
このやり取りも、放課後の習慣になりつつある。
「何だ、まだ部活見学してるのか?適当に仮入部しちまえば?いくらでも掛け持ちは出来るんだ。」
「そんな中途半端な事、やりたくないわよ。」
「どちらにせよ行くんなら、途中まで一緒に行かねえか?俺も部室に寄ってみるから。」
「それくらいならいいけど」
俺と七瀬は教室を出た。
「七瀬は前の学校で何をやっていたんだ?」
「ん、ダンス。」
「ダンス?」
「うん。クラシックとか、タンゴとか、」
「ああ。Shall we danceってやつだ。」
「折原もそう言って女の子を誘う?」
「解んねえよ。ダンスなんて」
そう言うと階段の前まで来ていた。
「じゃあ、がんばれよ。」
そう言って階段を上る。
「じゃあね。」
七瀬もそう言って、そのまま歩いていった。
そういえば。今の七瀬、可愛かったな。

軽音部のドアを開ける。するとそこには氷上と名乗った、あの野郎がいた。
今日は来ていたか…。
「やあ」
そいつが笑顔で俺を出迎える。
「おまえ、何者だ。」
俺が言うと怪訝な顔で俺を見つめかえす。
「2―Aの奴に聞いたよ。2―Aに氷上なんて野郎はいないそうだ。」
「それは、彼が知らないだけだよ。」
「何を、馬鹿な…」
「僕は休学中の身だからね。2年になってからは一度も出席していない。だから彼らが知らないのも無理はない。」
「どこか悪いのか?」
「まあ。そんなところだ。」
「だったらこんなところにいないで、家で養生してろ。」
「いや、今日は調子がいいんでね。それにここに来れば、僕を気にかけてくれる人間がいるし。」
「俺は、べつに気にかけてなんかいないぞ。」
「少なくとも僕の存在を意識している事は確かだろ。」
「言いたい事がよく解らねえな。とにかく、俺は帰るからおまえも帰れ。」
そう言っておれは部室を出る。
「キミは他人に対してもっと心を開くべきだね。」
帰り際にそんな声を掛けられた。

うあーん。痛いよう。
うあーーーーーん。
みずか、悪かったな。あやまるから泣きやんでくれ。
うん。わかったよ

≪12月10日≫
カシャア
瞼の裏が黒から白に反転する。
バサッ
布団の重さが無くなり、体が冷たい外気に晒される。
ボフッ
しかし、再び布団が掛けられる。
「浩平ぇ。は、裸だよぉ。」
「何ぃ」
俺は上体を起こして、胸と脇腹に手を当てる。
「長森?」
俺は長森の方をみて、そう訊ねる。
「誤解だよぉ」
「おまえじゃないとすると、他に誰がいる?」
そう問い詰めると、黙ったまま俺を指差す。
「バレバレだよ。」
チッ読まれていたか。
「俺はただ肉体美をだな」
「見たくないよぉ。」
「あと、今日も元気だって事をアピールしたくてな。」
「見たくないって。」
「だって、ほら、こんなに」
「きゃあああ」
俺が布団の端を掴むと、長森は慌てて後ろを向く。
「早く、服着て。」
長森が後ろ手に制服と下着を投げてよこす。
「長森。もういいぞ。」
「嘘だよ。そんなに早く着替えられないよ。」
うーん、鋭い。
仕方なく俺は制服を着る。
「よし、行くか」
そう言って家を出た。

「でもなんで裸で寝ていたわけ?」
学校への道すがら長森が訊ねて来る。
「もちろん。おまえに見せるため。」
「なんでそんなに見せたがるのっ。」
「おまえ、昔はやたらと興味持っていたじゃないか」
「そんなの知らないよぉ。」
「一緒に風呂入った時なんか、やたらジロジロ見るもんだから恥ずかしかったぞ。」
「お風呂、一緒に入った事なんか無いもん。」
「そうだっけ。確か…」
「それより、ほんとに私に見せるために裸で寝てたの?」
「もちろん。他にどんな理由があるってんだ。」
「はあ、そんなことに頭使うんだったら、他の事考えてよ。」
「他の事?ああ、そう言えばもうすぐクリスマスだよな。」
「そうそう。」
「じゃあその日デートな。」
「ええ!誰と?」
「もちろん。おまえと俺。」
「ええ!わ、私?」
「何だ、もう予約入っていたのか?」
「そうじゃないけど、なんで私なの?」
「いや、なんとなく。」
「はあ、びっくりしたよ。でも、ほんとにデートしたいなら空けとくけど。」
「いや、そんなつもりはさらさら無い。」
「はあ。」
長森がやたら大きなため息を吐く。

「七瀬、おはよう。」
教室に入ると、一番に七瀬に挨拶をする。
「うん。おはよう。」
最近になって俺を差別しなくなった。
「ところで七瀬。クリスマスとかどうすんの?」
「うーん。今の所予定入ってない。」
「ま、その前に期末だな。」
「嫌な事思い出させないでよ。」
ちょうどその時、髭が入ってきた。
そして髭の後ろに少年がついてくる。
転校生?と思ったのは一瞬で、そいつは宮脇だった。遅刻がばれないように、髭の真後ろについていたのだ。それに気付かない髭も髭だが…。

昼休みパンを買って教室にもどると、住井を中心に五、六人が食卓を形作っていた。もちろん、俺の席もふさがっている。
仕方ない。屋上で食おう。
俺は教室を出て屋上に向かった。

ガコン
と言う音がして鉄製の扉が開かれる。
「やあ。」
先客が俺に声をかける。
氷上だ。周りを囲う柵に肘を乗せ、もたれかかっている。
「キミはどう思う?」
「何が?」
「ここで会った事について。奇跡だとは思わないかい?」
「同じ学校にいるんだ。会う事もあるさ。」
「考えてごらんよ。無数にある選択肢のうちの一つが違うだけで、今日ここで会う事はなくなるんだ。奇跡だとは思わないかい?」
「さもなきゃ運命だな。いや、今のは聞かなかった事にしてくれ。」
さすがに、野郎と運命の出会いってのは、洒落にならん。
「ところで何をしてるんだ?こんな所で」
「景色を見ていたんだよ。」
確かにここからなら、街の風景が一望できる。
「こうして見ると田舎だよなぁ。この辺じゃここが一番高いんだからな。」
「田舎は嫌いかい?」
「いや、ここはここで悪くはない。」
「他の所で暮らしていた事が?」
「ガキの頃なんで、覚えてない。」
そう言ったものの、妙な既知感にとらわれだした。
「…海の見える所だった。」
「うらやましいね。」
「山育ちはそう思うらしいな。」
そう言って俺はパンの袋を開けて、メロンパンに噛り付いた。
氷上は再び街の方を眺める。
「氷上、飯は?」
「いや、僕はいいんだ。」
そう言われて再びパンをかじる。
「そんなに気に入っているのか?この景色」
「いや、今まであまり見た事が無かったから。」
「そう…だったな。」
パンを食い終わって、時計を見ると、そろそろ昼休みが終わる時刻だ。
「氷上。そろそろ教室に戻らないと、」
「忘れたかい?僕は休学中なんだよ」
「そうか。でもクラスの奴に挨拶くらいは…」
「そうもいかないよ。彼らにとって、僕はクラスメートじゃないからね。」
病気療養中に暇をつぶしに学校に来ている。ある意味優雅だな。
「じゃあな。」
俺はそう言って屋上出入り口に向かう。
「あっ、折原君。」
突然、氷上がそう言って引き止める。
「また奇跡が起きると思うかい?」
つまり『また会えるか?』と言う事だな。
「奇跡ってやつが、俺達の選択次第で起きうるのなら。努力してみる事だな。お互い」
「僕はキミを信じるよ。」
氷上のその言葉を聞いて、俺は立ち去った。

「浩平。一緒に帰ろ。」
長森が誘いにやって来る。試験期間に入ったので部活は休みなのだ。
「ああ、いいぜ。」
そう言って鞄を掴んで、七瀬に別れを告げる。
「じゃあな、七瀬。」
「うん。またね。折原」
「七瀬さん、またね。」
「うん。瑞佳も、またね。」
そして俺達は教室を出る。
「七瀬も、ずいぶん慣れてきたな。」
女子の中で七瀬のように気楽に話せるのは、この長森くらいだ。いや、七瀬が、長森のように気軽に話せるようになったのだ。
「初めて会った頃に比べるとずいぶん違うよね。」
そうなのだろうか?
「なあ、長森。もしあの時、七瀬とぶつかりそうにならなかったとしたら?」
「えっ?」
「例えば、あの時俺がもう少しだけゆっくり走っていて、あの角を七瀬が通り過ぎた後…いや、とにかくあの時、ニアミスが起こらず、七瀬を普通の転校生として迎えていたとしたら、俺達はこんなにも七瀬と親しい間柄になっていたんだろうか?」
「うーん。でも、七瀬さんの席は先生が決めたわけだから…」
もしそうだとしても、多分七瀬は俺に対してもぶりっ子で通し、そして…。
最近の七瀬は俺以外の野郎に対しても、猫を被るような事はせず、それなりに本音で語り合えるので、男女を問わず評判が良い。
「多分あいつは自分を偽ったまま過ごす事になるよ。」
そんな些細な事で、人は大きく変わってしまう。ひょっとしたら俺も…。
「なあ、瑞佳。最近、俺変わったか?」
「えっ。よく、わかんないけど…でも浩平は浩平だよ。」
「そうか。」
「でも今、私の事『瑞佳』って言ったよね。」
「そうだったか?」
「そうだよ。」
自分でも知らないうちに、俺は変わろうとしているのかもしれないな。

痛い、痛いよおにいちゃん。
うあーーーーーん。
ごめんよ。あやまるから泣きやんでくれ。
うん。

≪12月14日≫
おにいちゃん?
突然、目が覚めた。
トントントントン。
階段を駆け上がって来る音。
次に部屋のドアが開く。
「おはよう。長森」
「あれっ。浩平、起きてる。」
「今目覚めたところだ。」
「雨降りそうだしね。」
そう言ってカーテンを開けると、確かに雨雲の覆われた空が見える。
「あ、降ってきたみたいだよ。」
「…。」

「でも、歩いて行けるんだからいいじゃない。」
道すがら、長森がそう言う。
「確かに、雨の中走るのは嫌だな。」
それほど強い雨ではないので、スピードを加減して走れば、さほど濡れる事もないだろう。
かといって、歩いて間に合う時に走る気にはならない。
今日もいるな。
何気に見たその場所に見慣れた人影が立っている。
「こっちから行こう。」
そこへ向かう道を指さして、長森にそう言う。
「あ、あの人…」
「ああ、里村だ。」
ものの数秒で空き地の前に着く。
「よう、里村。」
「里村さん、おはよう。」
「おはようございます。」
「あ、ああ…」
まさか里村が挨拶を返して来るとは思わなかった。
「ど、どうだ一緒に行かないか?」
「お邪魔じゃないですか?」
「ううん。全然。」
簡単に答える長森…こいつは質問の意図を理解していないのだ。
「気にするな。俺とこいつはそんな関係じゃない。」
「そうですか。」
そう言って里村が道路に出て来る。俺は二人を先導するように歩きはじめる。
「お二人は仲いいんですね。」
「幼なじみだ。あの空き地でよく遊んだ。」
「そうなんですか?」
「うん。私ん家も、浩平ん家もこの近くだから。」
「里村は小学校何処?」
「南崎です。」
「じゃあ。こんなところで遊んでねえな。」
「はい。」
「小学校から…結構長いんですね。」
「そうだな、もうすぐ十年になるか?」
「そうだね。」
「うらやましいです。」
「里村にもいるだろう。古い友人とか」
「はい。でも、今は遠い所にいます。」
「そうだったのか。」
「去年、あそこで別れたんです。」
それで『思い出の場所』か。
「なんで急に話してくれたんだ?」
「…。」
結局その後は何も話さずに歩いた。

うあーーーん。こぉへえ。
うあーーーーーん。
悪かったな。みずか。
うん。ありがとう。

≪12月17日≫
カシャア
カーテンの開かれる音と共に、眩しい光が顔に当たる。
俺はその光を遮るため布団を顔まで引き上げる。
「こらぁ。おきなさいよ。」
空耳、空耳、
しかし目の前の布団が急激に圧迫感を持ってくる。
ぐっ、息が出来ない。
目の前の布団を引き離すため。両腕に力を込める。
ガバッ
「はあ、はあ、はあ」
「あ、やっと起きた。」
「馬鹿野郎!危うく起きれなくなるところだったぞ。」
「えっ?あっでも、そんなに長くやってないよ。」
「どうせ顔面を塞ぐなら、おまえの胸でやれ。」
「ええっ!そんなの私やだよ。」
「そうだな。おまえの胸より、七瀬の胸の方が良さそうだ。」
「じゃあ。七瀬さんに頼めば?」
「殴られそうだから止めとく。」
「はあ。」
「でも他にも起こし方があるだろう?」
「例えばどんな?」
「目覚めの口付け。」
「それじゃ、あべこべだよぉ。」
「そうか?じゃあ、今度起こしに行ってやる。」
「わ、私はいいよぉ。」
「俺も、早起きはしたくない。」
「はあ。なんか複雑…。」

試験期間なので午前中で終りになる。しかも今日は最終日だ。
「うおお。我々はこの時を待っていたのだ。」
住井が右腕を大きく掲げてガッツポーズを取る。
俺も体を伸ばしてそれにあわせる。
「住井。」
「おう。」
それを合図に、俺と住井は野球選手がするように、腕をぶつけ合う。
左右のい腕を交互にぶつけ、お互いに手をはたきあった後、ガシッと肘で組み合うのだが、間合いが悪かったらしく、お互いにラリアットを入れてしまう。
「きいたぜ。」
「やるじゃねえか。」
ここで同時に崩れ落ちるのはお約束だ。
「あなた達も相性いいわねぇ。」
呆れ顔の七瀬が覗き込んで来る。
「七瀬、どうだった。出来は」
「聞かないで。」
あまり芳しくなかったらしく、明らかな落胆を見せる。
「気晴らしにどっか寄ってかないか?」
俺は起き上がりながら、そう聞いてみる。
「どっかって?」
「お薦めのクレープ屋があるんだ。俺のおごりだけど?」
「瑞佳を誘えばいいじゃない。」
「あいつも一緒がいい。って言うんなら誘うが…とりあえず聞いてみよう。」
俺は七瀬を連れて長森の席に向かう。
「長森。パタポ屋寄ってかないか?」
「ごめん。今日から部活あるから。」
「そうか。じゃあ七瀬と行くよ。」
「七瀬さん、いいの?」
「うん。折原がおごってくれるって言うから。」
「あ、そうなんだ。じゃあね。」
「バイバイ。瑞佳」
瑞佳を見送ってから、俺達も教室を出る。
「住井君も誘えばよかったかな?」
「いや、あいつは俺ほど甘い物には…」
「ふーん。やっぱり男の子ってそうなんだ。」
それに教室を出る時、いつものメンバーで集まっていた。多分何かをおっ始める気だろう。

パタポ屋はこの辺りじゃ評判の良い店で、他の場所にも系列店を持っている。そしてこの街にある店舗もご多聞に漏れず。毎日女子高生で賑わっている。
「ずいぶんと人がいるわね。」
店の前にいるそのほとんどが、既に焼きたてのクレープを手にしている。手際よく客をさばくので、そうそう行列が出来たりはしない。
「折原のお薦めは?」
「ブルーベリーソースバナナ。程よい酸味がバナナの甘さによく合うんだ。」
「へえ。なんか美味しそうね。じゃあ私それにする。」
注文すると、ものの30秒ほどで焼きたてのクレープを手渡される。そしてその一つを七瀬に手渡すと、七瀬は真っ先に一口齧った。
「あっ美味しい。へえ。結構いい所知ってるのね。」
「ここだけじゃないぞ。何しろ街中の食い物屋を網羅しているからな。」
「男の子ってマメよね。そういうの」
「こと甘い物屋に関しては誰にも負けないぞ。」
「なんにしても、いい所教えてもらっちゃった。ありがとね。」
「なあに。俺一人じゃ来辛いからな。」
「それもそうね。」
七瀬が店の方に目を向けて言う。
店の前にいるのはほとんどが女子高生。野郎も何人かいるが、みんな彼女連れだ。
まわりから見て、俺と七瀬はどんな関係に見えるのだろう。
ふとそんな考えがよぎる。
「少し歩こうか?」
「そ、そうね。」
七瀬も同じことを考えていたのだろう。
そして俺達は商店街を歩きはじめた。
この時期の商店街は何処が何屋かわからなくなる。どの店もクリスマス商戦に入り店先は赤、緑、白と言ったクリスマスカラーで覆われている。考えてみればクリスマスまで一週間しかなかった。
七瀬はクリスマスどうするのだろう?
そう思って七瀬の方を見ると、ちょうどまたクレープに噛り付いている所だった。
「やだ。あなまりジロジロ見ないでよ。」
俺の視線に気付いて、恥ずかしそうに抗議する。なんとなく女の子らしい反応だ。
「ああ、すまん。美味そうに食うよなぁ。と思って。」
「ん、そう?でも美味しいわよ。これ。」
「それはそうだろう。俺、お薦めの店だからな。あそこは」
「ところで折原のは?」
「ん、マーマレード&ピーチアイス。食ってみるか?」
「えっ、いいの?」
自分の手にしているクレープを、七瀬の方に差し出す。七瀬は、俺が口を付けていない所を摘まんでちぎり取り、さっと口に入れてから指を抜き出す。
「へえ、変わった組み合わせだけれど、これはこれで美味しいわね。もう、ジロジロ見ないでって言ってるでしょ。」
瑞佳ならこんな動作はせずに、そのまま噛り付いている。
「どうしたの?折原?」
七瀬に言われて気が付いた。少し物思いに耽っていたらしい。
「いや、何でもない。」
「そう?瑞佳の事でも考えてたのかと思った。」
なかなか鋭い。
「まあな。あいつだったら直接、噛り付くから。」
七瀬は一瞬きょとんとしていたが、すぐにクスクスと笑いはじめた。
「うふふふ。ふふふふふ。あはははは。」
「なんだよ。気持ち悪りいなぁ。」
「ははは。お、折原、普通は女の子の前で他の女の子の話しなんてしないものよ。」
「そうなのか?でも長森とは…」
「ほら、また。」
「ぐっ。」
「でも折原のそういう所、付き合い易くていいよ。」
「はあ?」
「折原って、相手が女の子でも態度を変えないじゃない。大抵の男の子って女の子と話す時、気取ったり、やさしくなったりするんだけれど、やっぱりそういうのって下心があるからなのよね。」
「俺だって男だぜ。下心くらい…」
「でも折原の場合は、下心を隠すためにやさしくなるわけじゃないでしょ?女の子って敏感だから、どんなに隠しても下心はわかっちゃうの。」
「…。」
「私ね、中学の頃、剣道をやっていたの。その中学の剣道部は男子も女子も一緒でね。最初は私と一緒に入部した女の子も多かったんだけど、剣道部の稽古ってものすごくキツイから女子部員はずいぶん辞めてったわ。部の男の子達は、私もすぐに辞めるだろうと思っていたらしいけど、私は一生懸命稽古して、他の男の子に負けないくらい強くなったの。
おかげでずいぶんと嫌がらせにも遭ったわ。」
「男にとって女に負ける事ほどの屈辱はないからな。」
「「でも、私は男の子に勝ちたかったわけじゃないの。ただ自分が一生懸命やれれば満足だったの。」
「…。」
「二年の時新任の部長を選ぶ事になったんだけど、武道ってのはやっぱり強い人が上に立たなきゃならなくて、顧問の先生からも私がやるように言われたんだけど、私は自分が嫌われているのを知っていたから、辞退しようと思っていたの。私が部長じゃ部員がついてこないと思ったから。でもね、そのことを顧問の先生に言ったら、部員全員の前でこういったの。『七瀬が部長になる事に反対の奴は、七瀬と勝負しろ。もし七瀬に勝てたら、そいつが部長だ。』ってね。」
「それで勝ちまくったわけだ。」
「それがね、誰も挑戦してこなかったの。」
「そいつは…。それで部長決定か?」
俺は吹き出してしまいそうになるのを、堪えきれなかった。
散々反対していても、イザとなれば尻込みする。そんな連中にトップが務まる訳がない。
「その後も嫌がらせは続いたんだけどね。でもその一件で協力的な部員も増えたんで一年間部長を務める事が出来たの。」
「結局その一件で、男は上っ面だけの存在だって事が分かったわけだ?」
「でもそれだけじゃないの。前の高校でダンスをしてたって事話したわよね?」
「ああ、でもなんで剣道からダンスにいくんだ?」
「女の子の夢よ。」
「夢?」
「中学では『女の癖に』とかずいぶんひどい事を言われたから、高校では女の子らしい事をしようと思ったの。最初は茶道部に入ったんだけど…知ってる?女の子の苛めって、男の子よりひどいのよ。男の子のいる所ではそうでもないんだけど女の子だけになるとひどいの。同じ中学から来た子なんて『七瀬さん来る場所を間違えてませんか?』とか、『部の名前を読み間違えてませんか?』とか。最初のうちは無視していたんだけどね。でもなかなか上達しなくて…そうしたら『七瀬さんは女の子の格好してますけど、本当は男の子なんじゃないんですか?』って…それでキレちゃって…。」
「…。」
「その時はまだ仮入部だったから、正式に入部しないで辞める事にしたの。そんな時テレビでダンスの事をやっていてね。その時これだって思ったのよ。その頃高校にはダンス部なんて無かったんだけど」
「確かにあまり聞かないな。」
「うん。それで自分で作る事にしたの。入部してくれそうな人に声をかけてみたり…剣道部の部長やった経験が役に立ったわ。で、部員をそろえて、学校に同好会として認めてもらって、でも、最初のうちは誰も経験無いから、どうしたらいいのかわからなくてね。」
「今度はスタートラインが同じだったわけだ。誰も七瀬の事を笑えない。と」
「そう。それに素敵なドレスを着て踊る事は女の子にとって共通の夢。だからみんな一生懸命だったし、少しくらい下手でも励ましあってやってこれたの。でもね」
「なんとなくわかった。誰と誰がパートナーを組むか?そのことで妙な緊張状態になってくる。」
「表向きは変わらないんだけどね。その中で私は男の子達の気持ちを読めていた。だから私は、相手に合わせて自分を演じるようになった。」
「でもそれは本当の七瀬じゃないよな。」
「うん。だからやめた。でも本当の理由は折原よ。」
「俺?」
「折原ってさ、全然私の気を引こうとしないんだもの。」
「惚れたか?」
「惚れないわ。折原って女の子を突き飛ばして、逃げるような奴じゃない。」

うあーーーん。ぶったぁ
うあーーーーーん。
ごめんよ。みさお。
うん。ありがとう。

≪12月18日≫
カシャア
「浩平。おきなさぁい。」
バサッ
「わあぁ!浩平が布団になってるぅ。」
「待っていたぞ。長森!」
勢いよく、クローゼットの扉を開け、そこから這い出る。
「あ、今日は一人で起きたんだ。」
「…言う事はそれだけか?」
もう少し驚くかと思ったんだが…。
「えっ?あ、浩平おはよう。」
「…。」
今日は自分で鞄を取って階段を降りた。

「おはよう。七瀬」
俺はいつもと同じように挨拶をする。
「おはよう。折原」
七瀬もいつもと同じように返事をする。
昨日の事など無かったかのようだ。
…俺は何を期待していたんだろう?

今日の授業はテストの答えあわせばかりだ。
俺でなくとも、既に『終った。』事を、まじめにやろうなんて思う奴などいないだろうに…。
ましてや午後一の授業はあくびが出っ放しだ。
また一つ大きなあくびが出た。
その時住井の奴がこっちを見ているのに気がついた。よく見ると左手に紙片を摘まんでこちらに差し出している。
また、なんか始めたな。
手を伸ばして、その紙切れを受け取る。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
クリスマス直前企画
恋人ゲットキャンペーン

抽選でクリスマス・イブの夜を
彼女と過ごす権利が与えられます。

まず抽選の当選者には告白の権利を、
そして告白により彼女のOKをもらえば、
イブの夜は二人の物。

みなさま。ふるってご参加ください。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
…つまりくじ引きで負けた奴が、無理矢理告白させられると言う訳だ。
なんて極悪な企画なんだ。
しかも「ふるってご参加ください。」なんて書きやがって、どうせ強制だろうが。
その時、鐘が鳴って授業が終った。

「折原。おまえも早く引けよ。」
住井に呼ばれてみると、すでにほとんどの野郎共が住井の席に集まってきている。
「安心しろ。まだだれも当りを引いてない。」
そう言って差し出された住井の右手には、こより状にした4本の紙片が握られている。
4分の3か…。これで当ったらちょっと運が悪すぎるな。
俺は4本のうちの1本を引き抜く。
「うおおぉ。」
野郎共から雄叫びが上がる。
「折原。」
住井が言いながら肩に手をかける。
「おめでとう。」
俺が手にした紙片の先は、サインペンか何かで赤く染められていた。

終業の鐘が鳴って全ての授業が終る。
「じゃあな。七瀬」
俺は七瀬に別れを告げて駆け出した。しかし何者かが後ろから首に腕を回す。
「ぐあっ。」
勢いがついていたので首を締め付けられる。
「主役が帰っちゃいけないよな。」
俺を捕まえたのは住井だった。住井は俺を羽交い締めにしたままベランダに引き摺っていく。
ベランダには15人ほどの野郎が溜まっていた。鉢植えのおかげでほとんどスペースが無いって言うのに…。
「諸君。今日一番ラッキーだった男。折原浩平君だぁ!」
「おおおぉ。」
ホントに人の不幸を喜ぶ奴等だ。
「さあて、男だったら、チャンスは無駄にしないよな。」
親切の押し売り。
仕方が無い。
「住井。実は俺、人には言えない恋をしているんだ。」
「小細工は通用しないぞ。」
「それが知れるとその人に迷惑がかかる。だから席を外してくれ。」
「逃げようったって、そうはいかんぞ。」
「仕方が無いな。その人は、住井!おまえなんだ!」
「却下。」
「何故わかってくれないんだぁ。」
そう言って俺は住井を抱きしめようとする。即座に住井の手刀が額に入る。
「諦めろ。折原」
「チッ。仕方がねぇ。」
俺は両手を住井の肩に置く。
「住井。すまんな。おまえが瑞佳を好いているのは知っているが」
「おお。やっとその気になったか。」
しまった。墓穴を掘った。
…まあ、いいか、長森ならうまくフォローするに違いない。
「じゃあ、言ってくる。」
そう言って教室に入る。しかし長森に姿はなかった。
「先帰ったみたいだな。」
「部活だろ!部室に入る前に追い付け!」
住井に手を引かれて教室を出る。

階段まで来ると長森が上がっていくのが見えた。
「長森!」
そう言うとすぐに立ち止まってこっちを向く。俺は長森を踊り場で待たせて階段を駆け上がる。
「浩平、どうしたの?」
階段を駆け上がったので息が苦しい。ちらりとか階下を見る。ここからはわからないが防火扉の陰にクラスの連中が隠れて、こちらの様子を伺っているのだ。
本当に小細工できないな。
息を落ち着かせて顔を上げる。目の前に瑞佳の顔がある。
なんだかドキドキするな。長森に告白した奴を何人か知っている。あいつらもこんなにドキドキしたんだろうか?
「何?何?」
そう言えば人気投票。こいつが一位だったんだよな。
「浩平?」
「あ、すまんすまん。」
何を緊張してるんだ。俺は…
俺は一つ大きく深呼吸をして切り出す。
「瑞佳。」
「え?」
「もっと早く言おうと思ってた。」
「何を?」
「瑞佳。愛してる。」
かなり嘘臭いセリフだ。住井は気付くかもしれないが、長森が上手くフォローしてくれれば大丈夫だろう。
「ありがとう。私、浩平がそう言ってくれるの待ってたよ。」
ナイスだ。長森。
「じゃあ、部活あるから。」
そう言って階段を上がっていく。
間違いなく住井を騙せたな。
その手応えを感じて、俺は階段を降りる。
するとクラスの連中は階段下に出てきて拍手で俺を迎える。
「すげぇ。」
「やったじゃねえか。」
「このっ幸せ者ぉ」
そんな言葉まで飛んでくる。
俺はその人込みの中に住井を探す。
「あれ?住井は?」
そう言った瞬間、後ろから飛び掛かられ、頭を押さえられる。
「この野郎。さすが俺の見込んだ男だ。」
俺の頭を脇に抱え、拳をぐりぐりと押し付けてくる。
こいつは住井だ。
「10年越しだぜ。これでフラレたら、自殺するぞ。」
俺も負けずにそう答えた。

付いて来たらまたひどい事するからな。
…わたしはこうへいといっしょだよ。

≪12月21日≫
「おきてよ。浩平」
長森が体をゆすっている。
「うー、もう少しだけ…」
「遅刻しちゃうよ。」
zzzz。
突然、俺の頬に生暖かい感触と、耳元に長森の息遣い。
得体の知れない感覚に、俺は飛び起きる。
「へえ、ホントに起きた。」
「長森、おまえ何を…」
俺は自分の頬に手をやる。先程、何かが触れていた場所は、ひんやりとしていて、何か湿っているような感じだ。
「おまえ、まさか…」
「えへへ。」
長森が照れたように笑う。
さっき触れたのは、長森の唇だ。
「どうしたんだ?おまえ」
「ほら、浩平、して欲しがったじゃない。」
「だからって…」
しかし俺は、はっとなってその言葉を飲み込む。
『浩平がそう言ってくれるの待ってたよ。』
あれが演技じゃなく、瑞佳の本心だとしたら…
俺は急いで、ベッドがら下り、制服と鞄を取って部屋を飛び出した。

「浩平。じゃあ、あとでね。」
長森がそう言って自分の席に向かう。
登校時にもやたらニコニコしながら、俺の後をついて歩き、どういうつもりか俺の席にまで付いてきていた。
「あんた、あの子になんかしたわけ?」
と七瀬に問い詰められる。誰に目から見ても今日の長森は不自然だ。
「どうして俺のせいになる?」
「だって、あからさまにくっついてたわよ。」
「ただの気まぐれだろ。」
「違うわ。あの子、あんたの事が好きなんだから。」
「どうしてそう言える?」
「女の子同士ならわかるわ。あんたの前ではそんな風に見えないように振る舞っていたけれど。」
俺達は只の幼なじみだと思ってた。俺は長森が面倒見の良い奴だと思っていた。単なる世話好きなんだと思っていた。10年近く付き合っていて、本当の長森を知らなかったのだ。
「とにかく。私は言ったからねっ!」
七瀬はそう言って、向き直った。

授業が終り、誰もが帰り支度を始める。
「七瀬。一緒に帰らないか?」
「あんた、私が今朝言った事忘れたの?」
「いや、だけど俺は…。」
「私はね、瑞佳を裏切りたくないの。じゃあね」
そう言って七瀬が立ち去り、入れ替わりに長森が来る。
「浩平。一緒に帰ろ。」
「長森…今日は部活のはずだろ?」
「うん。でも大丈夫だよ。私のコードはほとんど出来ているし…。」
「でも本番近いんだろ?ちゃんと出ておけ。俺に遠慮する事はない。」
「うっ。そう?浩平がそう言うんなら…。」
「ああ、あとで後悔しないようにな。」
そう言って俺は自分の鞄を取り上げる。
「うん。ありがとう。私がんばるよ。」
長森はそう言って部室の方に向かった。

うあーーーん。痛いよぉ。
うあーーーーーん。
…失うのなら…もういらない…。
こぉへえ…

≪12月22日≫
「浩平。玉子焼きいる?」
「いや、うどんに玉子焼きはあわない。」
本当は長森を避けるために学食に来た。しかし長森は自分の弁当を持って、付いて来てしまった。学食で何を食おうと構わない。ただ弁当を持って学食に来る奴はほとんどいない。
だから、ただでさえ目立っている上に、長森がやたらとなついてくるものだから、食堂中の注目を集めてしまい、俺はかなり気まずい雰囲気の中食事をしている。長森の方はと言えば、そんなことも意に介すことなく、俺の世話焼きに夢中になっている。
「浩平。ちゃんと野菜も摂らなきゃ駄目だよ。」
「わかってる」
「ねえ。今度から、浩平の文のお弁当も作って上げようか?」
「いや、そこまでお前に甘えるわけにもいかないだろ。」
「そう?でも浩平、もうちょっとちゃんとした物食べないと駄目だよ。」
「…。」
「そうだ。明後日、晩御飯作りに行ってあげるよ。それにケーキも焼いてあげるし。それでね、二人でパーティしようよ。」
明後日といえばクリスマスイブだ。
「あれ?おまえ、香坂達とクリスマスやるんじゃなかったのか?」
去年、長森は女同士でパーティをやっていて、今月に入ってからは、今年もやるような事を言っていたはずだ
「大丈夫。佐織には、まだちゃんと返事してないから。」
「でも向こうが先約だろ。それに俺もその日は人と会う約束がある。遠慮するな。行ってこいよ。」
もちろん嘘だ。約束なんて無い。
「そうなんだ。じゃあそうするよ。でも、ちょっと残念かな」
最後の言葉が心に痛かった。

≪12月24日≫
終業式と大掃除がおわると、誰もが明日からの冬休みと、このあとのクリスマスの話しを始める。
「うまくやれよ。折原」
住井がそう言って立ち去る。俺はまだのこっていた七瀬に声をかけた。
「七瀬はどっか行かないのか?」
「私?私ならこれから佐織達とクリスマスだけど」
「じゃあ、長森と一緒だな。」
「なんで?あんたあの子のこと、誘わなかったわけ?」
「いや、俺の方にも用事があって」
「あきれたっ。」
七瀬はそう言うと、女子がたむろしている方へと向かった。もちろんその中には長森の姿もあって、まだ移動する様子はない。
一応、人と会う事になっているのだ。あまり長い事ここにいれば、当然、怪しまれるだろう。
俺は場所を変える事にした。
「浩平。何時ごろ帰る?」
教室を出る時長森が駆け寄ってきて俺に訊ねる。
「うーん。まったく予想が付かん。なにしろ延々と喋り続けるかと思えば、突然話しを終りにしちゃったりする奴なんだ。」
「ふーん。」
「じゃあ、そろそろ来ているかもしれないから。」
「うん。じゃあね。」
そう言って俺は廊下を進む。いつもは下に降りる階段を、今日は上に上がって行く。3年の教室の前を通り、渡り廊下を渡って特殊教室棟へ、そして一番奥にある音楽室の手前、軽音部の部室の戸を開ける。
部室には誰もいなかった。
あたりまえだ。だからこそここに来たのだから。
俺はベースを取り出して軽くチューニングをする。
誰もいない部室。何故だか居心地が悪い…一人でいるのだから当然だ。
俺はそんな思いを振り払うかのように、弾きはじめた。
「…。」
何故ここに来たのだろう?
…そんな事は既に分かっていた。
氷上シュン
あいつと初めて会ってからひと月も経っていない。
このひと月の間にあいつとは三回も会っていた。ここでは二回、もう一回は屋上で。
今日は来ていないのだろうか?
…探してみよう。
俺は屋上に向かった。

俺は屋上の扉を開ける。
誰もいない。
部室、屋上以外で、あいつが立ち寄りそうな場所…。
『奇跡は俺達次第』
そう言えばこのあいだそんな話しをしたっけ。
『キミを信じるよ。』
それが暗号ならば、答えは俺とあいつしか知り得ない。
俺とあいつしか知らない事実。
俺とあいつの共通事項。
軽御部員――部室にはいない。
二年生―――二年だけで7クラスもある。
いや、あいつのクラスは2―Aだ。賭けても損はするまい。行ってみよう。
俺は階段を降りはじめた。

戸締まりをする奴がいなかったらしく、2―Aの教室はドアが開けっ放しだった。
俺は入り口に立ち、教室の中を覗き込む。
「やあ。折原君。」
いつもの挨拶。こいつ流の挨拶だ。
氷上は一番端の一番後ろの席に座っていた。
「クリスマスイブの再会ってのは、どのくらいの確率かな?」
「間違いなく、奇跡だろうね。」
「奇跡を起こすのが神様なら、こいつは気が利いている。」
俺がそう言うと氷上が笑った。
俺は教室に入って、氷上の側に立った。
「そこがお前の席か?」
「ここに僕の席は存在しない。名簿上に存在するだけの、幽霊学生だからね。それに、もうすぐ文字通りの意味になる…」
「おいっ!氷上!」
「まあ、聞いてくれ。僕にとって、ここ2年ほどは幻だったんだ。」
「中学生の時に病気になってね。入退院を繰り返しながら中学に通ったんだ。中3の時にもう数ヶ月の命だと言われてね。その年の12月、家族と最後の正月を迎えるために退院したんだ。その時僕は、自分がこの世に存在したと言う証を遺すために、高校を受験しようと思った。入院中も、勉強は怠らなかったんで、成績は悪くなかったから、家族も反対はしなかったんだ。」
「それでも僕の健康状態の事が原因で、受験資格さえくれない高校が多くてね。結局受験できたのはここ一校だけ。それでもここの合格ラインは十分クリア出来るものだったから、受験に受かって、入学手続きもした。最初の見立てでは、入学式までもたないだろうと思われていた。でも、僕はちゃんと入学式に出席した。それでもいつまでももたないと思っていたから、出来るだけ出席はするようにしていたよ。」
「4月の半ば頃に症状が悪化して緊急入院した。その時は誰もが、覚悟を決めていた。ところが6月頃には快方に向かったので、無理を言って退院し、また学校に通いはじめた。夏休みになるともう一度入院して、2学期に備えようと思った。でも、退院まで長引いてしまって、また通えるようになったのは11月に入ってからだった。」
「その頃になってからだね。家族が希望を持ちはじめたのは。僕の病気は移植治療をすれば、常人と同じように暮らせるといわれていた。それまでもドナーが現れるのを待っていたんだけれど、このまま待っていれば、移植が受けれるかもしれないってね。出席日数は足りていなかったけれど、レポート提出とかで単位を取っていたからなんとか進級できる事が決まっていた。だから2年次から休学届けを出して、治療に専念する事にしたんだ。」「でも最近になって別の病気を併発している事がわかった。そのせいで移植が出来なくなった。移植しても助かる見込みがなくなったんで、移植手術が受けられなくなってしまったんだ。」
「こうなってから思ったんだよ。2年前に死んでいたとしても、そんなに変わらなかったんじゃないかって。ほとんど通えた時間が無かったから、先生や同級生たちとの面識も薄いし、学校行事にも参加したことがない。季節毎の風景もほんの一部しか知らない。あの時、合格通知を受け取った直後に、入学許可をもらった直後に死んでいたとしても変わらなかったんじゃないのか?証を遺すと言う、目的は既に果たしているんだからね。」
「どうして、そんな話しをするんだ?何故、俺に話してくれたんだ?」
「最後の証さ。」
「証?おまえの存在証明か?だったらクラスメートの前で話したらいいじゃないか。もっと大勢の奴等に聞かせた方がいいじゃないか。」
「僕は同情を買いたいわけじゃない。義理で引き受けるんじゃなく、僕がいたと言う思い出を持って欲しいんだ。だから生きている僕の事を気にかけてたキミに託す事にしたんだ。」
「おまえの事を気にかけているだって?偶然が重なっただけじゃないか。」
「今日も偶然だと言うのかい?」
「…いや。」
「そうだろ?僕の事を知り、僕の事を思ったから、僕を探し当てる事が出来たんだ。」
「…。」
「きみは自分を偽る必要なんか無いんだ。演じるのをやめて、本当の自分に戻ってもいい頃じゃないのかな?」
「…。」
「説教染みた事を言っちゃったね。きみが迷惑だと思うのなら、僕の事を忘れても構わない。単なる僕のわがままだからね。」
「なあ…氷上。今日が最後だなんて言わないよな?」
「…起きるといいね。奇跡が」

痛いよぉ、お兄ぃちゃん。
うあーーーん
うあーーーーーーん
ごめんよ。みさお。
わかったよ。お兄ちゃん。

あの後、俺と氷上は無言で教室を出て、無言のまま別れた。
俺は帰る道すがら氷上の事を考え続けた。でも結局、今の俺に出来る事など見つからなかった。仮に何かが出来たとしても、あいつはその申し出を断ったに違いない。
「おかえり。浩平」
家の前には瑞佳が待っていた。手には手提げ袋を提げている。
「終ったのか?」
「うん。でね、浩平お腹空かしてると思ったから。」
そう言って、手にした袋を上げて見せる。
俺のために残り物を持ってきてくれるのは、いつもの事だ。でも、今日はずいぶんと多い。
「ずいぶんと多いな。」
「うーん。なんか、気を使われちゃったみたいで。」
そう言えば、七瀬も一緒に行っていたんだよな。多分、あいつの差し金だろう。
でも、今日くらいは、こいつにやさしくしてやってもいい。そんな気分だった。

≪12月28日≫
雨が降っていた。
そして、いつもの空き地には、里村が立っていた。
「よう。里村」
今日の里村はレインコートを着て、いつもの傘を差している。
「浩平。」
里村は顔を上げ、傘を差し直してから、そう答えた。
「長森さんは一緒じゃないんですか?」
「あいつなら、今ごろ市民ホールだ。」
瑞佳ががんばってきた事。
「そうでしたね。浩平も行くんですか?」
「ああ。」
正直言って、俺は気が進まない。
「…。」
「…。」
ただ、沈黙だけが続く。
仕方がない、行こう。
「…逃げないでくださいね。」
俺が立ち去ろうとした時、里村が言った。
「え?」
「長森さんから、逃げたりしないでくださいね。」
そう言うと、里村は黙って、空き地の方に視線を戻した。
多分もう、何も答えてはくれないだろう。
俺は市民ホールに向かった。

…何をやってるだろうな。俺は
市民ホールの前には「恒例第九合唱会」と書かれた垂れ幕が降りている。
何故、俺はここに来たのか?
クラシックなんかに興味はないし、特に興味を引く出し物があるわけでもない。
瑞佳への義理。
何であいつに義理をかけなければならないのだろう?
あいつは去年だってここに来た。今年になって、俺が見に来る理由などあるんだろうか?
「…。」
帰ろう。
俺は市民ホールを後にした。

≪1月2日≫
俺の部屋には、住井、松野、南森の3人が居着いていた。最初は一緒に年を越すと言う名目で、6人ほどが集まっていたが、年が明けてしまうと脱落者が出始め、今ではこの3人だけになっていた。
「起きてるか?折原」
住井は酒と疲労で動作や言動が怪しくなってきている。まあ住井に限らず。ここにいる連中は皆そうだ。
住井が声を掛けた時、俺はベッドに横になり、ただ無法化した部屋の中を、ボーっと眺めていた。
住井はベッドの端に腰を架けると、俺に缶ビールを一つ差し出し、自分が手にしていた缶を開けた。そして俺も、起き上がってビールを受け取り、口を開いて一口すする。
「折原。長森さんとはその後どうなっている?」
住井が単刀直入に切り出す。見下ろせば、松野も南森も酔いつぶれて、いびきをかいていた。
「べつに、どうも」
昨日、初詣に誘う電話があったが、こいつらが来ているからと言って断った。クリスマスイブ以来瑞佳には会っていない。会う理由が無いのだ。
「べつに?せっかく俺達がお膳立てしてやったのに、べつにか?」
こいつは瑞佳の事が好きだった筈だ。なんでこんな風に言えるんだろう?俺とあいつが一緒にいる事をどう思っているんだろう?悔しくはないんだろうか?
「おまえ長森の事が好きだったんじゃないのか?」
「何だ。俺に遠慮していたのか?別に構わないさ。おまえならだけど…。」
「おまえ、知っていたのか?長森の事」
「なんとなくだけどな。でもおまえと長森さん、お似合いだよ。」
「何が、お似合いだよ!俺なんかよりずっと、長森の事考えてるじゃないか!なんで奪い取ろうとしない?今からでも遅くないぜ。俺は長森に手を出していない。持って行けよ。おまえにやるよ。俺にえんぶっ」
俺の左の頬に住井のパンチがヒットした。いつもの冗談でやっているような奴じゃない。
「いい加減にしろよ。長森さんは、おまえの事が好きなんだぞ。」
「だから何だ!?くじにしたって小細工でもしていたんだろ!えっ!好きな相手に告白も出来ないタマ無し野郎がっ!」
もう一発食らった。今度は鼻先だ。
俺もただ殴られているつもりはない。住井の左の頬を思いっきりぶん殴る。すぐに体制を立て直した住井が、左手で俺の襟首を掴んで殴り掛かる。俺も負けずに住井の顔面に拳を叩き込む。お互い顔面で拳を受けていたので、言いたい事を言う事も出来ず、言葉の代りに拳をぶつける。
「おいっ!何やってんだ。」
起きだした南森が制止に入るまで、俺と住井は殴り合い続けた。

「何だってこんな事になったんだ?」
松野が俺を問いただす。松野は南森に起こされて、俺を押さえつけに入った。住井の方は南森が連れ出した。
俺の左の頬は思いっきり腫れ上がり、口を開く事さえ出来ないほどだ。右手も所々切れたり擦り剥いたりしている。まるで素人の殴りかただ。
「新学期までに、頭冷やしとけよ。」
松野はそう言って出ていった。
一人ぼっちになると、俺はベッドに仰向けになり、左の頬に触れてみた。
痛い…ものすごく痛い。
あまりの痛さに涙が出た。
…何をやってんだ?俺

≪1月8日≫
住井と顔を合わせたくない。
七瀬とも会いたくない。
瑞佳に会うのも辛い。
だから俺は直接体育館に入った。
家を出た時はサボるつもりだった。でも
『…起こるといいね。奇跡が』
その言葉が約束だとすれば、今日、氷上は学校に来る。
もちろん来れる状態ならだけれど…。
壇上に校長が立つのを見て、多くの生徒が椅子に座り直す。これから長い話しを聞かされるのだから当然だ。
「皆さん。新年あけまして、おめでとう。」
三が日中ならともかく、七日を過ぎてまで、こんな挨拶を交わす奴など普通はいない。
「今日は大変残念なお知らせがあります。」
誰か話しのネタを提供した奴がいるらしい。
「昨日の事ですが。二年生の氷上君が亡くなられたそうです。」
その言葉は、場の雰囲気に、何の影響ももたらさなかった。
ここにいる、千人以上の生徒にとって氷上は会った事の無い奴で、50人近い教師にとっては、名簿上から一人消えるに過ぎないのだ。
氷上が死んだ…一日違いで…たった一日。クリスマスに会ったのが…本当に最後になってしまった。
「…氷上君の冥福を祈り。黙とうを…」

「浩平?」
「浩平、どうしたの?」
気が付くと、すぐ側に瑞佳がいた。
「長森か。」
気が付いてみれば、いつのまにか教室にいた。終業式の途中から記憶が無い。多分ほとんど無意識に行動していたのだろう。
「どうかしたのか?」
「ん?浩平と一緒に帰ろうと思って。」
視線を逸らすと住井の姿が目に入る。こちらを向き、俺を睨むような目で見ている。
「そうだな。どっか寄ってくか?」
そう言って立ち上がり、住井を嘲うように見返してやる。
「うん。そうしよ。」
俺は、左手で瑞佳の背中を押すようにして、教室を出た。
「冬休み中、全然会えなかったよね。」
冬休み中にも会いに行ってやれれば…。
「住井君達、いつまで来てたの?」
「2日まで。」
あいつは、どんな風に正月を迎えたのだろう…。
「じゃあ寄ってみればよかったかな?」
顔の腫れが引いたのは一昨日になってからだ。今だって少し残っている。
「今日は冬休みの分まで遊ぼうよ。」
こいつはどうしてこんなに、はしゃいでいられるんだ?
「もっと恋人らしい事したいね。」
こんな時に…。
浮かれながら、そんな事を言う瑞佳が憎かった。
「しようぜ。恋人らしい事。」
俺は瑞佳の手を掴んで、足を速めた。
「浩平!?何処行くの?」
そんな瑞佳の問い掛けを無視し、只ひたすらに瑞佳を引っ張っていく。
そして俺達は川に出た。俺は目の前にある橋を渡らずに、瑞佳の手を引いて土手を降り、橋の下に潜り込む。ここもまたガキの頃の遊び場だ。人が来ることなどまずない。
「浩平?」
瑞佳が不安そうに俺を見る。瑞佳をコンクリートの壁に押し付け、左手で瑞佳の胸を掴む。
「こ、浩平!胸っ、胸触ってるよ。」
左手で瑞佳の胸を揉みながら、右手を瑞佳の腰に這わせ、スカートのホックとファスナーを探す。瑞佳は俺の左手と右の肩を掴んでやめさせようとするが、俺はやめようとはしなかった。スカートのホックが外され、続いてファスナーが下ろされる。そして右手をスカートから離すと、スカートは瑞佳の足元に落ちて、瑞佳の太股と下着を露わにする。
「浩平。やめて、私…」
瑞佳は首を振って意思表示をして来る。
この時になって初めて理解したようだ。俺が何をしようとしているのか、自分が何をされようとしているのかを…。
瑞佳の胸から左手を離しブラウスの裾を掴んで捲り上げる。そして現れたブラジャーも上にずらして、瑞佳の乳房を露出させる。右手でズボンのファスナーを下ろし、痛いまでに憤り勃ったモノを取り出す。そして瑞佳の下着を掴んで一気に膝まで下ろす。
「…浩…平?」
瑞佳は涙を浮かべながらも真っ直ぐ俺を見ている。俺は瑞佳を見ないようにしながら、自分のモノを瑞佳のそれにあてがい、力を込める。しかしまだ濡れ方が足りないらしく思う様に入っていかない。
「痛い!浩平。まだ、無理だよ。」
俺は再び左手で瑞佳の胸を揉みしだく。そして断続的に腰を動かすと、少しづつだが入っていった。しかし半分まではいったものの、締め付けがキツ過ぎてこれ以上入っていきそうにない。
「浩平・無理・しな・いで」
今度は両手で瑞佳の腰を掴んでぐっと力を込めてみる。
「うあぁ!無理!無理しないでぇ」
締め付けが痛いくらいで、動くことなど出来そうにない。
「くそっ」
俺は諦めてモノを引き抜いた。俺が離れると瑞佳が崩れ落ち、だらしなく地面に横たわった。そして俺はまだ勃ったままのモノをしまうと、足元の瑞佳に目をやった。
瑞佳は何処を見ているとも知れない眼をし、細かく肩を上下させている。顔じゅうを涙で濡らし、そして太股には…。
俺は自分のした事を理解した。そして
その場から逃げ出した。

浩平!どうしてあんたまで!
…ぼくはもうかなしい思いを、したくないんだ。

ふと見知った人物がいるのに気が付いた。
里村茜
歩いているうちにあの空き地の前まで来ていた。
そしていつのまにか小雨が降り始めていた。
「里村…」
『幼なじみを待っている』
確か里村はそう言っていた。
しかし里村の視線は空き地の入り口や道路ではなく、自分の足元や空に向いている。
もしかしたら…。
「里村。いくら待っていても死んだ奴は帰ってこないんだぜ。」
「どうして?司は…司は死んでなんかいないっ。」
普段おとなしい里村に俺が気圧される程の勢いで反論される。
「そうか。」
俺は今の里村からはこれ以上話しを聞き出す事はできないと判断し、この場を立ち去ろうとした。
「まって。」
しかし意外な事に、里村が立ち去ろうとする俺を引き止めた。
「どうして死んでいると思ったんですか?…私の幼なじみ」
「俺も妹を亡くしてるんだ…そして俺も…みさおは死んでなんかいないって、思い込もうとした。」
そして氷上も死んだ。もしかしたら俺も…。
俺が言い終わった後も里村はしばらく黙っていた。
「ごめんなさい。お気の毒に。でも司は死んだ訳じゃないから…きっと帰ってくるから。」
そう言うと里村は再び空の方を見つめた。
俺は何も言わずにその場所を離れた。

…何をやっているんだろう?俺は
七瀬と行き違い、
住井と喧嘩し、
里村を傷つけ、
瑞佳を…。
…俺は何のために生きているんだろう?
……………………………………
…そうか。これは夢なんだ。
本当の俺は…
俺は目を瞑り空を見上げた。
目の前に光があふれ視界が真っ白になる。
「浩平!」
真っ白な世界の中でそんな声が聞こえた。

ぼくはくろいふくをきたおとなたちのなかにいた。
ぼくもくろいよそいきのふくをきせられて、おとなたちにのすることをみていた。
ぼくのとなりにはみさおがたっていた。みさおがまいごにならないように、ぼくはみさおのてをにぎっていた。
ぼくのいちばんふるいきおくだ。
ぼくにはとうさんがいない。ぼくがものごごろつくまえにしんでしまったそうだ。
ぼくにいちばんふるいきおくは、とうさんのそうしきのものだとおもう。
かあさんはてれびのうえにあるくろいものをさして、ここにとうさんがいるのよといっていた。まいあさとうさんにあいさつをしなさいといっていた。
ぼくにはなぜそれがとうさんなのか、よくわからなかった。
かあさんはよくぼくにいった。こうへいはおにいちゃんなんだからみさおのめんどうをみてあげて。
かあさんはしごとでかえりがおそかったから、みさおのおむかえはぼくのやくめだった。
みさおがさみしがるといけないから、がっこうがおわるといそいで、ほいくえんにむかった。
ぼくとみさおはなかがよかったので、よくふたりであそんでいた。
そして、よくけんかもした。ぼくのほうがおおきくてつよかったから、みさおがなくことがおおかった。ぼくはみさおがないているところをみたくないので、すぐにみさおのにあやまった。そうするとみさおはすぐになきやんっでぼくにわらってみせてくれた。
ぼくはそんなみさおがすきだった。
みさおがびょうきになったのは、みさおががっこうへあがってすぐだった。
みさおはこうえんのちかくにある、おおきなびょういんににゅういんした。
みさおがさみしがるといけないから、ぼくはまいにちおみまいにいった。
はなをもっていくとみさおはよろこぶので、はながさいているのをみつけると、
できるだけいっぱいつんでいった。
いっぱいはなをもっていくと、みさおはいっしょのへやのこたちにもわけてあげていた。いちどかえるをつかまえてもっていってあげたけれど、かんごうふさんにみつかっておこられたりした。
みさおとへやがいっしょのこどもたちは、ぼくよりもとしうえのこもいたけれど、
ぼくのことをじぶんおおにいさんみたいにみてくれていた。
いちどだけかあさんといっしょにびょういんにいったことがある。
そのときせんせいがぼくのちをすらべると、
みさおのびょうきがよくなるかもしれないといって、ぼくのちをとった。
かあさんのちもとったみたいだった。
ぼくがなつやすみにはいるまえ、みさおはしゅじゅつをしたそうだ。
そのあとみさおはよにんべやからひとりべやにうつされた。
みさおのびょうしつのまどからは、とおくのほうにうみがみえた。
ぼくはみさおがさみしくならないように、
がっこうがおわるといそいでびょういんにいくようになった。
そのころからだったとおもう。
もともとかえりのおそかった、かあさんがたまにかえらないひがあったりした。
ぼくもかえるのはくらくなってからだったから、あまりきにしなかった。
ふゆやすみにはいると、ぼくはあさからよるまでみさおとすごすようになった。
おしょうがつもみさおとふたりですごした。
かあさんはほとんどいえにかえらなくなっていた。
ふゆやすみがおわってもぼくはがっこうにいかなかった。
べつにがっこうへいかなくたっておこるひとはいなかったし、
ぼくはみさおのそばにいてあげたかった。
そしてみさおはもういちどしゅじゅつをした。
みさおのへやにはいろんなきかいがあって、いつもピッピッとおとをたてていた。
このころのみさおはときどきつらそうなかおをした。
ぼくはこのきかいのせいじゃないのかとおもった。
でもみさおはちがうとおもうといっていた。
ふゆはあんまりはながさいていないので、かわりにはなのえのしーるをもっていってあげたりした。
ほかにもぴょんぴょんはねるかえるのおもちゃだとか、
おなかをおすとぶーぶーゆうぶたのにんぎょうだとか
まどにくっついてぺたぺたところがるおもちゃとか
いろんなおもちゃをもっていってあげた。
でもみさおはべっどからおきれなかったから、ほとんどそれであそべなかった。
そのひはつくしがでているのをみつけたので、みさおにみせてあげようとおもってつんでいった。
でもそのひ、みさおにはあえなかった。
びょういんにつくと、しっているかんごふさんがぼくをよびとめて、いつものへやにみさおはいないといった。
みさおのびょうきがわるくなったので、ちがうところにうつったらしい。
つぎのひびょういんにつくとおなじかんごふさんが、みさおのいるところにつれてってくれた。
みさおはくらいへやでねていた。
ぼくはみさおほっぺにふれたみた。つめたかった。
みさおのあたたかさじゃなかった。
それはみさおじゃなかった。
みさおのかたちをした、べつのものだった。
そうおもいたかった。
みさおはみさおじゃなくなってしまった。
ぼくのみさおはいなくなってしまった。
かあさんもかえってこなかった。
ぼくのまわりのひとたちがどんどんいくなっていった。
このさきもたくさんのひとがいなくなってしまうのだろうか?
いまみさおをうしなったように、このさきもたくさんのひとをうしなっていきていくのだろうか?
このさきもたくさんかなしいおもいをするのだろうか?
もしそうならば…ぼくはこれいじょういきていたくはない。
ぼくはこれいじょうたいせつなひとをうしないたくはないから。
ぼくはこれいじょうかなしいおもいをしたくないから。
だから…
いきていくのをおわりにするんだ。

光に目が慣れてくると目の前に立つ人物に気が付いた。
「やあ、折原君。」
「…氷上。」
「ようこそ、全ての旅の終着点。そして新たな旅の始まりの場所に。」
「みさおはいないのか?」
「彼女はいないようだよ。」
「そうなのか?」
「彼女は既に旅立ったんだろうね。彼女がここを訪れたのは10年も前だ。」
「そうか…10年?俺が死んだのは、みさおの死んだ5週間後だ。」
「いい事に気が付いたね。今のキミは何歳だい?」
俺は自分の体を見た。そこにあるのは身長90センチ足らずの7歳の俺ではなく、170センチの16歳の俺だった。
「これは、この体は、今の俺だ。16の俺の体だ。」
「この世界ではすべての現実は夢みたいな物だ。7歳で衰弱死したのも、16まで生きてきたのも、それぞれの世界では現実の話しだよ。」
「今の俺はどっちの世界から来たんだ?」
「どちらの世界から来たかではなく、どちらの世界を選ぶのかだよ。」
「選ぶ?」
「人生には無数の選択肢がある。7歳のキミの選択によって、生死が分けられた。」
「ここが『死後の世界』ならば俺は死んでいると言う事だろ?」
「そのとおりだ。でも16歳まで生きてきた記憶も持っている。」
「そして、このからだは16歳の物だ。いったいどっちが本当の俺なんだ?」
「両方ともさ。」
「わかりやすく話してくれ。」
「キミは7歳の時に生死を分ける選択肢に当たった。でもその選択肢のどちらか一方ではなく、両方とも選んでしまった。」
「…今の俺は、7歳で死んでいながら生き続けている。そういう事か?」
「わかったみたいだね。」
「いや、全然だ。現実に俺は生きているのか?死んでいるのか?」
「それはキミ次第だよ。ここでは過去も未来も現在なんだから。」
「じゃあ、俺はどうすればいい?」
「キミは自分を偽る事に、慣れ過ぎてしまったようだね。どうするべきかはキミ自身が知っている。」
「俺が?」
「思い出してみるんだ。何がキミの生死を分けたのかを。」

ぼくはおばさんに手を引かれて知らないばしょを歩いていた。
ぼくはおばさんのすむ町につれてこられていた。
ちょうどそのころはさくらのさくころで、町中いたるところでさくらがさいていた。
またちかくに見える山はだはなの花できいろくそまり、がいろじゅもまだわかばのやさしい色を見せていた。
みさおに見せてあげたい。
でもそんな美しいけしきを、みさおに見せてあげることはできなかった。
なぜならここはみさおのいる町じゃないから…。
ここはみさおのいる世界じゃないから…。
ぼくはみさおのそばにいることはできなかった。
ぼくはみさおのいる世界にとどまることはできなかった。
「こんにちは。」
とつぜん女の子の声が聞えた。
「あら、みずかちゃん。ちょうど良かったわ。」
おばさんがそれに答えるように言った。
ぼくはおばさんに手を引かれておばさんの前に出ると、そこにはリボンを付けた髪の長い女の子がいた。
「わたしのおいのこうへいよ。わたしの所でくらすことになったの。たしかみずかちゃんと同じ年だったはず…。」
「ながもりみずかです。」
女の子はそう言ってぎょうぎ良くおじぎをした。でもぼくはだまってうつむくしかできなかった。
「ごめんなさいね。この子かぞくをなくしたばかりだから…。」
おばさんはそう言ってべんかいしたが、女の子のほうは気にとめたようすもなく
「ねえ、いっしょにあそぼ。」
と言って、ぼくの手をとった。
「そうね、いいきかいだから行ってらっしゃい。」
おばさんはそう言ってぼくのせなかをたたく。
「ごめんなさいね。あいそのわるい子だけど、よろしくね。あとで、わたしのうちまでつれてきてもらえるかしら。」
「はい。じゃあ、いこ。」
女の子はぼくの手をとって走り出した。
どこをどうきたのかはわからない。ただ気がつけはたんぽぽがだくさんさいている空き地にきていて、そこにはたくさんの子供たちがいた。
そこでぼくは女の子の手をふりきった。
「どうしたの?」
「…。」
「ねえ、なかよくしよ。」
「いやだ!どうせいなくなってしまうのなら、なかよくなんてしたくない。」
「わたしはいなくなったりしないよ。」
「うそつけ!みさおだっていなくなってしまったんだ。おまえだっていなくなる。」
「わたしはいなくならないよ…どうしたらしんじてもらえる?」
「…しょうこを見せろよ。」
「しょうこ?」
「そう。しょうこだ。」
「うーん。じゃあねえ。」
女の子はそう言って、ぼくのりょうほうのほっぺたを手でおさえた。
「やめる時も、すこやかなる時も、この人とともに生き、えいえんのあいをちかいます。」
そう言って女の子はぼくのくちびるに自分のくちびるを当てた。
「なんだ?いまの」
「ちかいだよ。」
「ちかい?」
「うん。えいえんのちかい。これでわたしはこうへいといっしょだよ。どんな事があってもこうへいといるよ。」

「そうだ。瑞佳がいてくれた。みさおはいなくなったけれど。瑞佳がいてくれた。」
「瑞佳は一緒にいると言って…どんな時も一緒にいると言って、そして俺はその言葉を試すように、瑞佳を苛めて、瑞佳に嫌われるようなことを沢山して、それでも瑞佳はそばにいてくれて、こんな俺を瑞佳は好きでいてくれて、俺はそんな瑞佳に…。」
「結果は良くなかったけど、それは彼女も望んでいたことだよ。」
「え?」
「彼女は拒絶したかい?」
「…いや。」
「彼女は抵抗したかい?」
「…してない。」
「彼女は君のすることを受け入れるつもりでいたんだよ。」
「でも俺は瑞佳のことを…。」
「君にとっての彼女は、妹さんの身代わりなのかい?」
「…違う!」
「偽りのない君にとって、彼女はどんな存在だい?」
「俺にとって瑞佳は…俺は…瑞佳が好きだ。」
「ついに『自分の役』を脱ぐことができたね。今の君なら、選択に迷うこともないだろう?」
「ああ、俺は瑞佳のそばにいる。」
「じゃあ。お別れだね。」
「…氷上。おまえは戻れないのか?」
「僕はどんな選択をしたとしても、病気で死ぬことに変りはない。ただそれが、遅いか早いかの違いだけだ。」
「そうか…。なあ、また会うことはできるだろうか?」
「今度会う時、僕は名前も、姿形も違っているし、君のことを覚えていない。だからたとえ会えたとしても、お互いに気が付かないだろうね。」
「…たとえお互いに気付かず擦違ったとしても、多分それは奇跡じゃないのか?」
「そうだね、その奇跡を信じよう。」
氷上の姿が光りに包まれ見えなくなる。
氷上。俺は初めて親友と言うものを持ったよ。
人は、失われる物だから求め合う。
いつかは失うことだと知っているから、今を生きる。
やがて別れの時を迎えるからこそ、少しでも多く好きな人といようとする。
俺もまた、少しでも永く一緒にいたい人の所へ…。

目の前には瑞佳の顔があった。
瑞佳の部屋。瑞佳のベッド。
俺は寝ている瑞佳の横に寝ていた。
頭の方にある目覚し時計は5時を指していた。もうすぐ夜が明ける。
目の前で寝ている瑞佳の目元には、うっすらと涙が浮んでいる。
俺はその涙を指で掬って拭いてやる。
すると瑞佳は顔をしかめゆっくりと目を開いた。
「悪りい。起こしちまったか」
「浩平?」
瑞佳がそう聞いてくる。多分まだ頭が働いていないはずだ。
「浩平?」
もう一度聞いてくる。
「ああ。」
今度は俺も答えてやる。
「浩平!なんで…」
急に大声になるので、俺は慌てて瑞佳の口を押さえる。
「ばかっ、大声出すな。見つかったらやばい。」
「ごめん。でもどうして浩平がいるの?」
「瑞佳に会いたかったからな。」
「そうじゃなくてぇ。なんで私のベッドの中にいるの?」
「瑞佳のそばにいたかったからさ。」
「でも女の子のベッドに入り込むなんてぇ。」
瑞佳は少しパニックを起こしているようだ。
「瑞佳。」
俺はなだめるように瑞佳の名を呼んだ。
「ただいま。瑞佳」
「おかえり。浩平」

うあーーーん
いいか。もうついてくんなよ。
うあーん、こうへいぃ。
…。
こうへい?
ごめん、みずか。わるかったな。
いっしょにいてもいいの?
ああ。
ありがとう。こうへい。


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