十二時の待ち人
目を覚ますと、女の子が顔をのぞき込んでいた。
「気が付きましたか?」
心配そうに俺を見ていた女の子の顔がぱっとほころぶ。
「……………」
身体を起こしてみる。気怠い。激しく運動した後、次の日の昼過ぎまで眠り込んだような気分。疲れているわけではない。しかし頭が休息を求めていて、手足がやけに重たく感じられる。
辺りを見回してみて、ようやくベッドに寝かされている事に気付いた。華美な装飾はなく、家具も必要最小限しかないのに、決して殺風景ではない部屋。上品な質素さ、という表現が浮かんだ。
ベッドの脇の椅子に女の子が座っている。歳は十七、八くらいだろうか。エプロンドレス、というのだろうか。まるでメイドさんのような服装をしている。
今時、どんなお店に行けばこんな服が揃うのだろう。
「どこか痛む所はありませんか?」
「いや……」
「良かった。ひどい怪我でもしてたらどうしようかと思いました」
「……………」
女の子が嬉しそうに笑うのを見ても、気怠い気分を吹き飛ばして笑う気力はなかった。サボタージュを起こしている脳に鞭打って、過去の記憶を呼び出す。
確か大学の授業が終わった後、何人かの悪友と飲みに出かけたはずだった。二次会までは覚えている。二軒目に入った居酒屋を出て、何人かで肩を組みながら、千鳥足で夜の街を歩いた事までは思い出せるのだが……その先は覚えていない。頭の中に、記憶の代わりに酒が詰まっているような気がした。
「え〜と、ここどこ?」
「新城家のお屋敷です」
「……………」
そう言われても心当たりがない名前だった。全財産抱えて発展途上国に行けばそこそこ金持ちだとしても、アジアの東端の日本列島に暮らす限り、高い物価と消費税の値上げに苦しむ一般家庭に生まれた自分である。
「街外れの丘の上にあるお屋敷ですよ。ご存じありませんか?」
「……………」
生まれてから二十年近く暮らしてきた街である。大抵の事は知っているつもりであったのだが、丘の上に「お屋敷」と言えるだけの建物があったろうか。
ようやく調子を取り戻してきた頭を、必死でフル回転させる。ふと視線に気付いた。不安そうな目で女の子が俺を見つめている。
「とにかく、ここは広島の街外れなんだね?」
「はい」
「それがわかれば充分」
それなら適当にバスにでも乗れば家に帰れる。近くのバス停の場所を教わって駅に出て、そこから家の近くまで行くバスに乗ればいい。
しかし、したたかに酔っていたとはいえ、どうしてこんな所まで来てしまったのだろう。この分だと、酔っている間に何をやらかしたのかわかった物ではない。
「あの、お名前を教えていただけませんか?」
俺の目をまっすぐ見つめて尋ねてきた。
「菊池貴広」
「菊池様、ですね。わかりました」
「……菊池様、だなんて大げさだな」
「でもお客様ですから。粗相のないようにしないと、御主人様に叱られてしまいます」
「お客様といったって、酔っ払って勝手に押しかけてきただけじゃないか」
「それでもお客様はお客様です!」
女の子が声を大きくして言う。職業熱心というのも、時には困り者だ。本来なら縁のない空間に、たまたま迷い込んだ自分である。もうしばらくすればこの屋敷を出ていくとしても、「菊池様」などと不相応な呼ばれ方をするのは気恥ずかしい。
「じゃあこうしよう。御主人が一緒の時は菊池様でもいい。でも俺達しかいない時は貴広さんって呼んで欲しいな」
「……そうですか。菊池さ……ご、ごめんなさい! 貴広さんがその方がいいとおっしゃるならそうします」
女の子は真っ赤になってうつむく。
「本当にごめんなさい。私ったら本当におっちょこちょいで、みんなに迷惑ばかりかけているんです」
「本当に君はおっちょこちょいだな」
「……は、はい」
「だって、君の名前、まだ聞いてないもん」
「……え?」
女の子は鳩が豆鉄砲を食らったような表情になる。しかしすぐに口許を手で押さえて笑い出した。
「ごめんなさい。本当におっちょこちょいで……私、久野秋子です」
「秋子ちゃん、か。よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」
笑いの余韻を頬に残したまま、秋子ちゃんは言葉を続ける。
「ところで貴広さん、お腹空いてませんか?」
「うん、そういえば……今、何時?」
「もうお昼過ぎですよ」
「そうか」
腹が減るはずである。もう十時間近く何も腹に入れていないはずだ。酒以外には。
「お昼、作っておいたんですけど、召し上がりますか?」
「いや、悪いよ。こっちが勝手に酔っ払って押しかけてきたのに」
「遠慮なさらないで下さい。貴広さんはお客様なんですから」
「……う〜ん」
こういう場合、素直に相手の好意に甘えた方がいいだろうか。無理に断れば、かえって秋子ちゃんは傷付くかも知れない。うん。きっとそうだ。そうに決まってる。
……決して食欲に負けたわけじゃないぞ。
「じゃあ、お言葉に甘えてご馳走になろうかな」
「はい。それじゃあ、食堂まで案内します」
歩き始めた秋子ちゃんを追って、俺も歩き出す。部屋を出ると長い廊下が続いていて、同じようなドアが左右に並んでいた。
他に見る物もないので、秋子ちゃんの後ろ姿を見る。上品な歩き方だった。歩調に合わせて揺れる細い肩の動き方が……どう表現すればいいだろう……柔らかい物腰、とでも言えばいいだろうか。さすがは良家のメイドさん。今時、こんな歩き方ができる女の子はそうはいないだろう。
でも上品な物腰とは反対におっちょこちょいなところがあったり、丁寧な言葉遣いとは反対にしゃべり方はけっこう元気だったりする。それが秋子ちゃんのすごく可愛らしいところだ。
広間に出た。あんまり広かったので、思わず「へぇ〜」と庶民らしいため息をついてしまった。すると秋子ちゃんが、くすっと笑い、俺は赤面してしまった。
広間に降りる階段の方に、秋子ちゃんは歩いていく。この階段がまた無意味に広く、さらに赤い絨毯が敷いてあったりする。俺も秋子ちゃんに付いて歩きながら、通り過ぎる少し前に気付いた。
大きな柱時計があった。かなり古い物のようだ。茶色く色褪せた文字盤。ガラス越しに振り子があり……それは動いていなかった。
「壊れているんですよ」
「ふぅん。もったいないなぁ」
もう少しで十二時になるところだから、鐘を聞けるかと期待していたのだが……そういえばさっき秋子ちゃんが、お昼過ぎだと言っていたっけ。
「でも、こんな街外れだと時計屋さんまで持っていくのも大変ですし……」
「不便じゃないの?」
「はい。大丈夫ですよ」
柱時計から視線を外すと、秋子ちゃんは階段の途中に立ち止まり、俺の方を見上げていた。
「ごめんなさい。私ったら、どうしようもないくらいおっちょこちょいですね。肝心な事を言い忘れていました」
「何を忘れてたの?」
「御主人様、出かけてるんです。奥様とおぼっちゃまを連れて」
「そうか。じゃあ、今、この屋敷には誰が残っているの?」
「私一人です」
「……………」
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「つまり俺と秋子ちゃん二人っきりって事?」
「はい。そうです」
明るく笑って言うと、秋子ちゃんはまた歩き始めた。その後ろ姿を見ながら、とりあえず俺も歩き始める。
食堂に着いた。食堂はそれほど広くなかった。もっとも、広間を見た直後だから、感覚が麻痺しているのかも知れない。
「どうぞ。お座り下さい」
秋子ちゃんが引いてくれた椅子に腰かける。秋子ちゃんは隣り合った部屋に行くと、それぞれの手に、サンドイッチの乗ったお皿とティーポットとティーカップの乗ったお盆を乗せて戻ってきた。
「どうぞ。お召し上がり下さい」
「うん。ありがとう」
サンドイッチを一つ手に取り、口に運ぶ。
「……どうですか?」
「う〜ん、ちょっとからしが利き過ぎかな」
「そ、そうですか」
ちょっと落ち込んだ様子が声でわかった。
「でも美味しい。俺の好みだな」
「ほ、本当ですか?」
「本当本当。好きだなぁ、この味」
「……嬉しいです」
声だけで、ちょっとはにかんだ様子まで想像できてしまう。
「おぼっちゃまも、このサンドイッチが好きだって言ってくれるんですよ」
「秋子ちゃんの御主人の息子さん、か」
「はい。貴広さんと同じくらいの歳なんですよ」
「ふ〜ん」
……あ、そういえば。
「秋子ちゃん、座らないの?」
さっきからずっと、秋子ちゃんは俺の斜め後ろに立っていたのだ。
「え? ……でも私、使用人ですから。お客様と同席するなんてできません」
「いいからいいから。後ろで見られてると、食べづらいんだよ」
「困ります。そんな事言われても……」
「どうせ御主人は出かけてるんだし。ね? お願い!」
手を合わせて拝んでみる。きっと秋子ちゃんは丁寧に頼まれると弱いに違いない。
「……そんなに頼まれると……それじゃあ、失礼して」
などと言いつつ、秋子ちゃんは俺の目の前の椅子に座る。でも落ち着かないようで、お盆を胸に抱えてうつむいている。
悪い事したかな、とも思ったが、せっかく知り合えたのに、「お客様」と「使用人」のような堅苦しい関係は嫌だ。恋人になりたいとか、もっと親密になりたいとは言わないが、いずれ分かれるとしても、せめて対等な立場で話をして、そのまま別れたい。
そんなこんなで食事をしている内に、サンドイッチは瞬く間になくなった……食べたのは俺だけど。それだけ美味しかったのだ。
「ところで貴広さん」
「ん?」
お皿を片づけた秋子ちゃんが言う。お客様との同席から解放されたためか、いつもの明るさを取り戻している。
「貴広さんは何をしている人なんですか?」
「俺は大学生だよ」
いつもさぼっているけど。
「すごいですね。貴広さんって、お金持ちなんですね」
「へ?」
思わず間の抜けた声を上げてしまう。それに気付かないのか、秋子ちゃんは平然と続ける。
「私もお勉強したいですけど、お金がありませんから学校なんて行けません。でも学生さんは学生さんで大変なんでしょう?」
「え? そりゃまあ、それなりに……」
「最近は戦争が激しくなってますから、先生やお友達が戦争に行ってしまう事もあるんじゃないですか?」
「……………」
さぼれるだけさぼって大学を辞めてく奴はごまんといるが、戦争に行った奴は知り合いにはいない。
「あの、貴広さん、どうかしましたか? 黙り込んじゃって……」
話が噛み合っていない。どうも嫌な予感がしてきた。
「秋子ちゃん、今年は何年だっけ?」
「昭和二十年ですけど……それが何か?」
「……………」
「た、貴広さん?」
昭和二十年……俺は酔っ払っている間にタイムスリップしてしまったのか? いや、待てよ、昭和二十年は、広島にとって特別な年だったのだが……。
「……ついでに何月何日だっけ?」
「八月五日ですよ」
「……………」
「あの、貴広さん?」
「は、早く逃げなきゃ!」
「え?」
「明日には原爆が落ちてくるんだ! 広島は焼け野原になるんだ!」
「た、貴広さん、落ち着いて下さい!」
「これが落ち着いていられるか! 早くここから逃げ出さないと、俺も秋子ちゃんも死んじゃうんだぞ!」
「逃げるって、どこへ逃げるんですか?」
「どこでもいいから広島の外……でも長崎はダメか」
「無理です。できませんよ」
「どうして!」
「この屋敷からは出られないんです。門が閉まっているんです」
「……………」
「行ってみますか? 門まで」
「……ああ」
いつのまにか俺の手が秋子ちゃんの腕を強く掴んでいる事に気付いた。慌てて放すが、ごめん、の一言は出てこなかった。
食堂を出る秋子ちゃんの背中を追う。上品な歩き方がやけに癪に触った。とにかく一歩でも前に進みたいのに、心が足より先に進んでいるような状態なのに、秋子ちゃんはゆっくりとしか進まない。
広間を抜け、秋子ちゃんは玄関のドアを開けた。外の景色が見えた瞬間、秋子ちゃんを押し退けるように外へ出る。
芝生が広がっている。ずっと先にレンガ造りの高い塀と高い門が立ちはだかっている。募る苛立ちの分、歩幅は大きくなっていく。感情が高ぶっていくのにつれ、足が速く動く。しかし門までの距離は遠く、まるで夢の中で足を動かしているような気分だった。
ようやく門までたどり着いた。門には把手とか鍵穴とか、明けるために必要な物は見当たらない。両手をついて、全身の力を込める。
しかし門はびくともしない。軋んだ音で不平を訴えようとはしない。二枚の扉の間から、晴天の空の下に広がる広島の街並みを見せてはくれない。
「……………」
膝に芝生の柔らかい感触を感じる。知らない間に地面に膝をついていた。手の平に芝生のチクチクした感触を感じる。知らない間に地面に手をついていた。
もう終わりだ。太陽が西の空に沈み、そして再び東の空に昇る頃、自分は死ぬのだ。昭和二十年八月六日、広島に原爆が投下され、二十万人の人間が死ぬ。
その中の一人として、自分が生まれる以前の人間の中に紛れて。自分が生まれ育った街からほんの十数キロの場所で、しかし自分が生まれ育った時点に行き着くまで三十年の時間がかかる場所で。
芝生を踏む音が聞こえる。小走りに駆けてきた秋子ちゃんが、ようやく追い付いてきたのだろう。しかし立ち上がる事も顔を上げる事もできなかった。
「あの……貴広さん……」
「うるさい!」
怖ず怖ずと差し出された手を、反射的に振り払っていた。
「……ご、ごめんなさい」
「……………」
消え入りそうな声。身を翻して屋敷の方に走っていく秋子ちゃんの後ろ姿を、黙って見送る。
立ち上がると、再び門と向き合った。軽く手を振り上げ、拳を打ち付ける。指の付け根の辺りに痛みと軽い痺れを感じる。門は相変わらずびくともしない。苛立ちに任せての行動だったが、手加減していたので、怪我はしていない。
続けて道端の石ころをけっ飛ばすように、門をけっ飛ばす。結果は足が痛かっただけだった。
本当にこれは門なのだろうか。内側からも外側からも開かないように作られているようにさえ思える。
後頭部に両手を置き、門に背中を預ける。
「……開かない扉って言うのは、壁と変わらないんだな」
ため息をつく。
「……………」
そこには誰もいなかった。何気ない一人事を聞き止めてくれる人も。重いため息に気付いて、表情をうかがってくれる人も。ただ風だけが芝生を揺らしていた。
考えてみれば、ここに来てからは一瞬も一人だった時間はなかった。ずっと秋子ちゃんが側にいてくれた。たまたま迷い込んできただけも、見も知らない俺を、秋子ちゃんは「お客様」として扱ってくれた。泥棒か何かとは考えず、わざわざ食事を作ってくれたし、目を覚ますのを枕元で待っていてくれた。
「……謝るか」
原爆が落ちて死んでしまうとしても、最後に会った人間と気まずいままで死ぬのはきっと後味が良くない。
芝生を横切って歩いていく。最初は慌てていて気付かなかったが、よく手入れされているのか、芝生はとても綺麗だった。まるで緑色の絨毯、といったら失礼だろう。絨毯なんかよりずっと綺麗だ。
とりあえず食堂に行ってみた。ここにいなかったら、広い屋敷を探し回らなくてはならないが、幸運な事に秋子ちゃんはそこにいた。
落ち込んだ表情で椅子に座り込んでいる。普段の笑顔がなくなるだけで、こんなに見ているのが辛くなる物なのだろうか。
「秋子ちゃん」
「あ……貴広さん」
椅子から立ち上がり、秋子ちゃんが笑う。人形みたいな笑い方だった。顔は笑った形になっていても、何か大切な物が欠けているような気がする。
「……秋子ちゃん、さっきはごめん」
「謝らないで下さい。私、気にしてませんから」
秋子ちゃんはどう考えても嘘が下手だった。その言葉が本当なら、いつもの笑顔を見せてくれるはずだ。
「本当にごめん。あのときはカリカリしていて……」
「そんなに謝ると、私の方が困ります。貴広さんはお客様なんですから、私なんかに気を使わないで下さい」
「嫌だ。秋子ちゃんが許してくれるまで口聞いてやらないぞ」
「それって何か変じゃないですか?」
「じゃあ、許してくれないと許さないぞ」
「もっと変ですよ」
「う〜ん、それじゃあ……」
腕を組んで考え込む。困った表情になっていた秋子ちゃんだったが、ようやくちょっとだけ笑ってくれた。
「わかりました。もう許して差し上げますから、謝るのはやめて下さい」
秋子ちゃんがくすっと笑う。俺も口許が自然とほころぶ。例え俺と秋子ちゃんが「お客様」と「使用人」の立場で、そういう接し方しか許されなくても、笑顔だけは心からの物であって欲しい。それができるのが、きっと秋子ちゃんの良さだと思う。偉そうな言い方になるが。
「あの、貴広さん」
「ん?」
「もしよろしければ事情を話していただけませんか? 私にもお手伝いできる事があるかも知れません」
「そうだった。こうしてる場合じゃないんだ」
とりあえず秋子ちゃんと向かい合って座る。問題はこれから話す事を、秋子ちゃんに信じてもらえるかどうかだ。
「秋子ちゃん」
「はい」
「これから俺が話す事は、とても信じられないような事ばかりかも知れないが、みんな真実だ。信じてくれる?」
「はい。信じます」
「にこやかに笑ってうなずいてくれる。そりゃそうだ。ここで「信じられません」と本気で答える人がいたら、きっとその人には友達がいないに違いない。
「実は、昭和二十年八月六日に広島に原爆が落ちるんだ」
「はい。さっきもそう言ってましたね」
「……………」
「……………」
「あのさ、秋子ちゃん」
「はい」
「驚かないの?」
「はい……ごめんなさい。私、貴広さんの言っている原爆がどういう物なのか、知らないんです」
「あ、そうか」
原爆は俺の生まれた時代では常識的な事だが、五十年前の日本では研究者や政府高官、軍隊の幹部など、一部の人間しか知らない事なのだ。
「う〜ん、要するに強力な爆弾、かな」
「爆弾……ですか」
「どれくらい強力かって言うと、たった一発で広島がガレキの山になって、二十万人の人間が死ぬくらい」
「……………」
秋子ちゃんは目を丸くして黙り込んでしまった。
「秋子ちゃん?」
「は、はい」
「信じてくれる?」
「……………」
「そりゃ信じろって言う方が無理か」
「し、信じます!」
小さな拳を握り締めて秋子ちゃんが力説する。
「貴広さんの言う事だから、信じます!」
「そうか。ありがとう」
「……でも貴広さんは、どうしてそんな事を知っているんですか?」
「俺は五十二年後の日本から来たんだ」
「???」
信じられるはずないか。
「とにかく、アメリカ軍のスパイじゃないから安心して」
「は、はい」
「それで今夜中にも広島から逃げなきゃならないんだ。わかる?」
「はい。それはわかります。私もできるだけ協力しますから」
秋子ちゃんはにっこりと笑う。しかしすぐに表情を曇らせた。
「でも貴広さん、もしこの屋敷から出る方法が見付かっても、私はここに残ります」
「え?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「どういう事? 俺の言う事が信じられないの?」
「違います。そういうわけじゃありません」
「じゃあ、どうして?」
「私はここで留守を守るよう、御主人様から言われているんです。貴広さんと一緒に逃げる事はできません」
「でも、ここにいたら死んじゃうんだ。仕方ないだろ? きっと御主人だって……」
「それでもダメなんです!」
秋子ちゃんが彼女らしくもなく声を荒げる。思わず途中で言葉を止めてしまった俺を真っ直ぐに見つめながら、静かに口を開く。
「私が屋敷を空けている間に御主人様が帰ってきたら、どうするんですか?」
「……………」
「ごめんなさい。私、やっぱりここを離れられません。御主人様が戻ってきた時、ここから逃げるように言わなくてはなりませんから」
「ごめんなさい。でも貴広さんがここから出られるよう、できるだけ協力しますから」
「……………」
「……………」
返す言葉をなくして黙っていると、秋子ちゃんもうつむいてしまった。
秋子ちゃんは死のうとしている。待つように言い付けられたから、待ち続けるのだ。いつ帰るかわからない主人を。
それを止める権利が、自分にはあるのだろうか。現実から逃げるためではなく、現実と向き合うために死を選ぼうとする少女を、止める権利があるのだろうか。
椅子が動く音がした。立ち上がったのは秋子ちゃんではない。立ち上がったのは俺だった。
何か言わなければならない。しかし唾液で粘ついた喉も、乾ききった唇も、微かに震えるだけで声を生み出すには至らない。
「貴広さん、本当にごめんなさい。お気持ちは嬉しいのですが、こればかりは……」
「……いいんだ、秋子ちゃん」
ようやく生み出された声は、しゃがれているかかすれているかしていたかも知れない。しかし自分ではよくわからなかった。
「秋子ちゃんを止める権利は、俺にはないよ」
「貴広さん……」
「ちょっと外に行ってくる」
「私も行きます」
「いいんだ。秋子ちゃんはここに残っていてくれ」
「……………」
秋子ちゃんを残して食堂を出る。広間を抜け、庭に出た。八月の強い陽射しが照りつけ、芝生を輝かせる。空はどこまでも青く、そして青かった。
この景色も明日には消えてしまうのだ。衝撃波が建物を崩し、熱風が地表を撫で、死の灰が降り注いで草木を枯らしてしまうのだ。
目の前に高い塀が立ちふさがっている。この塀を乗り越えない限り、いずれ訪れるであろう地獄絵図から逃れる事はできないのだ。
屋敷を囲む塀に沿って歩き始める。どこかに勝手口でもあるかも知れない。あるいは塀が低くなっている所でもいい。
塀を観察して歩きながら、頭の中では別の事を考えている。秋子ちゃんの事だった。いつになるともわからない主人の帰りを待ち、ただ一人、この屋敷に残る少女。
原爆が落ちて、明日にはこの屋敷は消えてなくなる。それは明白である。信じてくれると、秋子ちゃんは言ってくれるのだ。それなのに、この屋敷にとどまると言う。
それは正しい事なのだろうか。そうまでして主人に忠誠を尽くす事が。実際に主人のためになるかどうかもわからない命令を、盲目的に守り通す事が。
いや、そんな事が正しいはずがない。例え今、命令を一時的に破ったとしても、今を生き延びれば、それだけ長く主人のために働く事ができる。それさえも許さないような主人に、仕える必要などあるはずがない。
しかしそう説得してみても、きっと秋子ちゃんは納得しないだろう。俺にとっては正しい事が、秋子ちゃんにとっても正しい事とは限らないのだ。
「……こうなったら、力ずくでもこの屋敷から連れ出すしかないか」
俺は秋子ちゃんに恩がある。介抱してくれたし、食事も作ってくれた。そしてそれ以上に秋子ちゃんの事が好きだ。彼女を助けたい。見捨てる事はできない。少なくとも今の俺には、それが大切な事なのだ。
秋子ちゃんを力ずくで連れ去って、広島から出る。そして屋敷に脅迫状でも残しておけばいい。この手紙を見たら、すぐにどこそこへ来い、とでも書いて。騙すようで心苦しいが、そうすれば留守の間に主人が帰ってきても問題はない。
秋子ちゃんは納得しないだろう。しかし誘拐犯になってでも秋子ちゃんを助ける事の方が、俺にとっては正しいし、そして大切なのだ。だからそうするしかない。例え秋子ちゃんにとってはそうでなく、そのために彼女に嫌われる事になったとしても。
ようやく光明が見えたような気がする。自分も秋子ちゃんも主人も助ける事ができる。しかしその前にこの屋敷から出る方法を見付けなくてはならない。
絶望的なまでに、塀を構成するレンガは隙間なく精巧に積み上げられている。これだけ厚みと高さがある塀だと、恐らく土台も深く掘られている事だろう。地面の下を潜って進む事も考えられるが、上手くいくだろうか。上手くいったとしても、原爆が落ちるのは明日なのだ。屋敷から出られても広島から出る時間は残らないだろう。
あれこれ考えながら歩いていると、屋敷の裏側に着いた。庭石が置いてあったり松の木が植えてあったりと、日本庭園風になっている。池があって、その近くに秋子ちゃんがしゃがみ込んでいた。
そのまま近付いていくと、秋子ちゃんは立ち上がってにっこりと笑った。
「貴広さん」
しかし表情はすぐに曇ってしまう。さっきのやり取りで俺の事を傷付けたと思っているのだろうか。
「立派な鯉だね」
「はい。今、エサをあげてたんですよ」
「俺もエサあげてもいいかな?」
「はい。どうぞ」
もう半分以上なくなったパンのかけらを渡してくれた。小さくちぎって投げ込むと、たちまち鯉が群がってきて、様々な色が水面に揺れる。
池のほとりにしゃがみ込むと、隣に秋子ちゃんもしゃがみ込む。ちらっと横目で表情をうかがうと、優しく笑って池を見下ろしていた。
きっと秋子ちゃんは気付いていないのだろう。この屋敷から出る方法が見付かったら、俺は力ずくで秋子ちゃんを連れ去ろうと考えている事を。そして、だからこそ今の俺が笑って秋子ちゃんと話せる事を。
「秋子ちゃん、どこかに長いハシゴはない?」
「ハシゴ、ですか?」
「うん。塀を越えられないかなって思って」
「……確かこれくらいの……脚立ならありますけど……」
秋子ちゃんが手を頭の上くらいで動かす。話にならない。立っている時にやってくれればいいのだが、しゃがんでやってくれても困る。
「とても足りませんね」
「うん。残念ながら」
「ごめんなさい。お役に立てなくて」
「秋子ちゃんが悪いんじゃないって」
もし充分な長さのハシゴがあったとしても、きっと難癖をつけて使わないだろう。秋子ちゃんを連れ去る事ができないから。
「そういえば俺、酔っ払ってここまで来たんだよな」
「え……はい、門の前のところで倒れていたんですよ」
「……一体、どうやって塀を越えてきたんだろう」
腕を組み、首をひねって考えてみるが、答えは見付からない。やっぱりぐでんぐでんに酔っ払って覚えていないらしい。
「あの、貴広さん、もし良かったら、冷たい麦茶でも飲みませんか?」
「ありがとう。でも向こう側を回ってからにするよ」
「そうですか」
俺がよっこらせと親父くさいかけ声と一緒に立ち上がると、秋子ちゃんもゆっくりと立ち上がる。
「時間取らせちゃったかな」
「いえ、お気になさらないで下さい」
「ありがとう」
「どういたしまして。私でお役に立てることでしたら、遠慮なく言って下さい」
やっぱり秋子ちゃんには笑顔が一番似合う。笑顔が似合うのはどんな女の子も同じだろうが、秋子ちゃんの場合、誰かの幸せを思って見せる笑顔が特に似合う。思い悩んだり悲しんだりする顔は、辛くてとても見ていられない。
秋子ちゃんを残して屋敷の向こう側を回ってみる。あまりに代わり映えしない塀が続いていたので、間違えてもう回った場所に戻ってきたんじゃないかと思ってしまった。
屋敷の正面に出た。結局、というよりやっぱり、徒労に終わった。
「何もない事を確認しただけ、無意味ではなかったな」
つぶやいてみても、負け惜しみにしか聞こえない。不意に脱力感に襲われ、柔らかい芝生の上に座り込みたくなった。
視界の端にテーブルと椅子を見付けた。きっと天気のいい午後に、外の風に吹かれながらお茶を飲むために置いてあるのだろう。
椅子に座り、長いため息をつく。椅子に座ると、身体を起こしているのも面倒になり、テーブルの上に突っ伏す。
それにしても、どうやってここから脱出すればいいのだろう。門は開かない。塀を越えるためのハシゴもない。穴を掘って地面を進むのもとても無理。
時間は刻一刻と迫っている。早くこの屋敷から抜け出し、広島を離れなければ原爆のために死んでしまうのだ。
事態は一刻を争うのに、疲れた身体で楽な姿勢をとっていると、必然的に眠くなってくる。五十年後には、よくこうして大学の授業中に居眠りしたものだ。徹夜のアルバイトやレポート作成でフライパンの上のバターのようにとろけてしまった脳みそは、そのまま流れ出して夢の世界に至る……。
「おぼっちゃま、起きて下さい。こんな所で寝たら、風邪をひいてしまいますよ」
まどろんだ脳みそが左右に揺れる。半分眠って、半分起きた意識で身体を起こしてみると、ぼやけた視界の中に秋子ちゃんがいた。
「秋子ちゃん?」
「……ダメですよ。こんな所で寝たら。寝るのなら部屋に戻ってからにして下さい」
「……おぼっちゃま?」
「……………」
俺がぼそっと言うと、秋子ちゃんもようやく俺の事を「おぼっちゃま」と呼んでしまった事に気付いたようだ。顔を真っ赤にして、両手で頬を覆う。
「ご、ごめんなさい! 私ったら、本当におっちょこちょいで……」
秋子ちゃんはぺこぺこと頭を下げる。
「秋子ちゃん、気にしないで」
「私ったら……本当に恥ずかしい……」
泣きそうな顔でうつむいてしまう。これはこれで可愛いけど、そのままにしておくわけにはいかない。なんて言おうか考えていると、秋子ちゃんが少しだけ顔を上げた。
「貴広さん、怒ってませんか?」
「怒ってないよ。怒ってないから、秋子ちゃんも気にしないで」
「……はい」
「それより、何か用事でもあったの?」
「いえ、屋敷の周りを見てくるだけのわりには遅いと思いまして」
「心配してわざわざ見に来てくれたの?」
「はい。それより、一休みして麦茶でも飲みませんか?」
「うん。そうしようか」
俺と秋子ちゃんは並んで歩き始める。
「ねえ秋子ちゃん」
「はい」
「俺とおぼっちゃまって、間違えちゃうくらい似てるの?」
「ええと……歳も同じくらいですし、体格もそれほど変わりませんけど……雰囲気はあまり似てませんね」
「ふうん」
「私ったら、どうしてあんな間違いをしてしまったのかしら。本当に恥ずかしい……」
食堂に着くと、秋子ちゃんは麦茶を出して、俺の正面の椅子に座った。
「貴広さん?」
「ん?」
「屋敷から出る方法、見付かりましたか?」
「う〜ん、残念ながらまだ見付かってない」
「がんばって下さいね。私もできるだけ協力しますから」
「うん。ありがとう」
麦茶に口をつける。麦茶は麦茶の味しかしない。当たり前だが。
「ところで、御主人はいつ帰ってくるの?」
「ごめんなさい。わからないんです」
「わからない?」
「はい。聞いてないんです」
「……………」
腕を組んで考え込みながら、横目で秋子ちゃんを見ると、すまなそうに小さくなって椅子に座っていた。
「じゃあ、どこに出かけてるの?」
「……………」
「秋子ちゃん?」
「……ごめんなさい。聞いてないんです」
「……………」
御主人は秋子ちゃんに何も言わずに出かけてしまったのだろうか。無責任というか、薄情というか。
麦茶を一口飲む。ふと思い付いた事をそのまま口にする。
「そういえば、食べ物はどうしてるの?」
「地下に倉庫があって、そこに貯えてあるんです」
「なるほど」
「行ってみますか?」
「いや、いいよ」
あまり期待はしていなかったが、やっぱり屋敷から出る方法には結びつかない。
「貴広さん、これからどうしますか?」
「う〜ん、どうしよう」
「私、そろそろ仕事をしなくちゃならないんですけど。部屋のお掃除とか、お夕食の支度とか……」
「あ、そうか」
「屋敷の中にいても結構ですけど、動き回らないで下さい。御主人様の書斎とか、お客様を入れてはいけない場所もありますから」
「じゃあ、外に出てるよ。外の風に当たっていれば、何かいいアイディアが浮かぶかも知れないし」
「そうですか。何か用事があったら、仕事中でも遠慮なく言って下さい」
「わかった」
秋子ちゃんを残して外に出る。相変わらず空は晴れていて、相変わらず風は吹いていた。外に出てもする事はないので、さっきまで座っていた椅子に座る。
降り注ぐ陽射しの優しさも流れていく風の心地よさも、何も変わらない。まるで時間が止まっているような。
いっそ時間が止まってしまえばいいのに。そうすれば原爆は落ちないし、死ぬ事もない。ここでずっと秋子ちゃんと二人きりというのも楽しいかも知れない。
ふと見ると、塀に沿って木が植えてある。なんていう木かは知らないが、結構な高さがある。てっぺんまで登ってみれば塀を越えられるかも知れない。
椅子を立って歩いていく。しかしすぐに無理だとわかった。木と塀の間に距離があって、とても越えられる物ではない。
「やれやれ……」
ため息をついた。しかし塀を越える事はできなくても、塀の向こうを見る事はできるかも知れない。
森の中の木ではないので、下枝がかなり下まで生えている。登るのに支障はない。木登りなんて十年以上やっていないが、まあ何とかなるだろう。
木の幹を芋虫みたいに這い上がっていく。簡単にてっぺんまでたどり着いた。木の下だと心地よかった風も、高い所だと少し強過ぎるように感じる。
眼下に広島の街並みが広がっている。五十年前の景色。原爆が落ち、建物が吹き飛ばされ、人は生きたまま皮膚を焼かれ、廃墟の上に死の灰が降り注ぐ、直前の景色。
良く目を凝らしてみると、破壊される前の原爆ドームが見える。当時は別の名で呼ばれていたはずだが、いくら考えてみても思い出せない。五十年後の世界では、原爆ドーム以前の名前で呼ばれる事はほとんどない。
きっとあの夏の陽射しが降り注ぐ景色の中に、二十万人を超える人が暮らしているのだろう。泣きながら、あるいは笑いながら、戦時下の日常を、いつものように過ごしているのだろう。明日になれば我が身に降りかかる運命も知らずに。
二十万人の人間が死ぬ。目の前に広がる街が、景色が、そしてそこに暮らす人々の生活が破壊される。
その事を知っていても少しも実感できなかった。教科書で何度も教えられてきた、「広島に原爆が落ち、二十万人の人が死ぬ」という言葉には納得してきた。しかしいざ実際の五十年前の広島を眼前に突き付けられ、「明日、この景色が消えてなくなるんだよ」と言われても、とても信じられない。「嘘だ。そんなはずはない」と鼻先で笑い飛ばす事は簡単にできるのだが。
「……そういえば、腹が減ってきたな」
難しい事を考えたせいだろうか、空腹を感じる。腕時計を見てみる。液晶は十一時五十九分と表示している。あれ? この屋敷で目を覚ました時、確か秋子ちゃんは昼過ぎだと言っていたはずだが。
「た、貴広さん!」
声に振り返ってみると、秋子ちゃんが木の下で血相を変えてこっちを見上げていた。
「早く降りて下さい! 危ないです!」
「大丈夫だって。秋子ちゃんもこっちに来ない? ……あ、スカートじゃ無理か」
「お願いですから、とにかく早く降りて下さい!」
「大げさだなあ。大丈夫だって言ってるのに」
でもとりあえず、木から降りようと身体を動かした。その時、急に強い風が吹き、身体のバランスが崩れた。
悲鳴を聞いたような聞かないような。その悲鳴は秋子ちゃんの声だったような俺の声だったような、それとも二人の声だったような。
気付いた時には重力に引かれて枝と葉の間を突き抜け、地面に叩き付けられていた。
「いたたたた……」
「だ、大丈夫ですか?」
「うん、何とか。ごめん。枝が折れちゃった」
「そんな事、気にしないで下さい。怪我はありませんか?」
「多分、ないと思う」
「多分じゃありません! もし取り返しのつかない怪我でもしたら……お医者様をお呼びして……でも門が開かないんじゃ仕方ないし……」
秋子ちゃん、取り乱してる。本当に大丈夫なのに。
「秋子ちゃん、俺なら大丈夫だって」
「そうだ。救急箱取ってきます。待ってて下さい」
「ちょっと待ってよ! 秋子ちゃん!」
身を翻す秋子ちゃん。それを止めようと手を伸ばす俺。少しだけ遅かった。腕を掴むつもりが、手首を掴んでいた。
「……………!」
秋子ちゃんが俺の手を振りほどく。掴まれた手を、もう一方の手でかばうように胸元で握る。
「……………」
「……………」
何となく気まずい思いで、俺と秋子ちゃんは黙り込む。秋子ちゃんは戦時中の人間だ。きっと男に手を握られた事なんて一度もないに違いない。こういう状況で、男はどう弁解すればいいのだろう。
「あの、貴広さん……」
最初に口を開いたのは秋子ちゃんの方だった。
「貴広さんの手って……とても温かいんですね……」
そう言うと、顔を真っ赤にして走り去ってしまった。小さくなっていく背中を、かける言葉もなく見送る。
手持ち無沙汰になって、とりあえずもう一度、腕時計を見る。木から落ちる前と同じ、十一時五十九分を指している。
「……………」
アナログの、長針と短針を持った時計なら、壊れるか電池が切れるかすれば、ある時間を表示したままで止まってしまうだろう。
しかしこの時計は液晶に数字を表示する、デジタルの時計である。表示が消えてしまったり、めちゃくちゃな表示をする事はあったとしても、ある時間を表示したまま止まってしまう事はまずないだろう。
空を見上げてみる。どこまでも青くて青く、原爆が落ちる直前の広島の街並みを抱きしめる空。その抜けるような青さも、全てを抱きしめる優しさも、最初に見た時から何一つ変わらない。そして太陽の位置さえも。
時間が止まっている。そう考えざるを得ない。しかし太陽や時計の動きが止まりながら、どうして自分や秋子ちゃんは動けるのだろう。
恣意的な物を感じる。まるでSF世界のような時間の止まり方だ。誰かが自分の都合のいいように世界を作ったようにしか思えない。抜け出る事のできない箱庭のような屋敷の中で、八月六日の手前で原爆が落ちる事もなく、ただ平和な日々を送る。誰がそれを望み、そしてどうして俺を巻き込んだのだろう。
俺は立ち上がり、歩き出した。まだ身体中が痛むような気がする。しかし、いても立ってもいられない気分で、痛みが治まるまで休んではいられない。時間が止まったこの世界で、それが無意味な事だと知っていても。
庭を横切り、屋敷の中に入る。広間を通り、食堂に着いたが、そこには秋子ちゃんはいなかった。食堂を出て、あちこちを探し回る。
廊下の両側にたくさんのドアが並び、その中の一つが半開きになっていた。部屋の中をのぞき込んでみると、秋子ちゃんがベッドメイクをしていた。
半開きのドアをノックする。秋子ちゃんは俺に気付いて立ち上がり、こっちを向いた。
「……………」
秋子ちゃんは俺の顔を見るなり、顔を赤くしてうつむいてしまった。さっき、偶然とはいえ手を握られて、その時の気まずさを思い出したのだろう。俺も困ってかける言葉をなくしてしまった。結局、秋子ちゃんから先に切り出す。
「あ、あの、貴広さん。何か御用ですか?」
「うん。階段の所に壊れた柱時計があったでしょ? あれを直そうと思って」
「ありがとうございます。でも結構ですよ。お客様にそんな御迷惑はかけられません」
「お客様といったって、勝手に押しかけて迷惑かけてるだけだよ」
「それでも貴広さんは大切なお客様です」
生真面目な表情で秋子ちゃんが言う。それから申し訳なさそうに少しうつむく。
「それに私、まだ仕事が残っていますから」
「すぐ終わるから。お願い」
「本当に……すぐ終わるんですか?」
「うん。すぐ終わる」
「それならいいですけど」
「ありがとう。じゃあ急ごう」
俺が部屋を出ると、秋子ちゃんがすぐ後ろを付いて歩く。しばらくして柱時計の前に着いた。
改めて見ると、柱時計はとても大きかった。振り子を納める部分は、身体を屈めれば秋子ちゃんの身体がすっぽりと納まってしまうだろう。色褪せた文字盤はこの柱時計が刻んできた過去の時間を感じさせる。しかし今は長針と短針の動きを止め、未来の時間を刻む事を拒んでいる。
「貴広さん、何か道具がいるんですか?」
「いや、いらない……と思う」
止め金具を外して、振り子を覆うガラス窓を開ける。肩越しに秋子ちゃんが俺と同じ場所を見つめている。手を伸ばし、軽く振り子に触れた。
凍り付いていた時間が、動き出す。
十二時の鐘が鳴る。長針と短針が重なり、シンデレラにかけられた魔法が解けたように、この世界にかけられた魔法……具体的に誰かが意識的に儀式なり手続きなりを行なっていたかどうかは別として、魔法と表現する事が相応しい、この世界で発生していた様々な現象……が解ける。
止まっていた時間の流れが再開した事により、人間が時間の流れを端的に感じ取る二つの現象である、太陽の運行と時計の動きが再開された。
これまで頭上に輝いていた太陽が地球の裏側に姿を隠し、屋敷全体に夜の帳が訪れる。本来、この世界に流れるべき時間は、昼の十二時ではなく、夜の十二時なのだ。
そして日付も八月五日から八月六日に変わっているはずだ。この世界は、この時間が止まった世界は、永遠に昭和二十八年八月五日午後十一時五十九分五十九秒が続くこの世界は、永遠に昭和二十八年八月六日の訪れない世界だったはずだからだ。
沈んだ太陽の代わりに、月明かりが屋敷の中を照らしている。秋子ちゃんは床に両膝をついていた。
時計を動かす事により、この世界の時間を動かす。この世界が秋子ちゃんが恣意的に作り出した世界なら、彼女が時間の流れを意識する事で時間の流れが再開される。ただの思い付きでとった行動は、どうやら成功したようだった。
「いつ……気が付いたんですか?」
微かに震える声。秋子ちゃんは顔を上げ、俺の事を見上げていた。
「ついさっき。ごめん。もっと早く気付いてあげるべきだった」
もっと早く気付くべきだった。この時の止まった世界で、秋子ちゃんがどれだけの時間を過ごしてきたかは知らない。その長さに比べれば、俺がこの世界に来てから過ぎた時間など微々たる物だろう。それでも、一分でも、一秒でも早く気付いて、時間の流れを再開させるべきだったと思う。
「五十二年前の事です」
よく磨かれた床の上に視線をさ迷わせながら、秋子ちゃんは短い沈黙を破った。
「この新城家で働いていた私に、戦場から父が帰ってきたという報せが届きました」
秋子ちゃんは俺の顔を見て、弱々しい笑みを浮かべ、首を左右に振った。俺は知らず知らずの間に安堵の表情でも浮かべていたのだろうか。
「白木の箱に入って……戦死して帰ってきたんです。沖縄で名誉の戦死を遂げたと聞きました」
沖縄戦は、太平洋戦争最後の、そして恐らく最も苛烈な陸上戦だった。硫黄島を占領した米軍は、次の進行目標を沖縄に定め、日本軍は一億総特攻の先駆けとして、圧倒的な戦力の米軍に対して無謀な抵抗を行なう。昭和二十年四月一日に米軍の沖縄本島上陸が始まり、同年六月二十三日の日本軍降伏までに、二十万人近い日本軍兵士と沖縄県の住民が戦死し、勝利した米軍も一万二千人以上の戦死者を出した。
この時、連合軍艦隊の象徴とも言うべき世界最大の戦艦、大和級一番艦大和は、沖縄戦に参加する途中の四月七日、洋上で米軍の攻撃を受け、撃沈されている。
「それで私はお暇をいただいて、しばらく故郷に帰る事にしたんです。そして故郷にいる間に……」
秋子ちゃんの頭が力なく垂れる。細い肩が震え、形のいい唇の間から嗚咽の声が漏れる。一つ、また一つと涙の粒が零れ落ち、気の床に吸い込まれて消えていく。
そして秋子ちゃんのいない広島に、八月六日が訪れてしまった。原爆が落ち、二十万人の人間がガレキと降り注ぐ死の灰の中で尊い命を落とした。
それくらいの事は言われなくても推測できる。しかし声を殺してすすり泣く秋子ちゃんに、かける言葉を見付ける事はできなかった。
「……急いで広島に戻ってきた私を待っていたのは……地獄絵図ではない……本物の地獄でした」
それでも秋子ちゃんの声は、意外にしっかりしていた。
「わかりますか? 熱風に服を焼かれ、炭化した皮膚をさらした人が、崩れたビルと燃え尽きた家の間を川に向かって歩くんです。『喉が渇いた。水をくれ』って言いながら。
それで川辺にたどり着いて、力尽きて倒れるんです。すると炭化した皮膚が木の皮みたいに剥がれ落ちて、真っ赤な肉が出てくるんです。
そして倒れた場所が、先に川辺にたどり着いて同じように力尽きた人達の上で、そのまた上から、さらにたくさんの人が折り重なって倒れていくんです」
秋子ちゃんの口調は淡々としていた。俺は胃が重たくなるのを感じたが、それでも秋子ちゃんの話から耳を塞ぐ事はできない。時計を動かして時間の流れを再開させたのは俺自身だから、その事に責任をとらなくてはならない。
「そんな人達の間を、変わり果てた街の中を、助けてくれという声から耳を塞ぎ、水をくれと言う声から逃げるようにして、私はこのお屋敷を目指して歩きました。
でもお屋敷は崩れて、見る影もありませんでした。ガレキの山の下に御主人様やおぼっちゃまがいたのかも知れませんが、私の力では探す事はできませんでした。
もしかすると原爆が落ちた時、お屋敷の外にいたのかも知れない。私はそう思って広島中を、生き残った人達の間を探し歩きました。でも私も身体を壊してしまって……」
放射能症。広島にばらまかれた放射能が、恐らく秋子ちゃんの身体をも蝕んでいたのだろう。それだけではない。壊滅した広島は最悪の衛生状態だったろう。そして放射能に汚染された食べ物を口にしながら―それも充分な量ではない―、秋子ちゃんは大切な人達を探し続けたのだろう。
「私も死ぬべきだったんです」
秋子ちゃんは言った。
「私も御主人様やおぼっちゃまと一緒に死ななくちゃならなかったんです。それなのに私一人だけが生き残って……」
秋子ちゃんの言葉は、嗚咽の声に紛れて消えてしまった。ようやく全ての事情と、秋子ちゃんの悲しみのほんの一部を理解できたような気がする。
ここは恐らく、秋子ちゃんの見ている夢のような場所なのだろう。自分自身が死んでしまって、それでもなお待ち続けていたのだろう。永遠に八月六日午前十二時の来ない世界で。大切な人達と八月六日を迎え、一緒に死ぬ日の事を。
他人の全てを理解できた、と口にする事は思い上がりだとしても、秋子ちゃんの悲しみの一端に触れる事ができた今なら、秋子ちゃんのためにかける言葉を見付ける事ができる。そのためにこそ、俺は秋子ちゃんの夢の中に迷い込んだのかも知れない。
「もういいんだ。秋子ちゃん」
秋子ちゃんの正面に膝をつき、肩に手を置いた。涙でぐしゃぐしゃになった顔が俺の顔を見つめる。
「おぼっちゃま……」
秋子ちゃんの口から零れ出た言葉を、俺は小さく笑って受け止める。
「もういいんだ。君はもう、充分に待ったじゃないか」
「で、でも、私……」
秋子ちゃんはうつむく。手を伸ばして髪を撫でてやりながら、俺はここに来た理由の、この健気な少女が待ち続けた言葉を口にした。
「なあ秋子ちゃん、これ以上……これ以上僕を待たせないでくれ」
「おぼっちゃま……」
秋子ちゃんは呆然とした表情で俺の顔を見つめている。しかしその表情が崩れると、両手を伸ばして抱き付いてきた。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
俺の胸に顔を埋めながら、秋子ちゃんは大声を上げて泣きじゃくる。
「ずっと……ずぅっと待ってたんです……一人で寂しくて、寂しくて、仕方がなかったけど……それでも、それでも、ずっと待ってたんです……」
秋子ちゃんが泣きじゃくる声は少しずつ小さくなっていく。その代わり、俺の背中に回った腕の力は少し強くなった。
「もういいんだ。もう待たなくていいんだ」
こう言ってあげるために、きっと俺はここに来たんだろう。俺自身の言葉ではない。秋子ちゃんにとって誰よりも大切な「おぼっちゃま」の言葉。
それでも良かった。原爆という愚行によって失われた物の、ほんの何十万分の一の重さ―しかしこの何十万分の一の、どれほど重たくて尊い事だろう!―を、必死で支えようとしている少女を救う事ができれば。
秋子ちゃんが俺の胸から顔を離した。
「ごめんなさい、貴広さん」
晴れ渡るような笑顔。今は涙で濡れていても、これ以上、新しい涙を流す事はないだろう。
「貴広さんはお客様なのに、私の方がお世話になってしまいましたね」
笑う秋子ちゃんに、俺はハンカチを差し出す。ちょっとしわが寄っていたけど、秋子ちゃんは喜んで受け取ってくれた。
「ねえ秋子ちゃん」
「はい?」
「『おぼっちゃま』の事、本当に好きだったんだね」
「……はい」
涙を拭きながら、秋子ちゃんは力強くうなずく。
「初めてこのお屋敷に来て、初めておぼっちゃまと出会って、その時からずっと好きでした。私は使用人ですから、口にする事はできませんでしたけど」
秋子ちゃんはハンカチを差し出す。
「ありがとうございます。本当は洗って返さなくちゃならないんですけど」
「いや、こっちこそこんなしわくちゃしかなくて」
お互いに小さく笑ってから、秋子ちゃんは立ち上がった。俺も続いて立ち上がる。
「貴広さんとおぼっちゃま、やっぱり似てます」
「え?」
「性格も雰囲気も全然違いますけど……貴広さんもおぼっちゃまも、ただの使用人の私に、そんな事は気にしないで接してくれました」
「……………」
「だから貴広さんも、おぼっちゃまと同じくらい好きです」
「……ありがとう」
それからしばらく、俺と秋子ちゃんは黙り込んだ。次に言葉を切り出したのは秋子ちゃんの方だった。
「私、そろそろ行かなくちゃなりません」
「ああ。今度は……」
「……………」
「今度は『おぼっちゃま』と幸せになれるといいね」
「……はい。ありがとうございます」
ふと辺りを見ると、屋敷は消え、闇だけが俺と秋子ちゃんを包んでいた。そして秋子ちゃんも、少しずつ闇の中に消えていく。
「貴広さん、またどこかで会えるといいですね」
「会えるさ」
「そうですね。きっと会えますよね」
「ああ」
「きっと、いつか……」
きっと、いつか……。
「貴広! 早く起きなさい!」
怒鳴り声で目が覚めた。くっつきかけたまぶたとまぶたの間で、焦点の合わない誰かの顔が見える。
「……なんだ、千秋か」
「何だ、はないでしょ。人がこのあつい陽射しの中、わざわざ起こしてあげようと思って来たのに」
ぷうっと子供っぽく頬を膨らませる。広島に生まれて二十年、毎日のように見続けてきた仕草なので、今さら恐れ入ったりはしない。千秋は黙っていればそれなりに美人なのに、怒ってばかりいるから誰もその事に気付かない。もっとも、千秋を怒らせる原因はいつも俺なのだが。
辺りを見回す。場所は見慣れた自分の部屋。パソコンにテレビゲーム、漫画やら小説の詰まった本棚。この部屋に幽閉されても、退屈せずに飢え死にできるのが自慢である。
両親が留守だから、今は一人暮らし状態である。
「また飲み会だったの?」
「ああ」
ほどほどにしなさいよ。急性アルコール中毒でポックリ死んじゃっても、泣いてあげないわよ」
「ああ」
適当にうなずきながら、水の入ったコップを受け取って口をつける。冷蔵庫のミネラルウォーターではなく、ぬるくてまずい水道水である。本当は気が利くはずなのに、わざとそうしないのが嫌味のつもりらしい。
リモコンに手を伸ばして、テレビをつける。画面の中で、「原爆反対」という集会やらデモ行進が行なわれている。
「……あれ? 今日は何の日だっけ?」
「八月六日、原爆記念日よ」
「あ、そうか」
くそ暑いのに、よくやるなあ。どうせ原爆を持っている国の首相や総理大臣は、今さらそんな事したって恐れ入ったりしないのに。
「今日、お昼からバイトでしょ?」
「面倒だからパス」
「もう。クビになっても知らないわよ」
千秋は立ち上がった。
「私もバイトがあるから、もう行くわよ。サンドイッチ作っといたから、バイト行く気になったら食べてから行きなさい。いいわね?」
言って千秋は部屋を出ていった。窓からは生暖かい風が吹き込み、蝉の声とテレビから流れるアナウンサーの声が混じり合っている。リモコンでテレビのチャンネルを変えてみた。どのチャンネルも「原爆反対」関連のニュースばかりやっている。まあ、夏の広島の風物詩みたいな物だから仕方ないか。
千秋が出ていくと、一人きりの寂しさが身に染みた。寝起きとはいえ、つれない態度だったろうか。何だかんだと言いながら、わざわざ起こしに来てくれて、サンドイッチまで作ってくれたのに。
後で謝っておこう。食事にでも誘って―フランス料理のフルコースは金銭的に無理だから、ファミレスにでも誘って―、「どういう風の吹き回しなの?」と言わせるのも、幼なじみ相手だからできる楽しみである。
相変わらず頭が重い。部屋で寝ていたい気もするが、このくそ暑い部屋にいるのも嫌な気がする。外へ出て、風に当たって来ようか。
立ち上がって伸びをする。シャワーを浴びて、着替えよう。その前に腹も減ってきた。千秋の作ってくれたサンドイッチを一口食べる。
少しからしの利き過ぎたサンドイッチだった。
十二時の待ち人 了
あとがき
ど〜も、wen-liです。
「十二時の待ち人」いかがだったでしょうか。
ToHeartやONEに混ざってオリジナルが一本。
何だか「前に書いた小説だけど、ホームページ作ったついでに載せちゃえ!」って感じですが、実際にそうだから困ったものです。
友達からサウンドノベルツクールを借り、いざ作ってみようと思ったら、背景画が学校と洋館しかなく、それで考えたのがこの小説です。
結局はサウンドノベル化はしませんでしたけど。
オープニングのシーンだけ考えて、思い付くままにストーリーを考えていたら、自分でも知らないうちに反戦小説になってしまいました。
一年前に書いただけあって、文体も今とは結構違う気がしますし、反省点も色々とあります。
誰かイラスト書いてくれないかなあ。
書いてくれないかなあ。
感想お待ちしてます。
でわでわ。
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