この小説はフィクションです。
 実在の人物、団体とは関係がありません。


二人は永遠にひとつ

 深夜、一組の男女を乗せた乗用車が事故に遭った。
 突然飛び出した人影を避けようとしてハンドル操作を誤り、道路脇のガードレールにぶつかったのである。
 助手席に乗っていた相沢恭子はごく軽傷ですんだが、ハンドルを握っていた高宮広志は頭を強く打ち、脳挫傷を起こしていた。
 ここまでは日本中のどこかで毎日のように起きている、ただの交通事故だった。
 この二人がN医科大学付属病院に運び込まれた時から、それは「ただの交通事故」ではすまされない、社会的な事件に発展した。

 私、宮原俊介は、いたずらをして叱られた小学生のような気分を味わっていた。
 原因は私自身にあるわけではない。
 いつもは人当たりのいい叔父、宮原邦彦が、らしくもなく険しい表情でいる事が、その原因だった。
「……例の事件の事は知っているな?」
「はい」
 叔父の問いに、私は間を置かずに答えた。
 今世間を騒がせている事件といえば、あの事件しかない。
 まして叔父はT大学医学部付属病院の教授で、胸部外科の権威である。
 そんな彼が例の事件に興味を示さないはずがない。
 ただひとつ気になるのは、私の父から見れば一番下の弟にあたり、私にとって叔父というよりは兄弟のような彼が、わざわざ自分の興味のために私を自分の職場まで呼び付けたという、その事である。
「……………」
 しかし叔父はため息でもつきそうな雰囲気で押し黙っている。
 今はただこの重い空気を吸いたくない一心で、私は口を開いた。
 本来、しゃべる事は自分の職業ではない。
 しかし誰かの口を開かせるためにしゃべるのなら、それは間違いなく私の職業の重要な一部だ。
「例の事件というと……N医大病院で行なわれた手術の事ですよね?」
「……………」
 黙ったまま、叔父はうなずく。
 交通事故に遭った一組の男女。
 二人はN医科大学付属病院に運び込まれた。
 高宮広志は頭を強く打って脳挫傷を起こし、このままでは脳死状態に陥り、さらに死に至る恐れがあった。
 そして助手席に乗っていた相沢恭子は、幸いにも軽い打撲などの軽傷ですんだ。
 それがN医大病院に運び込まれた時点での二人の容体だった。
 しかし当直医であった土屋光太郎の診察により、相沢恭子は生まれつき心臓が弱く、さらに事故のショックで心臓の機能が著しく低下している事がわかった。
 このままでは心臓が停止し、死に至る可能性があった。
 それまでなら、ごくありふれたただの交通事故だった。
「二人の症状を見比べ、土屋光太郎はひとつの決断を下した。それは……」
「心臓移植」
 叔父は私の言葉を遮るように言った。
「助かる見込みのない高宮広志の心臓を、その機能が停止する前に摘出し、著しく機能が低下した相沢恭子の心臓と移し替える」
 心臓移植。
 世界で初めてこの大手術が行なわれてから、まだ一年にも満たない。
 それを土屋光太郎は日本で初めて実施した。そして成功させた。
 これがたった一週間前の出来事である。
「問題はこの後の事だ」
 叔父は言う。
 世紀の大手術を成功させた土屋光太郎は、当然のようにマスコミで英雄扱いされた。
 しかしマスコミが多弁に土屋光太郎の業績を褒めたたえるのと裏腹に、土屋光太郎本人の口から語られる言葉は、あまりにも少なかった。
 病院に運び込まれた時、本当にドナー(臓器提供者)は本当に助からない状態だったのか。
 同じくレシピエント(臓器移植患者)は、本当に心臓移植が必要だったのか。
 ドナーの家族の承諾は得たのか。
 その後のレシピエントの容体はどうなったのか……。
「あまりにも不透明な事が多過ぎる」
 吐き捨てるように、叔父は言った。
 その言葉を聞いて、私はようやく思い出した。
 胸部外科の権威である叔父は、いずれ日本で初めて心臓移植が行なわれるとしたら、執刀するのは彼以外にあり得ないと言われていたのだ。
 そして今回、このような形で土屋光太郎に先を越され、その心中が複雑でないはずがない。
「……それで私にどんな用事があるんですか?」
「一連の事件について調べてもらいたい」
 叔父の言葉は簡潔極まりなかった。
「それは構いませんけど……どうして私なんですか? 私みたいな素人が手を出すより、叔父さん本人なり、叔父さんの助手なりにやらせればいいじゃないですか」
 私の職業は新聞記者である。
 新聞記者が話題の医師を取材する事自体は自然な事であったが、土屋光太郎はマスコミ嫌いで有名である。
 それよりは同業のよしみで、叔父が直接土屋光太郎に話を聞いた方が良好な結果を期待できるのでは?
「何度も土屋光太郎と連絡を取ろうとしたよ。だけど土屋光太郎はまともに取り合ってくれないんだ」
「だけど叔父さん……」
 私は力のない言葉で抵抗を試みる。
 大体、土屋光太郎が私にだけ口を開く理由なんてどこにも……。
「いや、お前ならうまくいくかも知れん」
 叔父は言った。
「お前が高校生の頃、よく話してたじゃないか。土屋光太郎という名前の親友の事を」
 叔父の言葉に、私は苦虫を噛み潰した表情をするしかなかった。

 叔父は高校時代の私と土屋光太郎の関係について、誤った認識をしているようだ。
 親友とか悪友とかいう言葉ではなく、せいぜいいい聞き手と話し手という言葉くらいしか私達二人の関係を表現できる言葉はないだろう。
 高校時代の私は県下でも有数の進学校に通いながらろくに勉強しなかったために、常に最下位に近い成績だったが、土屋光太郎は学年でも指折りの優等生だった。
 しかし彼は指折りの優等生であると同時に、指折りに性格が悪い男だった。
 一人であれ集団であれ、とにかくはしゃいだりするのが嫌いで、他人がはしゃいでいるのを見ると水を差したがるような男だった。
 さらに彼は弁舌が達者で、いつも正論を並べて相手を打ち負かし、私が知る限り彼が議論や口喧嘩の類で負けたという話を聞いた事がなかった。
 そしていつも正論を口にする彼は、当然のように周りの人間から嫌われていた。
 また周囲から距離を置いている彼に好意を抱く女生徒もいたようだが、彼は恋愛には興味がなかったらしく、卒業までの三年間に最後までそのような話を聞かなかった。
 彼女の初めてか何度目かの恋が片思いに終わった事は、恐らく彼女にとって幸運な事だっただろう。
 そんな彼と私が親友同士だと叔父に誤解される関係になったのは、土屋光太郎の話に耳を傾けるようなおかしな人間は、私の他に誰もいなかったからである。
 教室の自分の席でぼんやりと外を眺めたり本を読んだりしている私を見付けては、彼は遠慮という言葉を知らないように、政治や経済、社会問題、時には最近の小説や映画などに関する文句や不満を話していた。
 彼はとにかく誉めるのが苦手で、私の記憶している最大の賛辞は「その点については誉めてもいいかも知れないな」であった。
 それでも彼は間違った事や筋道の通らない事は絶対に言わなかったし、私にとっては色々と興味深い事を話してくれた。
 彼が一方的に意見を言い、私はごくたまに口をはさむ。
 二人でどこかに出かけたりする事はもちろんなかったし、高校生らしく好きな女の子の事とか将来の夢について語り合う事もなかった。
 私の記憶の中の土屋光太郎は、いつも私の前の席で身体を横向きにして、不満そうな表情で吐き捨てるように言葉を並べていた。
 思い出すと、ふいに土屋光太郎に会いたくなった。
 あの頃の土屋光太郎がどのように変わったのか。
 医学の道を進んだ理由、そして心臓移植という大手術に臨んだ心境……。
 私は叔父の頼みを承諾した。
 叔父の頼みという理由以上に、自分自身の興味と好奇心が、土屋光太郎との再会を望んでいた。
 翌日、私は自分の勤めている新聞社の編集長に話を持ちかけた。
 自分は土屋光太郎と親友同士だったから、マスコミ嫌いの彼でも取材に応じてくれるかも知れない、と。
 編集長は一も二もなく快諾し、私はすぐに電話で土屋光太郎に取材を申し入れた。
 ダメでもともとのつもりだったが、意外にも土屋光太郎の返事はOKだった。
 そして三日後の土屋光太郎との再会を、私は恋人に会いに行くような気持ちで待ち望む事になった。

 いよいよ土屋光太郎に会いに行く、という日の朝になって、私はひとつの情報……といっても講読している新聞に載っているだけだったが……を手に入れた。
 ドナーの両親が土屋光太郎を訴える準備を進めているという事だった。
 どうやら土屋光太郎はドナーの両親の同意なしに移植に踏み切ったらしい。
 それだけでなく、ドナーの高宮広志とレシピエントの相沢恭子は恋人同士だった。
 しかし二人はお互いの両親の公認の仲ではなかったらしく、付き合う、付き合わないで、両親と毎日のように口論していたらしい。
 そんな時に息子が事故死し、その心臓が憎い相沢恭子に移植されたとしたら……両親にとって面白いはずがない。
 これも忘れずに土屋光太郎に取材しなくてはならない。
 心に留めて、私は土屋光太郎の待つN医大病院に向かった。
「やあ、よく来てくれたね」
 N医大病院の門をくぐった私を、土屋光太郎が出迎えた。
 陽だまりの教室で、社会や周囲の人間の愚痴ばかりを零していた土屋光太郎。
 最後に会ってから十年近く経っているのに、あの頃の皮肉っぽい笑みは何も変わっていない。
 ただひとつ変わったのは、詰め襟の学制服ではなく、医者らしい白衣を着ている事だけだった。
 お互いの近況などを話し合いながら、私は土屋光太郎に案内されて病院の中を歩く。
 応接室に入り、ソファに向かい合って座ったのを合図にするように、私と土屋光太郎は新聞記者とその取材を受ける医者になった。
「まずは二人が病院に運び込まれてきた時の容体について説明して下さい」
「ドナーである高宮広志とレシピエントの相沢恭子が当病院に運び込まれてきたのは深夜十二時を少し回った時でした」
 ドナーが臓器を提供する側、レシピエントがドナーの心臓を移植される側。
 私にとってはまだ耳に馴染まない言葉だ。
「ドナーの高宮広志は頭を強く打ち、脳挫傷を起こしていました。
 脳浮腫を防ぐための薬剤治療、人工呼吸を行ないましたが、意識を取り戻す兆候は確認できませんでした」
「……相沢恭子の方はどのような容体でしたか?」
「相沢恭子は高宮広志とは違い、外傷は数ヶ所の軽い打撲などの軽傷だけでした。
 ですが我々の呼び掛けに対する反応が鈍い事から、念のために色々な検査を行ないました。
 呼吸と脈拍の低下、心電図の乱れから、相沢恭子は事故以前から心臓に障害を持ち、事故のショックで心臓の機能が著しく低下しているものと診察しました」
「……念のためにお聞きしますが、ドナーはどんなに手を尽くしても助からない状態でしたか?」
「ええ、もちろんです」
「レシピエントの方は? 心臓移植以外に助ける方法はなかったんですか?」
「もちろん……と言いたいところですが、違います」
「え?」
「心臓移植を行なわなくても、一命を取り留める可能性はありました。
 ですがもし仮に一命を取り留めたとしても、心臓は事故以前の機能を取り戻す事なく、少しずつ脈動が低下していき、遅かれ早かれ死に至る可能性が高く、それよりは心臓移植に踏み切るべきだと考えました」
「……レシピエントは以前からこの病院に通っていたわけではありませんが……短い時間でそれだけの診察が可能なんですか?」
「もちろん可能です。同業者の中には不可能だと言い張る方もいらっしゃるかも知れませんがね」
「……………」
 手術室という密室で行なわれた大手術。
 土屋光太郎の口から出る言葉が一から十まで嘘だったとしても、それを否定する材料は全て当の土屋光太郎が握っている。
 テーブルの上で耳障りな駆動音を上げているテープレコーダーを見るとはなしに見ながら、私は別なアプローチから切り出してみた。
 ドナーの両親が土屋光太郎を訴えているという情報が正しい事を確認し、
「ドナー本人の意思確認は不可能としても……家族の同意は得たのですか?」
「家族にはすぐに連絡を試みましたが、無理でした」
「……家族の同意は得ていない……間違いありませんね?」
「ええ」
「家族の同意なしに移植するなんて、ちょっと問題じゃないですか?」
「確かに問題がないとは言えませんが……ですが心臓はデリケートな臓器です。
 時間を浪費してドナーとレシピエントの健康状態が悪化すれば、その分だけ移植の成功確率が下がってしまいます。
 家族の同意が得られればそれに越した事はありませんが……それでも私は自分の決断を後悔していません」
 土屋光太郎は口元に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
 高校時代の彼が、よく私にそうして見せていたように。
「大体、ドナーの両親は自分の息子の死と、その心臓が憎い息子の恋人に移植された事で、冷静さを欠いています。
 確かに辛い気持ちはわかりますが、ひとつの命が助かったんです。
 それなのに私を訴えるという事は、せっかく助かったレシピエントの命を否定してしまう事になります。それは人間として許される事ではありません」
 土屋光太郎の言う事は正論だ。
 正論だからこそ、周りの人間から嫌われるのだ。
 土屋光太郎はそういう人間だ。
 周りから忌避される事を承知で……いや、まるで忌避される事自体が目的のように、正論ばかりを口にする。
 高校時代から、何一つ変わっていない。
「今回の手術の場合、ドナーとなる人間とレシピエントとなる人間が同時に運び込まれましたが、先生は以前から心臓移植を行なう事を考えていたんでしょうか」
「もちろんです。心臓移植を行なわないと助からない患者はたくさんいますし、私自身、そういった患者が亡くなるのを、なす術もなく見ていた経験があります。
 確かに亡くなったドナーには気の毒ですが……。
 尊い命がひとつでも多く助かるなら、心臓移植という新しい技術について研究し、実際に手術を行なう事をためらう理由はありません」
「日本では心臓移植が行なわれるのは初めてでしたが……その事で不安になりませんでしたか?」
「ええ、不安で不安で仕方なかったです」
 笑って、土屋光太郎はさらりと言ってのけた。
「ですがメスを握る限り、それが小さな手術であれ日本初の手術であれ、不安になるのは同じです。
 我々医師は……特に胸部外科は、ほんのささいなミスで患者の命を奪う事になりかねませんから」
 言葉の内容の割に、土屋光太郎は平然とした顔をしている。
 高校時代から、土屋光太郎はそうだった。
 大抵の人は気付かなかっただろうが、私だけは彼の言動と表情には微妙なズレを感じていた。
 口では痛烈な言葉を並べながら、心は別な方向を向いている。
 現在の社会や政治経済を嘲笑しながら、心の中ではそんな自分を嘲笑している。
 そして今も理想的な医師像を演じながら、そんな自分をどこか離れたところから見ているように、私には感じられた。
 そんな土屋光太郎の奇妙なパーソナリティに好奇心を抱いた事が、私が高校時代に土屋光太郎の話を聞き続けた理由のひとつだった。
「それでは次の質問ですが……」
 私が口を開く。
 しゃべり過ぎたのか、土屋光太郎の手がテーブルの上の湯飲みに伸びて、
「相沢恭子の手術後の容体について教えて下さい」
「……………」
 湯飲みの手前で、一瞬だけ手が止まった。
 そして何事もなかったように、湯飲みを口元に運ぶ。
「もちろん良好です。恐らく手術前より健康になっていると思います」
「それなら、どうしてマスコミの前に相沢恭子の姿を公開しないのですか?」
「……………」
「相沢恭子に会わせて下さい」
「……………」
 土屋光太郎はじっと黙り込み、しばらくして……内線に手を伸ばした。

「相沢恭子の容体は完璧だ」
 土屋光太郎は言う。
 言葉遣いは今までの医師と新聞記者の間で交わすためのそれではなく、高校時代と同じ、どこか横柄さを感じさせる言葉に戻っていた。
 私と相沢恭子は病室ではなく、病院の中庭で会う事になった。
 それで土屋光太郎の隣を並んで歩いているのだが……。
「容体が悪くないなら……マスコミにそう公開すればいいじゃないか」
「心配なのは容体じゃない。彼女の精神状態だ」
「……………」
 失念していた。
 彼女はただ単に日本で初めての心臓移植のレシピエントというだけではない。
 同時に恋人を失い、その死んだ恋人の心臓を移植される事で生きているのだ。
 どういう経緯であれ、恋人を犠牲にして自分だけが生き残ったのだ。
 日本で初めての心臓移植以前に、彼女の心中は複雑に違いない。
 私も叔父も、そんな彼女の心中を気にも留めずに、ドナーの脳死判定とかレシピエントの健康状態とか、自分の知的好奇心を満たす事だけを考えていた。
 本当に考えなければならない事……良識ある人間ならまず一番最初に心配する事を棚に上げて。
「ここだ」
 土屋光太郎が言い、ドアを開けた。
 ドアの向こう側は中庭で、なだらかな芝生の広がる地面の上を、春の柔らかな陽気が風に乗ってたゆたっていた。
 ここに相沢恭子がいるのだろうか……。
「彼女だ」
 土屋光太郎が言った。
「彼女が相沢恭子だ」
 土屋光太郎の指が指し示す方向を目で追って……。
 ここから少し離れた桜の木の下に、相沢恭子はいた。
 病院の物らしいパジャマの上に薄手のブラウスを羽織り、優しく微笑んで桜の花びらに手を伸ばしている。
 桜の精?
 柄にもない、そんな言葉を連想していた。
 春の風と桜の香りに彩られた、まるで一枚の絵画のような情景の中に、彼女は佇んでいた。
「宮原」
 土屋光太郎に名前を呼ばれて、私は自分が相沢恭子に見とれている事に気付いた。
 歩きだした土屋光太郎を慌てて追い、隣に並ぶ。
「こんにちは」
 相沢恭子は私に向かってにっこりと笑った。
 美しいと、私は率直に思った。
 今まで女性や芸術品、風景などに美しさを感じた事がなかったわけではない。
 しかし彼女の美しさから受けた衝撃を思えば、それらは一瞬で色褪せてしまった。
 彼女の美しさは外面の美しさに起因する物ではない。
 儚さと強さ。その二つの相反する要素が、彼女の内面に同居しているからだ。
「相沢君、今日は気分が良さそうだね」
「ええ、これも先生のおかげです」
 二人が言葉を交わすのをぼんやりと眺めていると、
「宮原俊介さん……でしたよね? 新聞記者の」
 相沢恭子が話しかけてきた
「え、ええ……」
「土屋先生からお話はうかがっています。私に取材にいらしたんですよね?」
「ええ……」
 情けない事に、私は自分の心臓の高鳴った動悸が気になって、まともに会話ができなかった。
 これではどちらが取材にきた方なのかわからない。
「座りませんか? ほら、そこのベンチで」
「……ええ、そうですね」
 私達三人は近くのベンチに座った。
 相沢恭子を間に挟んで、その左右に私と土屋光太郎が座った。
「あの、宮原さん、どうかなさいましたか?」
「え?」
「なんだか……あんまりお話にならないから」
「いえ、その……恭子さんが思ってたより元気そうだから、驚いているんです」
「当たり前じゃないか」
 そう言ったのは相沢恭子ではなく土屋光太郎だった。
「切れかけの電池のせいで遅れる時計の電池を取り替えるような物だ。今の彼女は、事故以前よりずっと健康になったんだ」
 私が言いたかったのは、そういう意味での「元気」ではなかった。
 しかし本当に確かめたい事を、口にする事は許される事だろうか。
 私はしばらく悩んだ末に、口を開いた。
「恭子さんは十日ほど前に、恋人を亡くされましたよね?」
「ええ」
「それなのに……まだ恋人を亡くされてから日も浅いのに、元気そうだと……」
「そういう事ですか」
 くすっと、相沢恭子は笑った。
 些細な失敗に落ち込んでいる子供を笑う母親のように。
 そして私の手を取り、自分の胸に押し当てた。
「ほら、わかりますか?」
 手のひらから相沢恭子の心臓の鼓動を感じる以上に、自分の心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。
 心臓?
 そうだ。この手のひらに感じる鼓動は、相沢恭子が生まれ持った心臓が生み出す物ではない。
 死んだ相沢恭子の恋人、高宮広志の心臓の鼓動なのだ。
「彼は生きています」
 相沢恭子は言った。
「彼は今、私の中でこうして生きているんです。
 そして私は、彼が私の中にいるおかげで生きていられるんです」
 誇らしげな笑顔。
 儚さの内側に強い意志がある。
「正直、最初は悩みました。彼一人を犠牲にして、私だけが生き残るなんて、彼に申し訳ないって。
 そして彼がいない世界で生きていくくらいなら、いっそ死んでしまおうかって」
 瞳の奥に涙の影が揺らぐ。
 私はようやく気付いた。
 彼女の持つ内面の美しさ。
 儚さと強さの混在した美しさ。
「だけど今はそんな事は考えていませんし、毎日が楽しくて仕方ないんです。
 彼が私の中で、生きろって言ってくれるから、そして私は彼のために生きる事ができるから」
 恋人を失った悲しみから生まれた儚さも、その悲しみを乗り越えた強さも、今は彼女の中にある。
 それが彼女の美しさの正体だった。
「私達は……永遠にひとつになったんです。
 もう誰にも引き離す事なんてできません」
 そう言った彼女の笑顔を、私は生涯忘れる事がないだろう。
 そう思った。

 しばらくして、一人の看護婦が土屋光太郎を呼びにきた。
 なんでも急患らしい。
 土屋光太郎がその場を離れて、私と相沢恭子は二人きりになった。
 心臓移植の事は忘れて、何気ない世間話に撤する。
 しばらく話している内に、私もいつも通りに自分のペースで会話を進められるようになり、相沢恭子自身の事もだんだんとわかってきた。
 よく聴く音楽の事、花が好きで子供の頃は花屋になりたかったという事、まだ短い入院生活だが医師や看護婦以外に話相手がいなくて退屈していた事、そして今日、病院の関係者ではない私と話すのを楽しみに待っていた事……。
 今まで私は相沢恭子という女性を、日本で初めての心臓移植のレシピエントという色眼鏡越しに見ていた。
 しかしこうして世間話をして、相沢恭子という人物がごく普通のどこにでもいる女性である事に気付いた。
 私は彼女の本当の姿を見ようとしていなかった自分を情けなく思うと同時に、彼女の本当の姿に気付いた自分を少しだけ誇らしく思った。
 しかし土屋光太郎は、どうして彼女の姿をマスコミの前に公開しないのだろう。
 そんな疑問が再び頭の中をよぎったが、答えは意外なところからやってきた。
「確か宮原さんは光太郎さんのお友達でしたよね?」
「ええ、まあ……」
 光太郎さん?
 相沢恭子は土屋光太郎の患者である。
 先生、と呼ぶのが普通だし、さっきまでそう呼んでいたはずだが……。
「私、彼にはいつも迷惑かけてばかりです。こんな日本で初めての大手術をしてもらって、その後も落ち込んでいる私を励ましてもらって……」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「はい?」
「恭子さんは先生とは……いえ、土屋とは知り合いだったんですか?」
「ええ、そうです」
 相沢恭子は笑って言う。
 そしてなんでもない事のように……いや、実際彼女にとってはなんでもない事だったのだろう、そのままの笑顔で、とんでもない一言を付け加えた。
「私と彼、許婚なんです」

 相沢恭子と別れた後、私はすぐに土屋光太郎の姿を探した。
 まだ手術の途中だと看護婦に言われたため、自宅と勤務先の電話番号を伝えて、新聞社に戻った。
 いくらかの資料や記事の整理をし、すっかり暗くなってから自宅に帰ると、すぐに電話のベルが鳴った。
 電話に出た私の耳に、苦笑混じりの土屋光太郎の抗議の言葉が飛び込んできた。
 なんでも新聞社に電話をかけたら帰ったばかりだと言われ、自宅に電話をかければ留守だったらしい。
 しかし私の方にはそんな話を聞いている余裕はなかった。
 適当に土屋光太郎の声を聞き流し、本題を切り出した。
「相沢恭子から聞いたよ」
『何を?』
「君と相沢恭子が許婚だという事だよ!」
『……………』
 考え込んでいるのか、受話器の向こうの土屋光太郎が沈黙した。
 そして事もなげに、彼は言った。
『……ああ、その事か』
「その事か、じゃない! 君は事の重大さを理解していないのか!」
 土屋光太郎と相沢恭子が許婚だった。
 これがマスコミに知れたりしたら大変な事になる。
 土屋光太郎は自分の婚約者の恋人、高宮広志の存在が邪魔だった。
 高宮広志がいる限り、自分の婚約者は自分の物にならない。
 たまたま事故で二人を見て、土屋光太郎は一計を案じた。
 脳死状態で助からないと高宮広志を診断した事にして殺害、心臓を摘出し、相沢恭子の心臓に移し替える。
 かくして土屋光太郎は邪魔な高宮広志を抹殺し、事故以前より健康になった相沢恭子を自分の物にする……。
 スクープに貪欲な事、ハイエナ以上の日本のマスコミの事だ……いや、この表現はハイエナにとって失礼にあたるだろう……これくらいの想像、というよりは妄想は働かせるだろう。
 どう見ても肉体的に健康で、精神的にも立ち直った相沢恭子。
 土屋光太郎が彼女の姿をマスコミに公開しなかったのは、そのためだった。
『確かに僕と相沢恭子は許婚だよ』
 土屋光太郎は言った。
『ついでに言うと、僕が医学の道を、それも胸部外科という道を選んだのも、彼女にあったのがきっかけだ』
「それじゃあ……」
『おいおい、勘違いするなよ。婚約は僕達の両親が勝手に決めた事で、僕達の意志じゃない。僕も相沢恭子も、お互いに恋愛感情を持った事はないよ』
 相沢恭子も同じように言っていた。
 しかしその事を信じる人間はどれくらいいるだろうか。
 いや、ほとんどいないだろう。
 特にマスコミという組織に属する人間は、競って話を醜悪な方向にねじ曲げていく事だろう。
 その事を、私は土屋光太郎に告げた。
『そうか……やっぱりそうなるだろうな……じゃあどうすればいい? このまま隠し通した方がいいと思うか?』
「いや、それは逆効果になる。できるだけ早く公表してしまった方がいい」
 この事をマスコミに知られ、好き勝手な想像と一緒に発表されれば、その好き勝手な想像が一人歩きを始めてしまう。
 それよりは先手を打って全てをマスコミの前で発表し、その時に好き勝手な想像を封じる発言をしておくべきだろう。
 私はさらに二、三の注意を付け加えると、土屋光太郎は感嘆の声を洩らした。
『なるほど……参考にさせてもらうよ』
「ああ、うまくいく事を祈っているよ」
 考えてみれば、一応はマスコミの人間である私がマスコミ対策の方法を教えているのだから、これほど奇妙な話はない。
『ああ、そうだ、君にひとつ、謝らなくちゃいけない事がある』
「え? なんだい?」
『君と相沢恭子を引き合わせた理由だよ。君がこの事を知ったらどんな反応をするか確かめたかったんだ。
 君が大騒ぎするようなら隠し通そう、逆に騒がないようなら、発表しても大騒ぎにならないだろうってね』
「……………」
『じゃあ俊介、今日はありがとう。また会う機会があるといいな』
 最後にそう言って土屋光太郎は電話を切った。
 どうやら私は土屋光太郎にハメられていたようだ。
 心地よく苦笑しつつ、私も受話器を置いた。

 翌日、私は叔父の病院を訪ねた。
 渋い表情で私を出迎えた叔父だったが、私が昨日の取材の成果、土屋光太郎の言葉、相沢恭子の様子などの説明を始めると、真剣な表情で私の説明に聞き入った。
 昨晩の土屋光太郎との電話でのやり取りの事を話し終えると、叔父は深いため息をついてしばらく黙り込んだ。
「……そうか……土屋光太郎はそんな事を言っていたのか……」
 叔父はそれだけを言い、またしばらく黙り込んだ。
 そして意を決したように重い口を開く。
「俊介……お前にだけは話しておこうか。実はこのT大付属病院でも、心臓移植を実施しようと思った事があった」
「えっ?」
「今から三ヵ月くらい前の事だ。工事現場で起きた事故で怪我をし、うちの病院に担ぎ込まれた患者が脳死状態に陥った。もう助からない。これ以上手を尽くしても、いずれ死に至るのは確実だった。
 絶望しかけた時、一人の患者の顔を思い出したんだ」
 一度口を開くと、叔父は饒舌だった。
「半年くらい前に入院し、拡張型心筋症と診断された大学生だ。
 可哀相なもんだ。人生これからという時なのにな。
 彼はほとんど寝たきりの毎日で、私が病室を訪ねると、決まってこう言うんだ。
 『先生、僕はいつ退院できるんですか?』ってね。
 そしてしばらく話をしていると、力なく笑って言うんだ。
 『先生、僕、仲間と劇団やってるんです。仲間に迷惑かけたくないから、早く退院したいんです。そうだ、舞台に立てるようになったら、先生も見に来て下さい』ってね」
「……………」
「彼は夢を持っていた。舞台に立ちたいという夢だ。患者の病気を治し、彼らの夢を叶えられるようにするのが医者の仕事じゃないか?
 少なくとも私はそう思って医者になった。しかし現実の私は無力だった。彼を助ける方法を知らなかった。たったひとつの方法を除いて……」
「……心臓移植、ですね?」
「ああ、そうだ。心臓移植以外、彼を助ける方法はなかった。
 そして私はそれを実行に移すべく、病院の一室に待たせたドナー候補の両親に会いに行った。
 『もう手は尽くしたが、あなたの息子さんは助からない、この病院に健康な心臓を必要としている患者がいる、彼に息子さんの心臓を分けてくれないか?』
 その言葉を胸の中で繰り返して。
 しかし……」
 叔父は首を左右に振った。
「しかし言えなかった。私が部屋のドアを開けるなり、ドナー候補の両親は私にすがりついてきて、
 『先生、なんとか息子を助けてやって下さい、お願いします』
 必死に……涙目でそう言うんだ。
 『あなたの息子さんは助からない』
 そんな言葉を、言えるはずはなかった。
 私はただうなずくしかなかった。
 『わかりました、できる限りの事はします』
 そう言うのがやっとだったよ」
 叔父は深くため息をついた。
 まさか叔父が相沢恭子の心臓移植以前に心臓移植を考えていたなんて。
 信じられない思いで、私は力なくうなだれる叔父を見ていた。
「時計の電池を取り替えるような物だ」
 そう言った土屋光太郎の顔を、私は思い出した。
 叔父が飛び越えられず、直前で踏み止まった一線を、土屋光太郎は平気な顔で飛び越えていたのだ。
「それで叔父さん、その二人は……」
「ドナー候補はすぐに亡くなった。そしてレシピエント候補は生きている。ほとんど寝たきりの毎日で、舞台に立つ日を夢見ながら。あと……もって一年の命だろうがね。
 私は今でも悩んでいる。あの時、移植を取り止めた事は正しかったのか。無理にでもドナー候補の両親を説得し、移植に踏み切って成功していれば彼は今頃は舞台に立っているかも知れない。失敗していれば寝たきりの生活どころか、この世にいないだろう。
 私が移植を取り止め、患者の未来を短い寝たきり生活に限定してしまった事は、医者として正しかったのか……」
 叔父が知りたかったのは、そういう事だったのか。
 移植を取り止めた自分と、移植に踏み切った土屋光太郎。
 両者の間にある違い、自分の判断の正否、そして土屋光太郎の判断の正否。
「あと一年……あと一年の命なら、その間待てばいいじゃないですか。ドナーが現われるのを。ドナーが現われて、心臓移植を行なう日を。
 土屋光太郎は相沢恭子の心臓移植を成功させたんです。叔父さんだってきっとうまくいきますよ」
「成功?」
 叔父が言った。顔を上げ、私をにらみ付けて。
「成功かどうか、まだ決まったわけじゃない」
「叔父さん、何を言うんですか。私が会ってきた相沢恭子は……」
「臓器移植の難しさは、手術の技術的難しさにあるわけじゃない。本当に難しいのはその先にあるんだ!」

 叔父の言葉はすぐに現実の物になった。
 相沢恭子は私の取材を受けた数日後に体調を崩し、しばらく生死の境をさ迷い、手術から三ヵ月に届かないある日、この世から旅立った。
 人間の身体には、外部から侵入した細菌などの異物を排除する、免疫機能が備わっている。
 それが移植された心臓までも異物だと判断し、排除しようとする。
 これが拒絶反応だ。
 免疫反応により心臓が停止するのを防ぐため、医師は免疫抑制剤を使って免疫反応を抑制する。
 しかし今度は感染症にかかる恐れが出てくる。
 免疫反応を抑制すれば、これまで免疫機能で排除されてきた細菌が排除できなくなり、健康な人間には発症し得ない病気になる。
 これはエイズウィルスのために免疫機能を破壊されたエイズ患者と同じ状態である。
 相沢恭子はこの拒絶反応による心臓の機能低下と感染症の双方に苦しめられ、ついに死に至ったのだろう。
 叔父の指摘した危険性がこれだった。
 どれほど移植手術が精緻に行なわれても、ドナーとレシピエントの移植の適性、そして免疫反応と感染症の対策がなければ、患者は手術後に命を落とす事になる。
 相沢恭子の不法の報せを聞いた私は、すぐに土屋光太郎に連絡を取ろうとした。
 しかし相沢恭子の件で忙しいのか、連絡は取れない。
 向こうから連絡が来るまで待つしかないか、と諦めかけた時、今度は土屋光太郎が自殺したという記事が新聞に載った。
 遺書を残す事もなく、自宅で首を吊ったらしい。
 当然のように新聞には、「相沢恭子の死に責任を感じての自殺では?」との憶測が掲載された。
 しかし私には信じられなかった。
 あの不遜で自身の塊のような土屋光太郎が自殺?
 誰かに恨まれて殺されるならともかく、あの土屋光太郎が自分の失敗を悔いて自殺するなど、私には信じられなかった。
 しかし理由はともかく自殺したのは事実である。
 私が釈然としない思いを抱えて日々を送っていると、一通の封書が私あてに送られてきた。
 差出人を見ると、今は亡き土屋光太郎の名前が書かれていた。
 私は慌ててハサミを手に取ると、封を切った。
「親愛なる宮原俊介へ」
 ワープロの字で書かれた言葉は、土屋光太郎らしく形式ばった物だった。
 しかし私に向けられた言葉が故人の物だと思うと、手紙の主の顔が懐かしく思い出される。
「君がこの手紙を読む頃には、私はこの世にはいないだろう。
 きっと新聞では『心臓移植の失敗を悔いての自殺ではないか』、などと書かれている事だろう。
 しかし真相は……きっと君も想像している事だと思うが、真相は違う。
 私が自殺する理由は心臓移植の結果とは考えていないし、そもそもあの心臓移植が失敗だとは考えていない」
 私は食い入るように手紙を読み進む。
 この先に、私が疑問を感じた土屋光太郎の自殺の原因が書いてあるのだろうか。
「まずは何から書こうか……そうだな、最初に僕と相沢恭子が始めて出会った時の事を書こうか。
 僕と相沢恭子が許婚だったというのは知ってるよな? それもお互いの両親が勝手に決めた理不尽な物だというのは。
 僕達が最初に出会ったのは中学生の時だった。
 ある日突然、お前の許婚に会わせるから付いてこいって言うんだ。
 驚くかい? 僕達の両親は、まだ自分の子供が中学生の時に結婚相手を……ひいてはこれからの人生その物を決めようとしたんだ。
 僕はとりあえず両親に付いていった。
 反論はその許婚とやらに会ってからでも遅くないし、僕の前時代的な両親がどんな人を僕の許婚にしたいか、少しだけ興味があったからね。
 そして僕は出会ってしまったんだ。
 相沢恭子と」
 手紙の一枚目はそこで終わっていた。
 一枚目を束の一番最後に送り、二枚目に目を通す。
「今でもはっきりと覚えている。
 海の見える部屋で、彼女はベッドの上に身体を起こしていた。
 彼女は憂いを帯びた瞳で、窓の向こうのカモメを見ていた。
 その瞳が儚くて、切なくて……。
 僕はその時、思ったよ。
 彼女が笑ったら、どんなに素敵だろう。
 彼女の笑顔を見てみたい。
 彼女の笑顔のためなら、僕は死んだっていい!
 そんな風に、本気で思ったんだ。
 僕を少しでも知っている君なら、僕がそんな風に思った事を意外に思うだろう?
 確かに僕だってそれまで一度だってそんな事は思った事はないし、死ぬまでそんな事は思わないだろうと思ってた。
 だけど彼女を一目見た瞬間、僕の全ては変わった。
 僕は彼女のために生まれてきたんだ、こうして彼女と出会うのは運命だったんだ、これまで僕がバカにしてきた考え方が、僕の全てになってしまったんだ。
 だけどね、彼女は僕を見て、少し微笑んで、こう言ったんだ。
『あなたが私の許婚なの? 私達まだ中学生なのにバカみたいだよね、許婚なんて。私は好きになった人と結婚したいのに……あなたもそう思うでしょ?』ってね。
 彼女の何気ない一言はあまりにも残酷だった。
 彼女は何も知らなかったから、僕の思いを知らなかったから、それだけ残酷になれたんだ。
 僕は彼女に、
『そうだね、許婚なんてバカみたいだよね』
 そういつもと同じ冷静な声で……だけど心の中は悲しみに打ちひしがれて、言うしかなかった。
 それが彼女の幸せのためだから……彼女の笑顔のためだから……。
 とにかく僕の初めての……そして最後の恋は、彼女に初めて会った時に始まって、彼女の声を初めて聞いた瞬間に終わったんだ」
 三枚目。私は便箋をめくる。
「あとは……だいたい君の知っている通りだ。
 高校に進学して君と出会い、卒業後は医学部へ。
 そしてアメリカに留学し、最先端の医学を学んだ。
 彼女は生まれつき心臓が弱く、あまり外出できなかった。
 だから笑う時はどこか辛そうに、微笑むように笑うだけだった。
 彼女には本当の意味で笑って欲しかった。
 そのためには心臓を治さなくちゃいけない。
 だから僕は医学の道を……それも胸部外科という道を選んだんだ。
 帰国してN医大付属病院に勤務するようになって、彼女に恋人ができた事を知った。
 相手の男に興味はなかった。
 僕じゃなかったら誰でも同じだし、僕が選ばれない事も知っていた。
 彼女が幸せならそれで良かった。
 僕はただ彼女のために、彼女の心臓を治す方法を研究するだけだ。
 ところがあの日……つい三ヵ月ほど前、彼女とその恋人が病院に担ぎ込まれてきた。
 僕は迷ったよ。
 心臓移植を行なえば彼女は完全に健康になれる。
 しかし拒絶反応と感染症の対策はまだ完全じゃない。
 健康になっても所詮は一時的な物に過ぎない。
 それなら今より心臓が弱くなっても、移植以外の方法を選ぶべきじゃないか?
 ところが問題は恋人の男の方だ。
 彼は……高宮広志はとても助かりそうになかった。
 もし高宮広志が死んだら?
 相沢恭子は絶望するのではないか?
 恋人が死んで……この世界で一人、生きていく希望を見付けられるのだろうか?
 冗談じゃない。そんな事はこの僕が許さない。
 僕は心臓移植を行なった。
 拒絶反応と感染症の対策が完全じゃないとしても、ほんの数か月しか保たないとしても、それでも絶望した彼女を見続けるよりはずっとマシだ。
 彼女を絶望させないためには心臓移植を行なうしかない。
 彼女の中で、高宮広志には生きてもらわなくてはならない。
 高宮広志が生きている限り、高宮広志のためになら、彼女は絶望する事なく生きていける。
 僕が彼女にあげたかった、本当の笑顔を浮かべる事ができる……」
 四枚目。便箋をめくる。
「これが真相だ。
 君の知りたがっていた、全ての真相だ。
 僕は今でも彼女に心臓移植を行なった事を後悔していない。
 彼女の死後、感染症のために衰弱しきった彼女の身体を解剖し、拒絶反応のために通常の四倍近くまで肥大した、もとは高宮広志の心臓を取り出した時だってそうだ。
 もしそこにあるのが高宮広志の心臓でなく、僕自身の心臓だったとしても、僕は彼女のためならためらいなく差し出していただろう。
 彼女の笑顔のためなら……君も取材の時に見た、あの笑顔のためなら……。
 僕が自殺するのは心臓移植を悔いたからじゃない。
 彼女がいないこの世界に、もはや僕が生きていく理由はひとつもないからだ。
 僕の生涯でただ一人、友達と呼べるような存在だった君に、真相を教える。
 この手紙を公表しようが破り捨てようが、君の自由だ。
 全て君の責任で行なってくれ。
 君がどうするかは想像できるが、正直、あまり興味はない。
 もし君がこの手紙を最後まで読んでくれたなら……その事には礼を言わなくてはならないな。

土屋光太郎」

 私は手紙を放り出し、ソファに座り込んだ。
 彼は昔からそういう人間だった。
 口では辛辣な言葉を並べて周りの人間を遠ざけながら、心の中では他人との繋がりを求めていた。
 いや、他人との繋がりを求めれば求めるほど、彼の言葉は辛辣になっていく。
 そして相沢恭子への思いも同じだった。
 彼女を愛する気持ちが真摯であればあるほど、その気持ちは彼女に知られないように、押し隠されていく。
 おそらく相沢恭子は、土屋光太郎の気持ちに最期まで気付かなかったのだろう。
 土屋光太郎がその生涯をかけて愛したにも関わらず、その思いは相沢恭子には伝わらなかった。
 それでも、それでも二人は永遠に……。

二人は永遠にひとつ 了


あとがき

 ど〜も、wen-liです。
 「二人は永遠にひとつ」いかがだったでしょうか。
 この小説では心臓移植をテーマとして扱っていますが、「みんなでドナー登録しましょう!」とかいう意図は全然ありません。
 ただ「小説にしたら面白そうだなー」と思っただけです。
 本当はもっと医学用語をちりばめつつ、現在の医学の問題点にも触れていきたいなと思っていたんですが、参考にした本がそういう点で完璧だったので、できるだけ人間性を中心にしました。
 まあ何をテーマに扱おうが、最終的に恋愛が中心になってしまうのが私の悪い癖なんですけど。
 書きたいように書いたので、読んでいただいた人がきちんと付いてきてくれるかが気になっています。
 今回の反省点かな?

 この小説は1968年に札幌医科大学付属病院で行なわれた日本で最初の心臓移植、いわゆる「和田移植」を参考にしています。
 私が生まれる前の出来事ですが、「事実は小説より奇なり」の見本です。
 もし自分がその当時に居合わせていたらどのように感じていただろうか、などと思いを馳せながら書いてみました。

 あなたがこの小説を読んで、それなりにでも面白いと思っていただける内は……きっと日本の移植医療はその程度なのでしょう。

 感想お待ちしてます。
 でわでわ。


参考文献
 「凍れる心臓」
  出版社:共同通信社
  編著:共同通信社社会部 移植取材班


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