はぷにんぐおぶざ家庭教師

 夕焼けに照らされたアスファルトの上にバイクを停止させた俺、伊藤直也は、視線を上げる。
 大きなお屋敷。
 今時の日本にこんな物があったのかと思わせる、広い芝生の向こう側に大きな洋館が建っていた。
「……ある所にはあるんだなあ」
 ヘルメットを外して、当たり前に小市民的な感想を漏らす。
 ふと気付く。
 いつの間にか、視界の端に一人の少女がいた。
 紺色のロングスカート。
 清潔な白いエプロン。
 庭を掃いていたのか、手には竹のほうきを持っている。
 この家のメイドさんだろうか……?
 少女は俺を見て、にっこりと笑う。
「あ……家庭教師の伊藤直也様ですね? お待ちしておりました」
「………」
 とっさに返事が返せなかった。
 心臓がバクバクと音を立て、頬が熱くなるのを感じる。
 顔色の変化を隠してくれる夕焼けに、何となく感謝した。
「さ、こちらへどうぞ」
「あ、ああ……」
 女の子が中にはいるよう促す。
 俺はバイクのスタンドをかけ、ヘルメットをハンドルにかけると、わずかな手荷物を持って、女の子の後を追って歩き出す。
 その時。
「直也様〜〜〜〜〜っ! お待ちしてましたわ〜〜〜〜〜っ!」
 あまりにも聞き慣れた声に硬直した瞬間、後頭部に強い力が加わる。
 それが美夏ちゃんが飛び付いてきた衝撃だという事に気付いたのは、アスファルトのざらざらした感触を何年かぶりに頬で堪能した後の事だった。
 かくして。
 俺の家庭教師としての第一日目が始まる。

「……そもそも話が上手すぎると思ったんだよなあ」
 家庭教師紹介所の親父の「金持ちの一人娘の可愛い女子高生! もしかすると一攫千金玉の輿! 直也君! これに決めなさい! よし! 決まり! 決まりったら決まり!」攻撃に負けて、半信半疑ながら来てみると……。
 さっきから俺の左腕に、ダッコちゃん人形よろしくぶら下がっている。
 この娘が今日から俺の教え子になる、山中=ローラン美夏。
 本当は十五歳の高校一年生の女の子なのだが、見た目はせいぜい小学校高学年か中学生。
 おまけにどこからともなくトゲ付きの鉄球などの凶器を取り出すという特技を持っている。
 とある事情で知り合いになり、それ以後、美夏ちゃんに追い回される日々を送っていたのだが……。
「はあ……これからは毎夜毎夜、直也様がわたくしの元を訪れていただけるのですね……きっとこれも運命が二人を結び付けようとしているんですわ♪」
「………」
 ちなみに家庭教師は週三日の契約だが。
 それを聞いて、俺と美夏ちゃんと並んで歩いていたメイドさんらしい女の子がくすっと笑う。
「美夏ちゃんったら……直也様。本当は美夏ちゃん、直也様に勉強を教えてもらいたいって、お父様に頼んでたんですよ」
「うわっ、かなちゃん! それは言わない約束ですわっ!」
 それであの家庭教師紹介所の親父……。
「……あ、君、かなちゃんって言うの?」
「あ、はい……本当は可奈子、松川可奈子です」
 縮めて、かなちゃん、というわけか。
 なるほど。
「……ところで美夏ちゃん、家族の人は?」
 親父さんには……あんまり会いたくないけど。
「お父様は……今日は遅くなると思いますわ」
「ふうん、仕事、忙しいんだ」
「いえ、今日は新しいゲームがゲームセンターに入る日ですから。ゲームセンターが閉まる時間までいると思いますわ」
「………」
「えっと、お母様は……あ、そこ。いましたわ」
 見ると、美夏ちゃんそっくりの紅茶色のウェーブヘアの女性が歩いていた。
「お母様〜〜〜〜〜っ!」
 美夏ちゃんが叫んで駆け寄ると、女性はようやく俺達に気付いたようだった。
 不思議そうに小首を傾げて俺を見る。
「お母様。この方がわたくしと将来を誓い合った……むぎゅっ」
「奥様。この方が美夏様の家庭教師に来ていただいた、伊藤直也様です」
 俺が美夏ちゃん口を封じている間に、かなちゃんが正確な報告をする。
「………」
 だけど美夏ちゃんのお母さんは一言も喋らない。
 にこっとひとつ笑った後、頭を下げて去っていった。
 ……あれ?
「美夏ちゃん……あの、美夏ちゃんのお母さんって……」
「ええ。フランス人ですので、日本語はわからないんですわ」
「………」
「ちなみにわたくしもお父様もかなちゃんも、フランス語は話せませんわ」
「……よくそれで日常生活のコミュニケーションが成立するなあ」
「愛があれば何となく言いたい事はわかりますわ♪」
 ……愛があれば、ねえ。
 愛が生まれる前、美夏ちゃんの親父さんとお母さんはどうやって愛を育んだんだろう。
 不思議だ。
「美夏ちゃんのお母さん、若くて美人だなあ」
「そうですわね♪ わたくしに似て♪」
 そう、美夏ちゃんとよく似ている。
 十五歳の娘がいるはずなのに、かなちゃんと同い年くらいにしか見えないところが特に。
 ……実際の年齢より遙かに若々しく見えるのは、美夏ちゃんの母方の血筋なのだろうか?
 だけどもし何かの拍子に美夏ちゃんと付き合う事になって、何かの間違いで美夏ちゃんと結婚して家庭を築くようになったとして……。
 美夏ちゃんが成人女性らしい体型になるのは、自分に年頃の子供ができた頃になるかも知れない。
 いつまでも若々しい妻をもらった事を喜ぶべきなのだろうか?
 それともそれまで「ロリコン」と呼ばれて苦しみ続けなければならないのだろうか?
 そんなどうしようもない事を悩んでいる内に。
 美夏ちゃんの部屋に着いた。

「それじゃあ美夏ちゃん、お勉強がんばって下さいね。後でおやつを持っていきますから」
「わ〜い♪」
「直也様。美夏ちゃんの事、よろしくお願いします」
「ああ、わかったよ」
 俺が答えると、かなちゃんはにっこりと笑い、おじぎをして去っていった。
 その後ろ姿が見えなくなる前に、美夏ちゃんに聞いてみる。
「ところで、かなちゃんっていくつ?」
「わたくしと同い年ですわ」
「ふ〜ん」
「ついでに同学年でクラスメートですわ」
「………」
 全然そうは見えないけど。
 あ、そうだ。
「それなら、かなちゃんも一緒に勉強しようか?」
「え?」
「そうと決まれば善は急げだ。美夏ちゃん、早く呼び止めてきな」
「は、はい……」
 もちろん、単純に俺がかなちゃんと一緒にいたいから、という理由はここだけの秘密だけどな。
 これじゃ美夏ちゃんの事、笑えないな。

 と、いうわけで。
 ぬいぐるみで溢れかえった、イメージ通りの美夏ちゃんの部屋で勉強が始まった。
 まずは俺が用意してきた問題集を美夏ちゃんとかなちゃんにやってもらった。
 その結果。
「すごいな、かなちゃん。全問正解じゃないか」
「あ、はい。ありがとうございます」
「はうう……」
「それにひきかえ、美夏ちゃんは……」
「………」
「はうう……」
 ため息をつく俺と苦笑いを浮かべるかなちゃん。
 そして机に突っ伏して大粒の涙を流す美夏ちゃん。
 まあ、何となくそんな感じじゃないかと思っていたけど。
「これなら、わざわざ家庭教師を頼まなくてもかなちゃんが教えれば良かったんじゃないか?」
「ええ、最初はそうしてたんですけど、美夏ちゃんの覚えが悪くって……」
「はうう……」
「それで美夏ちゃんが『直也様に教えていただかないと、やる気が出ませんわ』って言い出したんですよ」
「はうう……」
「………」
 そういう問題だろうか?
「とりあえず、今の問題集のわからないところを解説していこうか」
「はい、そうですね」
「はうう……」
 美夏ちゃんはまだ泣いていた。

「……というわけで、ここをこれこれこういう風にすると解けるわけだ」
「なるほどなるほど。さすが直也様ですわ♪ わたくしが見込んだだけの事はありますわ♪」
「まあ、俺も高校生の頃に苦労したからなあ」
「というわけでそろそろひと休みにしませんか?」
「美夏ちゃんが自力でこの問題を解けるようになったらな」
「はうう……」
「はい、一人でやってみな」
「え、えっと……こ、こうですか?」
「そうじゃないって。そっちじゃなくてこっちをこうやって……」
「はうう……何が何やらさっぱりちんぷんかんぷんですわ……」
「ほらほら、泣いてないでもう一回最初からやって見ろ」
「はうう……」
 というやり取りが三十分くらい続いて。
「もういいですわ! わたくしは一生この問題が解けなくても構いませんわ! というわけでもう寝ますわ!」
 と、やけくそ気味に叫んだ後、美夏ちゃんは部屋を出て行ってしまった。
「………」
「あらあら。美夏様、怒っちゃいましたね」
 でもかなちゃんはくすくすと笑っている。
「……かなちゃんが教えた時もあんな感じ?」
「そうですね」
 ううむ……今度からどうしよう。
 家庭教師としての役割を果たせないじゃないか。
「……どうする? かなちゃん、まだ勉強する?」
「でも……一応、直也様は美夏様の家庭教師に来ていただいたわけですから」
「む、それもそうか……」
 っていうか、俺が教えなくちゃいけないような事なんて何もないんだけど。
 それじゃあ、今日のところは帰るしかないか。
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 とても残念だけど。
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 非常に心残りだけど。
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 死ぬほど後ろ髪引かれる思いだけど。
「あ、そうだ。ひと休みの時に出そうと思ってたケーキがあるんですけど、一緒に食べませんか?」
「え? いいの?」
「ええ、もちろん。それじゃあ食堂に行きましょうか」
 そうして、俺とかなちゃんは美夏ちゃんの部屋を後にした。

 だけど……。
 かなちゃんはいいなあ。
 どこかの誰かさんと違って、おしとやかで一歩下がった感じが。
 どこかの誰かさんと違って、いきなり跳び蹴りをかましてくるという、衝撃的な出会いじゃなかったし。
 どこかの誰かさんと違って、どこからともなく凶悪なトゲの付いた鉄球とか出さなさそうだし。
 どこかの誰かさんと違って、事情を知らない人に幼女連続誘拐犯と間違われなさそうだし。
 どこかの誰かさんと違って、事情を知ってる人からもロリコン呼ばわりされなさそうだし。
 一緒にいると、心が和んでくるような感じだよなあ。
 春……もしかすると、人生の春が来たのかも知れない。
「さあ、こちらです」
 そんなこんなで台所に着いた。
「………」
 着いたのだが……。
「え〜っと、ケーキは……あったあった」
 異常に広い台所……と言うよりは一流ホテルか何かのような、調理場という感じ。
 流しだって普通の家庭の物より一回り大きな物がいくつもある。
 冷蔵庫だって業務用の、美夏ちゃんが二十人くらい軽く入りそうな巨大な物だ。
 ちょっとした連続殺人犯なら、一生、死体の隠し場所に困らずにすむだろう。
 そしてかなちゃんはその巨大な冷蔵庫の巨大な扉を開けて小さなケーキの箱を取り出し、調理台の上に置いた。
「あ、直也様、そちらの椅子にどうぞ」
「………」
 かなちゃんは俺に椅子を勧めて、自分も適当な椅子に座る。
 まあ、この異常に広大な調理場はある程度、予想していた通りの物だったが……。
 その広大な調理場さえ埋め尽くす、調理器具の数々。
 壁には大小様々の包丁やお玉の数々。
 さらにその包丁の七割以上(推定)が、刃の腹に丸やら星形やらの穴がある、穴あき包丁。
 果物や野菜を輪切りにしても、刃にくっつかないという逸品だ。
 さらにさらに、文化鍋やフライパンや中華鍋を始めとする鍋釜の数々、溢れかえるミキサーやクッキングカッターの類、合わせて百万は軽く越える大軍勢だ。
 ……いや、百万はさすがに大嘘だけど。
 でも買うのに本当に百万円以上かかってるかも。
「………」
「直也様? さっきから黙り込んで、どうしたんですか?」
「あ、いや……」
 よく見ると鍋も包丁も、同じようなデザインで大きさが違う物がセットになっているような……。
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 落ち着け、落ち着くんだ、伊藤直也。
 どこかの誰かさんと違って、いきなり跳び蹴りをかましてきたりしない(はず)、直径三メートルの巨大な鉄球を取り出したりしない(といいな)。
 連れて歩いて、すれ違う人にロリコンと呼ばれたり、道行く人に幼女連続誘拐犯と思われて警察を呼ばれたりもしないんだ!
 だから……だからこんないかにもテレビショッピングで買ったっぽい調理器具の数々にひるんでいちゃいけないんだ!
「何でもない……とにかく何でもないんだ。かなちゃん」
「そんなに強く否定しなくても……あ、わかりました。美夏様がいないから、落ち着かないんですね?」
「………」
 いや、絶対に美夏ちゃんがいる方が落ち着かないけど。
「お飲物、紅茶で構いませんか?」
「あ、うん」
 かなちゃんが椅子を立って、ヤカンを火にかける。
 いいなあ。かなちゃんが台所に立つ姿。
 すらっとした身体がいそいそと動いているのを見ると、思わず後ろから抱き締めたくなるなあ。
 ……いや、しないけど。
 だから、コンロの上のヤカンが、お湯が沸いたらピーッと音が鳴りそうだとか、やっぱりテレビショッピングで買ったっぽい雰囲気が漂ってるとか、そんな些細な事は気にしちゃいけない。
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 気にしない!
 気にしないったら絶対に気にしないんだ!
「はい、どうぞ」
 数分後、かなちゃんは紅茶の入った上品なデザインのティーカップを俺に差し出した。
 ……ヤカンがピーッと鳴ったかどうかは、諸般の事情により割愛させていただく。
 それからかなちゃんはケーキの箱を開ける。
 中から出てきたのは、イチゴケーキにチョコレートケーキ、マロンケーキの三つ。
 俺がチョコレートケーキを、かなちゃんがマロンケーキを選んだ。
 残ったイチゴケーキは二人で分ける事になる。
「美夏様、ケーキを選ぶ時はいつもイチゴケーキなんですよ」
 とは、かなちゃん談。
 箱からケーキを取り出し……イチゴケーキは包丁で二つに切り分けて……それぞれの皿に載せる。
「あ、フォークがいりますね」
 かなちゃんはそう言って椅子を立ち、スタスタとフォークを取りに行った。
「………」
 あれ? 包丁はいつ取りに行ったんだ?
 紅茶を煎れた時にはなかったはずだし……ケーキの箱を開けた時にもなかったような……。
「直也様、フォーク、どうぞ」
「あ、うん……」
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 気にしないったら気にしない!

「ごちそう様でした」
「お粗末様でした」
 俺とかなちゃんが交互に頭を下げる。
 ケーキは美味かった……はずだ。
 落ち着かなくて、味わってる余裕なんかなかったけど。
 ……いろんな意味で。
「直也様、まだ時間は大丈夫でしょうか?」
「あ、うん」
 本来ならまだ美夏ちゃんの勉強を見ている時間だ。
 バイクで来ているから、終電の時間を気にする必要もない。
「それじゃあ、お屋敷の中を散歩しませんか? 案内しますよ?」
「え? いいの?」
「ええ。またこれからも来ていただくんですから、お屋敷の中を知っておいた方がいいでしょう?」
「そうだな……それじゃあお願いしようか」
「はい。かしこまりました」
 やった! まだしばらくかなちゃんと一緒にいられる!
 俺は心の中でガッツポーズした。
「……あの、直也様、どうしたんですか? 急に後ろを振り向いて拳を握りしめたりして」
 しまった、本当にガッツポーズしていた。
 しくしく。

 かなちゃんの少し後ろをついて歩く。
 廊下は天井が高く、アンティークな感じの内装だった。
 ……専門外なのでよく分からないけど。
 最初に美夏ちゃんやかなちゃんと三人でいた時は気付かなかったが、ところどころに高そうな油絵やら壺やら皿やらが飾ってある。
 歩きながら眺めているつもりだったのが、自分でも知らない内に足を止めてしまったらしく、かなちゃんが振り返って立ち止まっていた。
「直也様、そういうの、興味あるんですか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「実は私、そういうの全然分からないんです。おかしいでしょ? 自分でお掃除してるのに」
 くすくすとかなちゃんは笑う。
 あははははと、俺も力無く笑う。
「やっぱりその……あれなのかな? この小さな壺も何十万とかするのかな?」
「そうですね。でもここにあるのはみんな複製で、本物は倉庫に保管してあるそうですよ」
「な〜んだ。やっぱりそうか。そんな高い物、並べて置くわけないか」
 そう思うといきなり気楽になって、思わず手にとって眺めてみたりして。
「でも旦那様の事だから、複製の方を倉庫に保管して、本物を並べてるかも知れませんね」
「………」
「何せ旦那様ですから。このお屋敷ではそれくらいの事は日常茶飯事です」
「………」
 手に取っていた壺を、丁寧に、ゆっくりと、慎重に、元の場所に戻す。
 もしこの壺を落として割ってしまった日には何を要求されるか分かったものじゃない。
 恐るべし、美夏ちゃんの親父さん。
 そうしてしばらく歩いている内に、ホールに面した階段に出た。
 階段を下りていくかなちゃんの後ろを歩いて、通り過ぎる寸前に気付いた。
「柱時計……」
 大きな柱時計があった。かなり古い物のようだ。茶色く色褪せた文字盤。ガラス越しに振り子があり……それは動いていなかった。
「壊れているんですよ」
 立ち止まった俺に気付いて、かなちゃんが振り返る。
 確かに色褪せた文字盤にしがみついた短針と長針は、それぞれ十二の目盛りの、一歩手前で止まっている。
「俺……もしかしてこの時計を動かさなくちゃいけないのかな?」
「え? どうしてですか?」
「……そうだよなあ。直さなくてもいいんだよなあ」
 ほっとひと安心。
「ところでこの時計、古い物なの?」
「ええ。昭和初期の物だそうです」
「………」
「この時計を直さないのには理由があって……」
「………」
「十二時が来ないように……美夏様が十二時になっても自動的に眠ってしまわないように……」
 結局そういうオチかい。

「あら?」
 急に声を上げて、かなちゃんが立ち止まる。
 和気あいあいと世間話に花を咲かせながら、トイレやお風呂といった実用的な場所から応接室や美夏ちゃんの親父さんの書斎などの、一生立ち寄りそうもない場所まで見て歩き、屋敷の異常なまでの広大さをたっぷりと堪能した後の事だった。
「困りました……どうしましょう」
「どうしたの? 俺にできる事なら……」
「道に迷ってしまいました」
「………」
 あ、ゴメン。さすがにそれは俺にはどうしようもないかも。
「何せこのお屋敷、私が行った事のあるのは全体の十分の一くらいで、普段使ってるのは二十分の一くらいですから」
「………」
 何でそんなに無意味に広いんだ?
「……まあ、そんなに広いんじゃ迷っても仕方がないか」
「ええ……って、迷った私が納得しちゃいけないんですけど」
 ぺろっと小さく舌を出すかなちゃん。
 あ、今の仕草、めちゃくちゃ可愛い。
「立ち止まっていても仕方ないし、とりあえず歩こうか」
「はい。そうですね」
 そして俺達はまた歩き始める。
 歩き始めてすぐ、かなちゃんが話しかけてきた。
「あの、直也様、本当に申し訳ありません。私が道に迷ったばっかりに余計な時間を取らせてしまって……」
「いいよ、気にしてないから」
「本当ですか?」
「うん」
「……ありがとうございます」
 小さく頭を下げるかなちゃん。
 あ、でももう少し長くかなちゃんと一緒にいれるなら、道に迷うのも悪くないかも。
 などと不埒な事を考えてしまう伊藤直也であった。

「……これは驚きましたね」
「ああ、そうだな」
「まさかお屋敷にこんな所があるなんて……」
 さっきまでは綺麗に掃除された廊下を歩いていたのだが、今は違う。
 床には薄くほこりが積もり、壁と天井の間で蜘蛛の巣が張っていたりする。
 配線は生きているのか、天井の蛍光灯も点いてはいるのだが、ところどころ消えているのもあるし、明滅を繰り返す物もあった。
 しかも一歩前に進む度に、足下からぎしっぎしっというBGMが付いてきている。
「なんか、こう……出てきそうな雰囲気だよなあ」
「やだ、直也様、脅かさないで下さいよ」
「あ、ごめんごめん」
 言葉で謝って見せても、ちょっと恨めしそうなかなちゃんの表情が可愛くて、思わず口許が緩んでしまう、いけない伊藤直也であった。
 その時。
「あ」
「きゃっ」
 俺達二人はそれぞれ短く声を上げて足を止めた。
 今まで頼りなく廊下を照らしていた蛍光灯が、一斉に消えてしまったのである。
 それでも月明かりが窓越しに差し込むので、歩くだけなら問題ないだろう。
「う〜む、停電か、それとも配線が切れたか……にしてもグッドタイミングだよなあ」
「は、はい」
 何だかかなちゃんの返事にも元気がない。
 俺が再び歩き出そうとすると、かなちゃんに呼び止められた。
「あ、あの、直也様……その……あんまり離れないで……もらえますか?」
「あ、うん。ごめん」
 ちょっと歩くペースを落とす。
 かなちゃんはおどおどと辺りを見回しながら、俺の斜め後ろを半歩だけ離れて付いてくる。
 ……………。
 なんかこう……。
 おどおどしているかなちゃんを見ていると……。
「かなちゃん、もしかして暗いのって苦手?」
「そういうわけじゃないんですけど……本気で何か出てきそうな雰囲気じゃないですか」
 確かに……下手なお化け屋敷顔負けだよなあ。
「何か出てきそうって……何が出てくるの?」
「え、えっと……その……お化けとか……」
 う……。
 かなちゃん、可愛すぎ!
 凶悪に(?)可愛すぎ!
 思わずいじめたくなるじゃないか!
 などとやっていると。
「きゃあああああっっっっっ!」
 うわっ!
 いきなり悲鳴を上げて、かなちゃんが俺の腕に抱き付いてきた。
「い、今、何か足下に!」
「かなちゃん、落ち着いて。ただのネズミだよ、ネズミ」
「ネズミ……ですか?」
「ああ」
 俺が指さす方向を、かなちゃんが目で追う。
 そこにいるのは一匹のネズミ。
 かなちゃんの悲鳴に驚いたのか、キョトンとした目でこちらを見ている。
「なんだ。ネズミだったんですか……本当にびっくりしました」
 かなちゃんはほっと胸を撫で下ろしている。
 いや、俺もびっくりしたけど。
 今も動機が収まらない心臓を左手で押さえてるし。
「あ……」
 かなちゃんが短く声を上げて身じろぎする。
 ようやく自分が俺の腕にしがみついている事に気付いたようだ。
 離れようと身体を動かして……途中でやめた。
「あの……もう少しこのままで……いて構いませんか?」
「う、うん……かなちゃんがそうしたいなら……」
「はい……それじゃお言葉に甘えて……」
 そう言ってかなちゃんは一層、身体を押し付けてくる。
 あ、手にひんやりとした感触が……。
 きっとかなちゃんの手が俺の手を握っているんだろう。
 しかも腕に押し付けられた、この包み込むような柔らかい感触は……も、もしかして……。
「……おかげで……ちょっと落ち着いてきました……」
「………」
 そう言うかなちゃんだけど、その月明かりに照らされた顔は赤く染まっていて……その……なんて言うか……。
 あ、やばい。
 余計にドキドキしてきた。
 かなちゃんに知られたらカッコ悪いな、とか思いながら、左手で胸を押さえる。
「……こうしていると……美夏様がどうして直也様の事を好きになったのか、少し分かるような気がします……」
「………」
 い、痛い……痛すぎる!
 俺はきりきりと痛む胸を左手で押さえ付けた。

 こうしてどれだけの時間が過ぎただろう?
 瞬きほどの時間のようにも、夜が明けるほどの時間のようにも思えた。
 とにかく俺とかなちゃんの静かな時間を打ち破ったのは、木の板を破るような音と、「ぎゃっ」という男の短い悲鳴だった。
「……な、なんでしょう? 今の音……」
「さあ……とにかく行ってみるか」
「は、はい」
 俺とかなちゃんは慎重に、一歩一歩確かめるように歩いていく。
 角を曲がってすぐのところに、そいつはいた。
 どうやら腐っていたか何かした床を踏み抜いてしまったらしい。
 しかしそんな事はこの際、重要な事ではない。
 頭から大きな白い布を被り、右手には釣り竿……しかもアルコールを染み込ませているらしい脱脂綿を釣っている……を持っている。
 そして右手には小動物を閉じ込めるための金属製のかご。
 その中ではいたいけな小さなネズミが、こちらを見上げている。
 近寄って白い布をはぐと、その下からはまるで美夏ちゃんの親父さんみたいな中年の親父さんが出てきて、まるで美夏ちゃんの親父さんみたいな声で、まるで美夏ちゃんの親父さんみたいな事を言い出した。
「いやあ……直也殿が来ると聞いたので、趣向を凝らしてみたんだけど……」
「………」
「………」
 俺とかなちゃんに白い目で睨み付けられる中、そいつはさらに言う。
「……気に入ってもらえたかな? 直也殿?」
「もうちょっと普通に出迎えられんのかあああああっっっっっ!」
 そして。
 静かなはずの山中家の一角に、俺が美夏ちゃんの親父さんみたいな奴を、息の続く限り蹴り続ける音だけが響いた。
 めでたしめでたし。

 それから数時間後。
 山中家の門の前に、バイクにまたがった俺の姿と、かなちゃんの姿とがあった。
「遅くなりましたし、いっそ泊まっていってはいかがですか?」
 という涙の出るほどありがたいかなちゃんの申し出だったが、「美夏ちゃんの親父さんとひとつ屋根の下で過ごすなんて、きっぱりはっきり死ぬほどイヤだ」というごくごく常識的で万人が納得するであろう理由で、涙を飲んで断る事にした。
「直也様、運転に気を付けて下さいね」
「ああ」
「それと……今日は旦那様が大変失礼な事をしてしまいましたけど……気を悪くしないで……その……また来ていただけますか?」
「ああ。もちろん」
「良かった……きっと美夏様も楽しみにしてますよ」
「………」
 今日は途中でふて寝しちゃったけど。
 ところで……。
 かなちゃんは楽しみにしてくれないのかな?
 聞いてみようか?
 でも聞いてみるのが怖いような……。
「あ、もちろん私も楽しみにしてますから」
「……ああ……俺も今度また来る日が待ち遠しくなってきたよ」
「ふふっ、またケーキを買っておきますから。今度は三人で食べましょうね」
「そうだな」
 じゃあ、と短く言ってアクセルをふかすと、バイクはエンジンの鼓動を響かせながら走り出した。
 門の前で大きく手を振るかなちゃんの姿が小さくなっていく……。

 バイクは曲がりくねった山道を降りていく。
 左手には湖があり、夜空に輝く大きな月をおぼろげに写し出していた。
 そっか……。
 もし美夏ちゃんと結婚したら、俺がかなちゃんの「旦那様」になるんだよなあ。
 そんな不埒な事を考えながら。
 バイクは俺の住む街の灯へと向かって走っている。
 俺が自分のアパートに帰り着く頃。
 また新しい一日が始まる。

はぷにんぐおぶざ家庭教師 了


第三話完結記念座談会

かな「美夏ちゃ〜ん、wen-liさ〜ん。お茶が入りましたよ〜」
美夏「わ〜い♪」
かな「お茶請けもちゃんと用意しましたから。召し上がって下さい」
美夏「いただきま〜す♪」
wen-li「ああ……何も言わなくてもちゃんとお茶を入れてくれる女の子……どこかの爆走鉄球貧乳大食らい小娘とは大違いだ!」
美夏「wen-liさん……今、何か言いました?」
wen-li「別に美夏ちゃんの事を言ったわけじゃないぞ」
美夏「本当ですの?」
wen-li「自覚があるならさっさと直せ」
美夏「鉄球制裁!」
 げしっ!
wen-li「ぐおおおおおっ! 頭が割れたように痛い!」
かな「……あの……本当に頭が割れてるんですけど……」
wen-li「ううう……どおりで痛いと思った」
かな「私としては、出血がもう五リットルくらいに達しそうな事の方が気になるんですけど」
wen-li「ううう……もうダメだ……バタッ」
かな「あっ、wen-liさん!」
美夏「かなちゃん、放っておきましょう。どうせツバ付けとけば五分くらいで復活しますわ」
かな「あ、それもそうですね」
美夏「かなちゃん! それよりお菓子は!?」
かな「はいはい。まずはポテチとおせんべいと……」

 以下、五分ほどお菓子タイム。

美夏「ああ、食後の緑茶が美味しいですわ〜♪」
wen-li「……何だかしばらく気を失っていて、とっても血が足りねえ気分なんだけど」
美夏「きっと気のせいですわ。あ、おせんべい食べます?」
wen-li「いらん。三途の川で溺れて水をたくさん飲んだせいで、お腹が破裂しそうだから」
美夏「どうせ袋の隅っこにたまった粉しか残ってませんけど」
wen-li「……がっくり」
かな「wen-liさん、気を落とさないで下さい。次回の座談会にはもっとたくさんお菓子を持ってきますから」
wen-li「次回か……(遠い目)……何ヶ月先になるだろうなあ……」
美夏「それはwen-liさん次第ですわ」
wen-li「確かに」
美夏「それはそうとwen-liさん。今回のお話、わたくしはとっても不満ですわ」
wen-li「どうして?」
美夏「だってわたくしの出番が少ないんですもの」
wen-li「まあ、かなちゃん初登場だからなあ……ヒロインの美夏ちゃんが、かなちゃんに譲ってあげたと思えば腹が立たないだろ?」
美夏「む、それもそうですわ」
wen-li「けっして凶暴でお子様な美夏ちゃんよりも、おしとやかで思わず守ってあげたくなるようなかなちゃんの方が人気が出そうだとか、時代はメイドさん萌えだとか、私が常日頃から思っている事とはあまり因果関係は感じられない」
美夏「………」
wen-li「なお、今の発言は企業機密につき、他言無用でオフレコなので要注意」
美夏「………」
かな「あ、あの、美夏ちゃん、落ち着いて」
美夏「かなちゃん、安心して。わたくし、とっても落ち着いておりますわ」
かな「で、でも額に青筋が……」
美夏「きっとwen-liさんの事ですもの。次回の第四話は、わたくしと直也様が熱愛ラブラブ発覚なお話に決まってますわ♪」
wen-li「………」
美夏「ね? wen-liさん?」
wen-li「………」
美夏「……あの、wen-liさん?」
wen-li「次回、か……」
美夏「………」
wen-li「かつてはそんな物を夢見ていた事もあったが……夢を諦める事を覚えるのが、大人への第一歩なんだよなあ、きっと」
美夏「………」
wen-li「というわけで次回の話だけど……」
美夏「天誅うううううぅぅぅぅぅ!!!!!」
wen-li「む、急に辺りが暗くなったような……」

 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 ぷちっ。

かな「………」
美夏「というわけで、諸悪の根元のwen-liさんがトムとジェリーみたいにピラピラになったところで、座談会はお開きですわ。みなさん、ご機嫌よう! また会う日まで!」
かな「みなさんも身体に気を付けて〜」
wen-li「……ピラピラ」(手を振っているのか風で揺れているのかよくわからない)


あとがき

 ど〜も、wen-liです。
 はぷにんぐシリーズ第3話「はぷにんぐおぶざ家庭教師」いかがだったでしょうか。
 今回は第二のヒロイン、松川可奈子ちゃんが初登場ですが、気に入っていただけたでしょうか?
 美夏ちゃんや主人公の伊藤直也ともども、愛してやってくれると作者冥利に尽きるという物です。
 実は美夏ちゃんの親父さんが、無理矢理オチを付けるのに便利だと気付いた今日この頃です。
 地味に美夏ちゃんのお母さんも登場しましたが、山中家には色々と謎が尽きないようです。
 かなちゃんの両親のお話とかもちょこっと書きたいなあとか思いつつ、謎が尽きない山中家から目が離せない!
 とか思ってくれると作者的にはとても助かるのですが。

 というわけで。
 次回、第四話までしばしのお別れ!

 感想お待ちしてます。
 でわでわ。


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