はぷにんぐふろむ落とし物

 八時五分前。
 俺、伊藤直也はホームへ続く階段を全速力で駆け上がっていた。
 頭の上からはまばらになってきた乗降客の足音と、列車の発車を告げるアナウンスが聞こえる。
 階段を昇り切った。
 ホームに停まった列車がドアを開いて乗客を迎え入れている。
 手近なドアに駆け込もうとして、俺より一歩先に列車に乗り込んだ大学生らしい男がポケットから何かを落とした事に気付いた。
 走るスピードを緩め、身体を屈めてそれを拾おうとした時、
「お待ちなさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっっっっっ!!!」
 女の子の悲鳴とも絶叫ともつかない声。
 顔を上げようとした俺の脇腹に、突き刺さるような衝撃が走った。
 俺の身体はそのままホームのコンクリートの上を二転三転してから止まる。
「いててててて……」
 痛む脇腹を手で押さえながら起き上がると、
「い、痛いですわ……」
 俺がさっきまでいた辺りで、女の子が尻餅をついて痛そうな顔をしていた。
 どうやら俺の脇腹に渾身のキックをかました後、着地に失敗して尻餅をついてしまったらしい。
 ……着地できないようなキック、最初からするなよ。
 いや、別に着地できるキックならやっていいわけじゃないけどさ。
 俺の冷たい視線に気付いたのか、女の子は立ち上がってぱたぱたとスカートのほこりを払った後、仁王立ちになって俺に人差し指をつきつけた。
「さあ、その定期入れをお渡しなさい!」
「………」
 女の子は中学生か、もしかすると小学校高学年くらいかも知れない。
 その年齢と比べてみても子供っぽい、ふりふりのドレスを着ている。
 軽くウェーブがかかった紅茶色の髪を水色の大きなリボンでまとめている。
 その髪の色からすると、純粋な日本人じゃないのだろう。
 それでその女の子が俺に人差し指をつきつけて……。
 ええと、なんだっけ。
 ああ、そうだ。定期入れだ。
 定期入れを渡せって……。
 手の中を見る。
 確かに定期入れらしき物を持っていた。
 あのどさくさでよく拾えた物だ。
「さあ、早く!」
 女の子が詰め寄ってくる。
 どうしてお前に渡さなくちゃいけないんだよ、そう叫ぼうとした俺のすぐ横で、列車が発車してしまった。
 ガタンゴトン。
 ガタンゴトン……。
「あああっ! 乗り遅れたっ!!」
 頭を抱えた俺の叫び声が、虚しくホームに響き渡った。

「さあ、その定期入れをお渡しなさい!」
 女の子が再び俺に詰め寄ってきた。
「……君、この定期の持ち主の知り合いなの?」
「………」
 女の子はしばらく困った顔で黙り込んでから、
「これから親しい間柄になる予定ですわ」
 自信満々の笑顔で言った。
「……要するに、今はまだ親しくない間柄なんだな?」
「わかりやすく言うとそういう事ですわ」
「じゃあ、渡さない。駅員に届けてくる」
 そう言い捨てて、俺は足早に歩き始めた。
 女の子はちょこまかと足を動かして俺のすぐ後ろをついてくる。
「どうして渡していただけないのですか?」
 一体、世界中のどこを探せば、持ち主の知り合いでもなんでもない人間に落とし物を渡す理由が見付かるのだろう。
 俺は足早に階段を下りて、改札口へ向かう。
 やっぱり女の子は必死になってついてくる。
 しかし俺がほとんど走っているくらいに足を早めると、女の子は俺のスピードについてこれなくなり、少しずつ距離が開き始めた。
 すぐに改札口に着いた。
 手の開いている駅員を選び、声をかける。
「あのー、すいません、これ、ホームで拾ったんですけど……」
 愛想よくこちらを振り返る駅員に定期入れを渡そうとして……俺は後頭部の辺りに妙な気配を感じた。
「そうはさせませんわぁぁぁぁぁっ!」
 とっさに身体を横にずらす。
 一瞬前まで俺の頭があった空間を影が横切った。
 そして……。
 例の女の子の必殺の飛びげりは不幸な駅員さんの顔面を直撃した。
 そして駅員さんの身体は崩れ落ちるように倒れ、ついでに女の子は頭から硬い床の上に落下した。
「お、お前なあ……」
 周囲の視線が白い。
 何事かと集まってきたギャラリーたちが人垣を作り、床に座り込んだ俺と、痛そうに頭を押さえる女の子を遠巻きに見ていた。
 女の子はきょろきょろと辺りの視線を気にした後、立ち上がって俺に人差し指をつきつけた。
「そこのあなた! いたいけな駅員さんになんてひどい事を!」
「なんで俺のせいなんだよ!」
「あなたがかわさなければ駅員さんは無事でしたわ」
「無茶言うな!」
 なんかもう、何を言っても聞いてくれない気がしてきた。
 俺はまた女の子を無視して歩き始めた。
 今度は改札じゃなくて窓口へ向かう。
「あのー、すいません、これ、ホームで拾ったんですけど……」
 ポケットから例の定期入れを取り出そうとして、俺は急に周囲が暗くなった事に気付いた。
 とっさに後ろに飛びのいて、俺は自分の目の前で駅の窓口が無残に叩き潰されるのを見た。
 例の女の子が自分の身体よりもはるかに大きな、直径3メートルはあろうかという巨大なハンマーで俺ごと窓口を(窓口ごと俺を?)破壊しようとしたからだ。
「……し損じましたわ」
「どこから取り出したんだ、そんなの……」
「やはりどうあってもその定期入れは渡していただけないのですね?」
「それ以前に、俺はお前のせいで列車に乗り遅れたんだぞ」
「まあ、わたくしったら失礼な事を……本当に申し訳ありませんわ」
 急に口調を改めて謝る女の子。
「謝ったからこれで定期入れは渡していただけますわね♪」
「誰が渡すかっ!」
「それなら仕方ありませんわ! 定期入れは力ずくで手に入れさせていただきます!」
「さっきからそうしてるだろ!」
「今度こそこの徹底破壊兵器『かなづち君1号』の餌食にして……」
「………」
「餌食にして……」
 う〜ん、う〜ん、と声を上げて「かなづち君1号」を持ち上げようとする女の子。
 しかし「かなづち君1号」は持ち上がる気配さえ見えない。
「……重くて持ち上がりませんわ」
「っていうか最初にどうやって降り下ろしたんだよ……」
「……と見せかけてスキあり!」
「うおっ!」
 女の子がどこからともなくトゲの付いた鉄球を鎖の先に付けた武器を取り出し、それを俺に向かって投げ付ける!
 俺は勘と反射神経だけでその攻撃をのけぞってかわす。
 しかし体勢が崩れ、その場に尻餅をついてしまった。
 目の前を凶悪な鉄球が通り過ぎていく。
「よく今の攻撃をかわしましたわね! しかしこの次は……」
 やばい!
 もしかして今の俺って大ピン〜チ!
 どうせここで果てるなら、昨日の晩飯は豪勢に回転寿司でも食べにいけば良かった!
「この次は……」
「………」
 ぐるぐる。
「こっ、この次は……」
「………」
 ぐるぐるぐるぐる。
 ぱたん。
 いつまで経っても次の攻撃が来ないので身体を起こしてみると、武器の使い方を間違ったらしく、女の子は鎖で自分の身体をすまきにして、バランスを崩して倒れるところだった。
 ……やっぱり回転寿司は食べなくて正解だったか。

「助けて欲しいか?」
「敵の情けは受けませんわ!」
 身体をすまきにされて(っていうか自分でなって)床の上に転がりながら、女の子は強情に言い返してきた。
「あっそ。誰か親切な人が助けてくれるといいな。じゃあな」
「ああっ! 待って! お願いだから助けて下さいな! お礼はしますわ!」
 女の子がぼろ泣きしながら俺を引き止める。
「うん、なかなか殊勝な心がけじゃないか」
「……悪党」
「ん? 何か言ったかな?」
「い、いえ! 何も言ってませんわ!」
「うん、それでよろしい」
「はうぅぅぅ……」
「それでこの定期入れだけど……」
 女の子のそばにしゃがみ込んで、目の前で例の定期入れをひらひらさせる。
「どうしてこれが欲しいわけ?」
「……あなたにはわかりませんわ」
 そっぽを向いて吐き捨てるように言う女の子。
「そうか。じゃあこのまま人目につかない場所に運んでおこう。夜になる前に誰かに見付けてもらえるといいな」
「あああっっ! 言います、今すぐ言いますぅぅぅっ!」
「よしよし、最初から素直に言えばいいんだよ」
「はあ……」
 女の子はひとつため息をついてから口を開く。
「あれは一ヵ月ほど前の事ですわ。
 わたくしが新しい学校に入学したばかりで、生まれて初めて一人で電車に乗った時でしたわ」
「………」
「切符の買い方がわからなくて困っていたのを、あの方に助けていただきましたの。
 わたくしの代わりに切符を買って、それだけでなくわたくしの手を引いてホームまで案内していただきましたわ。
 あの方が初めてわたくしに声をかけた時の、優しい笑顔が今でも忘れられませんわ」
「その『あの方』っていうのが……」
「はい。その定期入れの持ち主ですわ。
 それからあの方には何度も話しかけようとしましたわ。
 ですが一度助けただけの女の子の事を、あの方は覚えていらっしゃるのか。
 覚えていたとしても、名前も知らない女の子に声をかけられても迷惑に思われるだけではと思うと……」
「………」
「それからずっと、あの方に声をかける機会をうかがっていましたわ。
 そしてつい先ほど、あの方が定期入れを落としましたので、わたくしはそれを拾って届けようと思いましたわ。
 それなのに……」
 ……俺が拾っちゃったってわけ?
 まあなんていうか、この子の事だからもっと特殊な事情があるかと思ったけど、案外ありがちな理由だったんだな。
 一目惚れした相手に近付きたいという気持ちと、それなのに声をかけるのが恐いという気持ち。
 この子も普通の女の子なんだなあ。
 行動はちょっとアレだけど。
「………」
 俺は黙って、鎖をほどいてやった。
「あ、あの……」
 床の上にちょこんと正座して、狐につままれたような顔で俺を見る女の子。
 思ったよりあっさり助けてもらえたんで驚いているんだろう。
「この定期入れは渡せないよ。ちゃんと持ち主に届けなくちゃいけないからね」
「……そうですか」
「だけどその後で、その人に誰かを紹介するのは悪い事じゃないと思うな」
「え? そ、それでは……」
「一緒に行くんだろ? ほら、そんな所に座ってないで」
 俺が差し出した手に、女の子は小さな手を重ねた。
 にっこりと笑って、元気良く返事をする。
「はい! 行きますわ!」

 ついさっき知り合ったばかりの女の子と一緒に電車に乗る。
 表面上はなかなか魅力的なシチュエーションかも知れないが、いくつかの事情のせいでとても心躍らせてはいられなかった。
「わたくし、この駅から先に行くのは初めてですわ」
 いくつかの事情というのは、その女の子がせいぜい歳の離れた妹くらいにしか見えない小さな女の子だという事とか、見た目はフランス人形みたいなのに実際はどこからともなく凶器を取り出して振り回す狂暴な女の子だとか、落とし物を届けにいくという口実の許にその女の子が片思いをしている男に告白するのを手伝わなくちゃいけないとか、まあ実にささいな理由である。
「ちょっと! 聞いてますの!?」
 隣に座った女の子に袖を引っ張られた。
「え? ……あ、ああ、聞いてるよ」
 え〜と、なんだっけ。
 この先の駅は初めてだったんだっけ。
 ……という事はいつもはこの駅で降りるって事か?
 確かこの駅の近くにある学校は……。
「聖ミレニア学園ですわ」
 そう、聖ミレニア学園。
 この辺では有名なミッション系のお嬢様学校だ。
 しかしここで重要なのは女の子がお嬢様学校に通っているという事実ではない。
 聖ミレニア学園は高校と大学だけで、中学校はないのだ。
「あの、どうかなさいましたの?」
「……いや、なんでもない」
 ずっと中学生だと思ってたのに。
 なんだか先入観とか第一印象とかを一撃で粉砕されてちょっぴりショックだったぞ、俺は。
「えっと、あの……そういえば名前をまだ聞いてませんでしたわ」
「俺は伊藤直也」
「わたくしは山中=ローラン美夏ですわ」
「?」
「父は日本人ですけど、母はフランス人ですわ」
 納得。
 つまりハーフという事か。
 なんかそんな感じなんだよな。
 髪の色とか瞳の色とか肌の色とか。
「ところで直也さん、学校は行かなくていいんですの?」
「ああ、一日くらいサボったって平気だよ。なんせ日本の大学生は世界で一番ヒマな人種だからな」
「いい加減ですわね」
「まあね。それより……えっと、美夏ちゃんか。美夏ちゃんこそ学校はいいの? ミレニアってなんか厳しそうだけど」
「そんな事ありませんわ。うちの学校は寄付金さえきちんと納めていれば、大抵の事は許されますわ」
 ……いいのか? それで。
 まあ俺には関係ない事だけど。
「それに父の口癖ですの。よくサボり、よく遊べって」
「……それを言うなら、よく学び、よく遊べ、だろ?」
「いえ、父は確かにそう言ってますわ。それで自分でもいつもサボって会社の人に迷惑をかけてますわ」
 ……大丈夫か、この親子は。
 まあ俺には関係ない事だけど。

 目的の駅に着いた。
 定期入れから、美夏ちゃんの思い人の名前といつも降りている駅はわかった。
 年格好から大学生らしいという事もわかっている。
 この駅の近くには大学はひとつしかないから、通っている大学まではわかる。
 問題はそれから先だ。
「堂々と大学に入ればよろしいのではありませんか? これだけ大きな大学ですもの。一人や二人、部外者が紛れ込んでもわかりませんわ」
「それくらいわかってるよ」
 問題はこの広大なキャンパスの中からどうやって目的の人を探すかである。
 この大学はそれなりのレベルの私立大学だが、教養学部の他に工学部や法学部、文学部などの校舎がひとつのキャンパスに集まっているのである。
 この中からたった一人の人間を探しだすのは大変な事である。
 とりあえずキャンパスに入り込んではみたものの、その先は打つ手なしである。
「しらみ潰しに探してみるというのはいかがでしょう」
「個人的にはすごく嫌だな。疲れそうだし」
「放送で呼び出してもらうというのはいかがでしょう」
「定期入れは渡しておくから帰っていいよって言われたらどうする? 俺達の手で渡さなくちゃここまで来た意味はないんだぞ」
「あ、そうですわね……」
 美夏ちゃんは腕を組んで考え込む。
 それよりも探す範囲を絞り込んだ方がいいかも知れないな。
「美夏ちゃん、その人、どこの学部に通っているかわかるような物を持っていなかったかな」
「え?」
「例えば電車の中で読んでいた教科書とか」
「そんな事言われましても、わたくし、いつも遠くからあの方の事を見つめているだけでしたので♪」
 赤く染めた頬に手を添えて、美夏ちゃんは言う。
 語尾にハートマークが付かないのは、ただ単にシフトJISコードに入っていないからだろう。
「教科書に限らなくてもさあ、何か変わった物とか持ってた事なかった?」
「変わった物というと、トカゲの白焼きとかマムシが入ったお酒の事でしょうか?」
「……そんなもん持って大学に何しに来るんだよ」
「例えですわ、例え」
 そもそも人がたくさんいる駅で巨大なハンマーを振り回す女の子から見れば、大抵の物は普通に見えるだろう。
 美夏ちゃんにこんな事を聞いた俺がバカだった。
 ……それより、なんだか腹が減ってきたな。
 今朝から色々あったせいだろうか。
 ちょっと早いけどお昼にしようか。
 他の大学の学食で食べる機会なんて滅多にないし……。
「ちょっと直也さん」
 美夏ちゃんが俺の服の袖を引っ張る。
「え? 何?」
「あれですわ」
「あれ?」
 美夏ちゃんは俺の服の袖を引っ張る反対側の手で、少し離れた場所を歩く二人連れの大学生を指差していた。
「あの二人がどうかしたの?」
「あの方もあれを持っていた事がありましたわ」
 だからあれって一体……。
「肩にかけている、円い棒みたいな物ですわ」
「あ、そうか!」
 前にテレビで見た事がある。
 大きな紙を丸めて入れる筒だ。
 確かテレビではリゾートホテルの企画書か設計図か何かを入れていたな。
 大学生でそんな物を使っているという事は……。
「わかったぞ、美夏ちゃん。建築科だ」
「は?」
「その人が通っている学科だよ。これで探す範囲はぐっと絞れた」
「それならすぐに見付かりますわね?」
「もちろん! 俺に任せとけって!」
 俺は自分の胸をひとつ叩き、自信満々に言った。

 そして自信満々にそう言った事を後悔した。
「いませんでしたわね〜」
 さすがの美夏ちゃんも少し疲れた声で言う。
 あの後、時間割りを見て、建築科の授業をやっている教室を順番に回った。
 俺はその人の顔を知らないので、美夏ちゃんがドアを少し開けて教室の中を探した。
 一年から三年の教室まで回ったのだが、そのどれにも目的の人はいなかったのだ。
 その中にいないという事は……四年生?
 だとしたら面倒な事になった。
 四年生という事はゼミに配属されて、それぞれの研究室にいるはずだ。
 研究室は数が多いし、普通の教室と違って勝手に中をのぞき込めば、中の人に見付かる確率が高い。
 う〜ん、どうしたものか……。
「あの、直也さん」
「美夏ちゃん、俺は今、考え事をしているんだ。悪いけど後にしてくれよ」
「いましたわ」
「だから後にしてくれって……もう、仕方ないなあ。で? 誰がいたって?」
「わたくしと直也さんが探している方ですわ」
「な、何!?」
 確かにそこにいた。
 美夏ちゃんが指差す先、窓の向こう側の屋上に、彼はいた。
 俺達が探し求めていた、その男は。
 ……いや、俺は顔知らないからよくわからないんだけどね。

 屋上に続くドアの前に着いた。
 このドアの向こうに、俺達が探し続けた人がいる。
 俺と美夏ちゃんの奇妙な探索行も、もうすぐ終わろうとしている。
「美夏ちゃん」
「はい。なんですの?」
「これ」
 俺は定期入れを美夏ちゃんに渡す。
「これは……」
「美夏ちゃんが拾ったって事にしていいから。行っておいで」
 ぽんと背中を叩く。
 美夏ちゃんはにっこりと笑い、
「はいっ!」
 と元気良く返事をした。
 定期入れを大事そうに胸に抱き、神妙な面持ちでドアの前まで歩く。
 ノブに手を伸ばして……。
「やっぱり恥ずかしいですわ! 直也さんが渡して下さいっ!」
 美夏ちゃんは俺に定期入れを押し付ける。
「しょうがないなあ……わかった。美夏ちゃんはここで待ってろよ」
「は、はい……」
 美夏ちゃんの綺麗な紅茶色の髪をひとつ撫でてから、俺はドアを開け、一歩を踏み出した。
 さっきまでいた少し薄暗い校舎の中とは対照的にまぶしいくらい明るい屋上に、彼はいた。
 すらっとした長身と中性的な顔立ち。
 美夏ちゃんが一目惚れしたのも納得できる美男子だった。
 俺が近付いていくと、振り返って怪訝そうな顔で俺を見た。
「え〜と、小山貴夫さんですね?」
「はい、そうですが……」
「これ、あなたのですよね? ホームで拾ったんです」
「そうですか。どうもすみません」
 定期入れを受け取りはしたものの、まだ疑わしそうに俺を見ている。
 普通は大学まで届けに来る奴はいないよな。
「……ところで、ここで何をしてるんですか?」
「僕の卒業研究で、雨水による屋根材の劣化を比較しているんです。ほら、ここに屋根材の小さなサンプルがあるでしょう? これはひとつひとつ塗料に含まれる溌水剤が違って……」
 ……聞くんじゃなかった。
 たっぷり十分ほど話を聞き、一段落したようなので本題を切り出す。
「ところで、あなたに紹介したい人がいるんですけど」
 俺は悪徳なキャッチセールスでもやってるんだろうか。
 よく考えてみなくても「怪しんでください!」と力説しているような台詞である。
「……女の子ですか?」
「そうですね」
「……美人?」
「ええ、まあ」
「今すぐ会いましょう。どこですか?」
 ……いいんだろうか、これで。
 まあいいや。俺が付き合うわけでもないし。
 俺は小山貴夫を連れて、美夏ちゃんの待つ廊下へ続くドアを開けた。
 美夏ちゃんは俺の後ろにいる小山貴夫に気付いた。
 まずはぱっと目を輝かせ、次に赤くなってうつむき、両手を身体の後ろに回してもじもじとする。
 そんな美夏ちゃんの事を、小山貴夫は三十秒ばかりじっくりと眺めた。
「悪いんだけどさあ……」
 そして一言。
「僕、ガキには興味ないんですよね」
 ぴきっ。
 その瞬間、俺は確かに空気が凍り付く音を聞いたような気がした。
 きー。
 ばたん。
 ドアが閉まる音。
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
「あの方を殺してわたくしも死にますわっ!!!」
「美夏ちゃん、頼むから落ち着いてくれ〜〜〜っ!!」
 俺は暴れる美夏ちゃんを羽交い締めにし、引きずるようにして大学を出ていった。

「うぅ……えぐっえぐっ……貴夫様ぁ……」
 暴れていた美夏ちゃんを近くの公園まで引きずってきた。
 とりあえずベンチに座らせてなだめようと思ったら、今度は泣き出してしまった。
「……なあ美夏ちゃん、そろそろ泣きやめよ」
「うぅぅぅ……」
 そもそも美夏ちゃんに付き合わなくちゃいけない義理なんかない気もするが、放っておくのも心配だ。
 しかし事情を知らない人から見れば怪しげな光景かも知れない。
 妹か親戚の女の子の相手をしていたら些細な事で泣かせてしまい、途方に暮れている男……くらいならいいが、誘拐してきた女の子が不安がって泣いてしまい、どうやって静かにさせたらいいか頭を悩ませている誘拐犯……などと思われて警察に通報されたらどうしよう。
 幸い、まだ昼前のせいか人通りが少なくて助かる。
 今の内になんとか黙らせ……もとい、泣きやませるかだが。
 ふと見ると、美夏ちゃんの手が水平に持ち上げられ、少し先のアイスクリーム屋らしい車を指差す。
「……チョコミント」
「………」
 それは俺に買って欲しいという意味だろうか。
 別におごってやる義理なんかないのだが、自分も食べたかったので、俺はベンチを離れてアイスクリームを買いに行った。
 それぞれの手に美夏ちゃんの分のチョコミントと俺の分のラズベリーを持って戻ってくる。
「お待たせ、美夏ちゃん」
「………」
 美夏ちゃんは無言で俺の手から二つのアイスクリームをひったくると、それに交互にかじり付いて素晴らしい勢いで食べてしまった。
「……わたくし、ラズベリーは嫌いですわ」
 なら食べるなよ、俺の分なんだから。
「……えぐっえぐっ」
 美夏ちゃんはまた泣き出してしまった。
 まさかウソ泣きじゃないよな。
「ほら、美夏ちゃん、元気出せよ」
 俺はこんな所で何をやってるんだろう、と思いながら俺は言った。
「はうぅぅぅぅ……」
「男なんて星の数ほどいるんだしさあ」
 このまま美夏ちゃんを置いて行けたらどれほど幸せだろう、と俺は思った。
「……本当にそうでしょうか?」
「そうだよ。美夏ちゃんの魅力をわからない男なんて、こっちからふってやったと思えばいいんだよ」
 そう言いながら、きっぱり美夏ちゃんをふった小山貴夫の事が心の奥底ではうらやましい。
「で、でも……」
「ほら、顔を上げて」
 美夏ちゃんが顔を上げる。
 赤く腫れた目と、頬に伝う涙の跡。
 あんまり泣きやまなかったら、美夏ちゃんを川に投げ捨ててこようか。
 もちろん、おもしを付けるのも忘れてはいけない。
 手を伸ばして溢れてくる涙を拭ってやる。
 すると突然、その手を美夏ちゃんの小さな手に捕まえられてしまった。
「………!」
 反射的に逃げようとするが、手を掴まれているためにできない俺を潤んだ瞳で見つめながら、美夏ちゃんは言った。
「……素敵な方……ですわ♪」
 ……おい、ちょっと待て。

 八時五分前。
 俺、伊藤直也はホームへ続く階段を全速力で駆け上がっていた。
 頭の上からはまばらになってきた乗降客の足音と、列車の発車を告げるアナウンスが聞こえる。
 階段を昇り切った。
 ホームに停まった列車がドアを開いて乗客を迎え入れている。
 手近なドアに駆け込もうとして、俺は足を止めて振り返った。
「……美夏ちゃん」
「はい、なんでしょう♪」
「どうして俺の後をつけてくるの?」
「だってわたくし、なんのきっかけもなく直也様に話しかけるなんて、恥ずかしくてできませんわ♪」
「……それで?」
「だからわたくし、きっかけが訪れるのを待っていますの♪ 例えば直也様が落とした定期入れを拾うとか♪」
「………」
 赤く染めた頬に手を当てて、語尾に音符マークを付けて話す美夏ちゃんにげんなりして、俺は深く深くため息をついた。
 一人自分の世界に浸って幸せな顔をしている美夏ちゃんを無視するように列車に乗り込む。
 明日から定期券を使うのはやめようと、心に決めて。

はぷにんぐふろむ落とし物 了


第一話完結記念座談会

美夏「1億2千万の読者のみなさま、こんにちは! みんなのアイドル、山中=ローラン美夏ですわ!」
wen-li「……1億2千万って一体……このホームページ、まだ8千ヒットもしてないんだけど」
美夏「言葉のアヤですわ……それはそうと、さっさと自己紹介して下さいな」
wen-li「はいはい……えっと、作者のwen-liです」
美夏「それだけですの? ……まあいいですけど。わたくしはこの小説のヒロインの美夏ですわ」
wen-li「ヒロインというよりはボケ役です」
美夏「一言多いですわ! ……だけど今までオリジナルは暗い話ばかりでしたのに、どうしてこの小説はこんなに明るい話ですの?」
wen-li「みんな驚くかなーと思って」
美夏「………」
wen-li「いや、本当はいつも通り思い付いたままに書いただけなんだけどね」
美夏「いい加減ですわね」
wen-li「まあね」
美夏「あなたの生き方そのままですわ」
wen-li「大きなお世話だ!」
美夏「それではいくつか質問しますけど……この小説で苦労なさった点は?」
wen-li「特にないです」
美夏「……二次創作と違ってオリジナルだと自分でキャラクターを作りますけど、その辺はいかがでしょう」
wen-li「なんかありがちな主人公ですよね」
美夏「………」
wen-li「美夏ちゃんの方は……一度、『ですわ!』ってしゃべる女の子を書いてみたかったから」
美夏「それだけですの?」
wen-li「うん。それだけ」
美夏「……それでは次回作のお話を」
wen-li「次はToHeartかな」
美夏「いえ、そうじゃなくてわたくしと直也様が活躍するお話は?」
wen-li「うーん、どうしよう」
美夏「第一話完結記念座談会って書いてますわね?」
wen-li「第一部完とか書いておきながら第二部に続くのは滅多にないし」
美夏「………」
wen-li「気が向いたら書くから」
美夏「個人的にはわたくしと直也様がラブラブなお話を希望ですわ♪」
wen-li「たぶんそれはないでしょう」
美夏「………」
wen-li「今回のエンディングから想像できる通り、美夏が嫌がる直也につきまとうお話になるでしょうね」
美夏「……wen-liさん」
wen-li「ん? どうしたの?」
美夏「えいっ!」
 げしっ!
wen-li「ぐはっ!」
美夏「わたくし愛用の『夜明けの明星七号』ですわ」
wen-li「ぐぅ……まさか小説中で名前を出し忘れた武器を使うとは不覚……ばたっ」
美夏「それではみなさま、『私のほーむぺーじ』ではわたくしの美しいイラストを大募集中ですわ! ごきげんよう!」
wen-li「………(死亡)」


あとがき

 ど〜も、wen-liです。
 「はぷにんぐふろむ落とし物」いかがだったでしょうか。
 ギャグの小説には座談会を書かなきゃいけないという信念があるので書いてみましたが、あとがきもしっかり書きます。
 このホームページのオリジナルの小説としては3本目になりますが、今までの2本が暗めのお話で、万人ウケしないかなあとか思ったので、明るめの話を書いてみました。
 問題は美夏ちゃんが万人ウケするかどうかですが、そういう意味では女の子が2、3人出てくるお話の方が良かったかなあ。
 とりあえずこの子がこのホームページの顔になってくれると嬉しいです。
 美夏ちゃんじゃないけどイラスト大募集中です!

 感想お待ちしてます。
 でわでわ。


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