二人の英雄・外伝「シェリナの旅立ち」

 シェリナの上に広がる空は、澄み渡った青だった。
 不安が半分と、嬉しさが半分と。
 石畳の道を歩くシェリナのそんな気持ちを、嬉しさに引き戻してくれる。
 そんな空の青だった。
 空を見上げて、シェリナはそっと微笑む。
 今日こそはきっと……。

「女将さん、帰りました」
「あら、シェリナちゃん、早かったわね」
 カウンターの向こう側で振り返り、優しい笑顔で迎える、恰幅のいい女性。
 シェリナが世話になっている宿屋の女将だった。
「すまないねえ、シェリナちゃんはお客さんなのに、買い物まで頼んじゃって」
「いいんですよ。女将さんにはお世話になってるし、私も外に出たかった所ですから」
 シェリナは野菜やら果物やらがいっぱい詰まった袋をカウンターに置いた。
「そうかい、そう言ってもらえると助かるねえ」
 レイクウッドの森の戦場から逃げるように離れて、怪我人を抱えてこの宿に転がり込んだシェリナを迎え入れたのがこの女将だった。
 女将が部屋を提供し、医者を呼んでくれたりと面倒を見てくれなければ、シェリナは見知らぬこの街で途方に暮れていたに違いない。
 そう思うと、いくら感謝しても足りないという事はないと思う。
 思うのだが……。
「さ、シェリナちゃんは早く旦那さんの所に行ってあげて」
「旦那じゃありません!」
「あれ? そうだったかい? とにかく彼氏の所へ……」
「彼氏でもありません!」
 ……これさえなければ、と心の底から思うのだが。

 ドアを開けて部屋に入ると、カーテン越しに柔らかな朝日が射し込んでいた。
 ベッドの上で静かに寝息を立てる男の姿。
 鷹獅子騎士団とフィルスーン解放軍が激突し、双方が壊滅するという凄惨を極めたレイクウッドの森での戦いを生き延びた男。
 両軍の死体が埋め尽くす森から逃げるように離れ、丸一日を歩き続けた。
 この街にたどり着くなり、気を失って倒れ、一夜明けた今も目を覚まさない。
「……ラティス」
 その名をつぶやく度に、胸が苦しくなる。
 心配ないと医者が太鼓判を押したのは知っている。
 しかしこのまま目を覚まさないのではないか? という不安は今も拭い去れない。
 しばらく離れている間に、自分の中でラティスの存在がどれほど大きくなっていたかを嫌というほどに意識する。
 だから……。
「早く目を覚ましてくれ、ラティス……」
 目を覚ましたら、その時はきっと……。
「ん……」
 不意にラティスの口から微かな声が漏れた。
 ずっと閉ざされていたまぶたが開く。
「シェリナ……」
「………」
 その声を聞いた瞬間、喉が詰まって何も言えなくなった。
 イスから立ち上がる。
「す、すまない……」
 それだけ口にするのが精一杯で、シェリナは部屋を飛び出した。
 部屋を出てドアに背中を預けたところで、堪えきれなくなった涙が後から後から溢れてくる。
 声を押し殺して、シェリナは静かに涙を流した。

 少し遅い朝食になった。
 シェリナは普通の朝食メニューだが、まだ本調子ではないラティスはスープだけになった。
「なかなかいい味だろ? ここの女将さんは料理が上手だ」
「うん、そうだね」
 ラティスは心の底からうなずいた。
 カラになった胃袋に温かいスープが染み渡っていく。
 考えてみれば、レイクウッドの森の戦い以来、今まで何も口にしていなかったのだ。
「その女将さんにも挨拶しておかないとなあ」
「そうだな。女将さんの手が空いている時にでも来てもらおう」
「うん、そうしてもらえると助かるよ」
 まだ全身のあちこちに包帯を巻いている状態だから、こちらから挨拶に行くのは難しい。
 来てもらうのは失礼かも知れないが、挨拶しない失礼に比べれば軽い事だろう。
「それはそうと、シェリナは怪我ひとつなかったんだね。すごいなあ」
「……………」
 戦いが始まってすぐに落馬して気絶していたから、怪我がなくて当たり前だった。
 そんな事は口が裂けても言えないシェリナだった。
「そんな事より! 食事が終わったらもう少し眠っておけ。まだ疲れが残ってるだろ?」
「ああ、そうするよ」
 再びベッドに潜り込むラティス。
 部屋を出て行きかけたシェリナだったが、立ち止まって振り返る。
「ラティス……これからどうする?」
「……………」
「ラティスが良かったら、私と一緒に……」
「……帰らなくちゃいけないんだ」
 ラティスは言った。
「僕には守りたい人達がいるから」
「……………」
 鷹獅子騎士団のラティスはもういない。
 ここにいるのはフィルスーン解放軍のラティスだ。
 レイクウッドの森の戦いよりずっと前からそうだった。
 それはわかっているつもりだったのに……。

 それから三日間を街で療養に費やし、二日間を歩いて、二人はフィルスーン解放軍の宿営地のある森にたどり着いた。
 森の道を歩いていると、見回りらしい二人の男に出会った。
「誰だ!?」
 見付かるなり、誰何の声をかけられた。
「フォルトさんに取り次いで欲しい。ラティスが帰ってきた、と言えばわかると思う」
「え? ラティス……様? 本当に?」
「見覚えがあるような……あっ! 前に集会の時に……」
「そうだ! 間違いない! 本物のラティス様だ! 生きておられたのですね!?」
「わかったら早く取り次いでもらえないかな?」
「わ、わかりました! 今すぐに!」
 二人は飛び跳ねるように走り去っていく。
「……ラティス、偉くなったんだな」
「え? うん、まあ……」
 苦笑いの表情で、ラティスは鼻の頭をかいた。

 しばらく歩くと、森を抜けて開けた場所に出た。
 報せを聞き付けて集まったであろう、老若男女、様々な人々が二人を出迎えた。
 その中から一人の女性が進み出る。
 ルティーナだった。
 瞳に涙を潤ませて、何も言わず、じっとラティスを見つめている。
 ラティスが静かに歩み寄ると、ルティーナは地面を蹴って抱き付いてきた。
「……ごめん、遅くなった」
「バカ……心配したんだから……」
「でもちゃんと帰ってきただろう?」
「うん……信じてた」
 その後、二人は抱き合ったまま静かに涙を零した。
 二人を見て、シェリナも胸が熱くなって思わず涙ぐむ。
 そしてラティスが少しだけ遠くに行ったような気がして、寂しい気がした。

 三人はまずフィルスーン解放軍のリーダーであるフォルトの所に向かった。
 フォルトは会議や事務などに使う天幕にいた。
 中に入ってきたラティスに気付くなり、フォルトは駆けだしてきた。
「ラティス君! 無事だったんですね! いやあ、良かった良かった!」
 そしてラティスの手を両手で掴んでぶんぶん振り回す。
 普段のんびりとしているフォルトらしくないはしゃぎぶりに、ラティスは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「ラティス君がいれば、軍事関係の仕事はお任せできます。いやあ、良かった良かった」
「ちょっとフォルトさん、喜ぶ理由が間違ってませんか?」
 ルティーナがじと目でにらみ付ける
「いえ、もちろんラティス君が無事だった事の方が嬉しいですよ。本当ですよ?」
「それにラティスはまだ怪我が治ってないんだから。無理させないで下さい」
「わかってますから」
 そして三人はひとしきり笑い合ったが、笑いが収まると、フォルトは真剣な顔になって言った。
「ところでラティス君、最も重要な事を聞いてもいいでしょうか?」
「………」
「アークザットがどうなったかわかりませんか?」
「………」
 この質問自体は予想していたのだろう。
 ラティスは驚きは見せなかった。
 ただしばらく天を仰ぎ、息をついてから言った。
「この先、アークザット将軍が世に出る事はないと思います」
「………」
 不完全な答えに納得しかねるのか、フォルトは何も言わない。
 しかしラティスの心情を思ってか、ひとつ息を吐いて首を左右に振った。
「確かなんですね?」
「はい」
「……ラティス君が言うんだから、きっと間違いないでしょうね」
 そう言って、それ以上アークザットの事を口にする事はなかった。

「……ところでこちらのお嬢さんは?」
 今になってようやくシェリナに気付いたように、フォルトが言った。
「えっ? えっと……私は……」
「見たところ鷹獅子騎士団の鎧を着ているようですが?」
「………」
 今になってようやく気付く。
 フィルスーン解放軍は鷹獅子騎士団と敵対していたのだ。
 彼らにとって、鷹獅子騎士団の人間は親の仇にも等しいかも知れない。
「シェリナは僕の昔の仲間で、命の恩人です。彼女がいなかったら、生きて帰っては来れませんでした。しばらくここに置いてもらえませんか?」
「ラティス……」
 説得を試みるラティスに、シェリナは少し嬉しくなった。
「いや、ラティス君が連れてきた人だし、疑っている訳じゃないんですけどね」
 フォルトはちょっと困った表情で鼻の頭をかく。
「ただ約束して欲しい事があるんですよ。二つだけ」
 そう前置きして言う。
 ひとつは、ここでは鷹獅子騎士団の鎧は脱いでいてもらいたいという事。
 もうひとつは、できるだけラティスかルティーナと一緒にいてもらいたいという事。
「……わかりました。それくらいの事で良ければ」
「お願いします。こちらにも色々と事情がありまして……えっと、お名前は」
「シェリナです」
「えっと、シェリナさん。順番が逆になりましたが、ようこそ、フィルスーン解放軍へ」
「はい、よろしくお願いします」
 フォルトが差し出した手を、シェリナは握り返した。

 二人きりで話したい事があると言われて、ルティーナとシェリナは天幕を追い出された。
 取り立てて用事もなく、自然とぶらぶら歩く事になった。
「……ところでシェリナも戦いに参加してたんだよね?」
「え? ああ、そうだが……」
「ラティスは傷だらけなのに、シェリナは怪我がないみたいだから、そういう事もあるのかなーと思って」
「………」
「もしかしてシェリナってラティスよりも強いとか?」
「………」
 戦いが始まってすぐに落馬して気絶していたから、などとは口が裂けても言えないシェリナだった。
 返事に困っていると、遠くから女の子の声が聞こえてきた。
「お姉ちゃ〜ん!」
「リアナ!」
 女の子は真っ直ぐルティーナの元に駆け寄ると、そのままの勢いで抱き付く。
「ラティスお兄ちゃん、帰ってきたんだよね!? どこにいるの!?」
「ラティスは今、フォルトさんとお話ししてるから会えないわ」
「え〜っ! そんなあ……」
「ほら、泣かないの」
 がっかりするリアナと、慰めるルティーナ。
 微笑ましい二人の様子に思わず頬を緩めるシェリナ。
 ……ラティスは本当にここの人達に愛されている。
 そう思うと、誇らしい気持ちになった。
「お姉ちゃん、この人は?」
 いつの間にかリアナがシェリナを見上げていた。
「この人はラティスのお友達よ」
「シェリナだ。よろしく」
「うん。シェリナお姉ちゃん」
 そしてシェリナはリアナの小さな手を握った。

 少しでも早くラティスお兄ちゃんに会いたい! というリアナの希望を尊重して、三人はフォルトの天幕の前でラティスが出てくるのを待つ事にした。
 三人それぞれに近くの木にもたれたり、座り込んだりしてラティスが出てくるのを待つ。
「ねえねえ、ラティスお兄ちゃん、元気だった?」
「元気だったわよ。怪我はしてるけど」
「お兄ちゃん、怪我してるの? 痛いの?」
「うん、大丈夫そうだったけど……」
「ラティスなら大丈夫だ。あいつは強い。あれくらいの怪我、なんて事ない」
「本当?」
「ああ、だから安心して待っていろ」
「うん!」
 リアナの笑顔が嬉しくて、シェリナはその頭を撫でてやった。
 しかしルティーナを見ると、なにやら浮かない顔をしている。
「……お姉ちゃん、どうしたの? 元気ないの?」
「え? ううん、そんな事ないわ。でも……」
 寂しそうにフォルトの天幕を見つめる。
 その視線の先にはラティスがいる。
 駆け出せばすぐ届く距離に、ラティスはいるのだ。
 しかし天幕に遮られて、その姿は見えないし、声を届ける事もできない。
「せっかく無事に帰ってきたのに……フォルトさんがラティスを必要としているのはわかる。でも、やっぱり……」
「お姉ちゃん……」
 リアナが小さな手をルティーナの手に添える。
 シェリナも胸が締め付けられて、涙をぐっと堪える。
 そして言った。
「なあ、ルティーナにリアナ……もし良かったら、ラティスの事、聞かせてくれないか?」
「え?」
「ほら、私が知っているのは鷹獅子騎士団にいた頃の、ここに来る前のラティスだけだ。もし良かったら、教えてくれないか?」
「いいけど……私からもお願いがあるの」
「お願い?」
「私もリアナもここに来る前のラティスの事は知らないから。教えてくれるわよね?」
「ああ。任せておけ」
 ようやく笑顔が戻った。
 きっと一晩かけても話が尽きる事はないだろう。
 そして記念すべき第一回目は、話が終わって天幕から出てきたラティスが、三人があまりにも仲良く話をしているのに驚いて目を丸くするまで続けられた。

 日も暮れて、ラティスら四人は焚き火を囲んで夕飯を採る事にした。
「うん、なかなかいい味だ」
 野菜がたっぷり入ったスープを一口すすって、シェリナは言った。
「でも私、びっくりしたな。シェリナって思ってたよりずっと料理の手際がいいんだから」
「………」
 ルティーナはそう誉めるが、シェリナの内心は複雑だった。
 ……それはつまり、料理なんかできなさそうに見える、という事だから。
「鷹獅子騎士団ではみんな一通り料理ができるんだ。専門の料理人がいるわけじゃないから」
 ラティスが口を挟む。
「へえ、そうなんだ……って事はラティスも?」
「え? うん、まあ……」
「ラティスは元は猟師だからな。肉を扱わせたらちょっとしたもんだぞ」
「ふ〜ん。それはいい事を聞いちゃった。今度はラティスにも手伝ってもらおっと」
「………」
 ラティスは口をへの字に曲げてシェリナをにらみ付けるが、シェリナは視線を明後日の方に向けてやり過ごす。
 そんな三人を見て笑っていたリアナだったが、不意に口を開く。
「ねえ、シェリナお姉ちゃん」
「ん? 何だ?」
「シェリナお姉ちゃんはずっとここにいるの?」
「え?」
「リアナはずっといて欲しいんだけどなあ」
「………」
 三者三様の視線がシェリナに向けられる。
 だけどシェリナはリアナの無邪気な視線に、何も答える事ができなかった。
 それはいつかシェリナが決断しなければいけないと思っていた事……。

 夜の森は時が止まったように静まり返っていた。
 並んで歩く二人が、地面に降り積もった木の葉を踏む音が空気を優しく震わせる。
 漆黒の夜空に咲いた月だけが、二人を見守っていた。
「……前にもこうして二人で歩いた事があったな」
 シェリナが言った。
「ああ、そうだね」
 ラティスが答える。
 それは二人がまだ鷹獅子騎士団にいた頃、小さな村を反乱軍の手から守る任務に就いている時の事だ。
「あの頃は楽しかったな」
「ああ」
 アークザットら、敬愛すべき人達がいて、その下で肩を並べて戦った日々。
 分かり合えず衝突した事もあった。
 しかし今はそんな事さえ懐かしく思える。
「ラティス、私と一緒に来てくれないか?」
「えっ?」
「私が貴族の出身なのは知っているだろう? 実家から帰ってこいという手紙が来ている。しかし帰れば無理やり結婚させられてしまう」
「………」
「ラティス、一緒に来てくれないか? お前が一緒なら、私は祖父と戦えるような気がするんだ。あの頃のように、お前が一緒なら……」
「……ごめん」
 ラティスが短く拒絶の言葉を発して、シェリナは言葉を途中で止めた。
「僕はここを離れる訳にはいかない。守らなくちゃいけない人がいるから」
「そうか……やっぱりそうだよな」
 答えは最初から分かりきっていた。
 頼りないフィルスーン解放軍を、いや、ルティーナとリアナと、守るべき人を放り出して、行くはずがない。
 鷹獅子騎士団のラティスはもういない。
 ここにいるのはフィルスーン解放軍のラティスだ。
 あの頃にはもう戻れない。
 共に剣を携えて戦ったあの日々には戻れない……。
「……シェリナにはお祖父さんがいるんだっけ?」
「ああ。でも厳しい人だ。孫娘の気持ちや幸せよりも、一族の栄光としきたりを大切にする人だ。私が女だてらに剣の修行をさせられて、鷹獅子騎士団に入団したのも祖父のせいだ」
「……怒らないで聞いて欲しい。それでも羨ましいな」
「え?」
「僕の故郷の村は野盗に襲われて滅びたんだ。家族どころか、隣近所の人だって一人も生き残っていない」
「………」
「詳しくは知らないけど、ルティーナもリアナも似たような物らしい。ここにいる人はみんなそうさ。誰か彼か近しい人を戦争で失っている」
「………」
「会いたくったって、もう二度と会えないんだ」
 ラティスが両手をシェリナの肩に置く。
「帰りなよ、シェリナ。そしてお祖父さんと正面から向き合うといい」
「………」
「それでも分かり合えないのなら、仕方ない。だけど分かり合おうともしないなら、きっと後悔する事になる。それでもいいのかい?」
「ラティス、私は……」
「帰りなよ、シェリナ。僕の分まで、そしてここにいるみんなの分まで、そうして欲しいんだ」
「………」
 頬を熱い感触が伝う。
 いくら拭っても、とめどなく涙は溢れてくる。
「す、すまん、どうしても堪えきれなくて……」
「今は泣けばいいよ」
 そっと抱き寄せられて、シェリナは胸に顔を埋めて涙を流す。
 だけど互いの腕は互いの背中に回る事はなくて……。
 そんな二人を、漆黒の夜空に咲いた月だけが見守っていた。

「もう行っちゃうの?」
「ああ、早い方がいいと思って」
 翌朝。
 突然、シェリナは帰ると言い出して、少ない荷物をまとめると、慌ただしい出立になった。
 見送りに大勢の人が集まるはずもなくて、ラティスとルティーナとリアナの三人だけ。
「リアナの事、嫌いなの? だから行っちゃうの?」
 小さな手で、どこにも行かせないとでもいうように手を握ってくる。
 泣き出しそうな幼い顔を見ていると、こっちまで泣き出したくなってくる。
「嫌いなはずがない。好きだから、長居してると本当に離れられなくなりそうだから、行くんだ」
「わかんないよう。ずっと一緒がいいのに……」
「こら、シェリナお姉ちゃんが困ってるじゃない。わがまま言わないの」
「だって、だって……」
 ついに泣き出してしまうリアナ。
 そんなリアナをあやすルティーナに、シェリナが言う。
「ルティーナには世話になったな」
「ううん、大した事はしてないけど……ずっといてくれてもいいのに」
「すまない。どうしても行かなくちゃいけないんだ」
 シェリナはそっと、ルティーナとリアナをまとめて抱き締める。
 それから立ち上がって、ラティスと向き合う。
 ラティスはただ静かに微笑んでいた。
 シェリナの決意を祝福するように。
「………」
 言葉にならない。
 だけど今になってようやく気付いた事がある。
 ……私は本当に、こいつの事が好きだったんだ。
 ずっと側にいて欲しかった。
 ずっと守ってもらいたかったんだ。
 だけどラティスが選んだのはルティーナで、シェリナではなかった。
「ラティス、真っ直ぐなのはいい事だが、集中しすぎると周りの事が見えなくなる。大切な人が側に寂しい思いをさせるなよ」
「え? ……あ、ああ」
 意味ありげにルティーナがラティスに身体を寄せる。
 そんな二人を見て、シェリナも微笑みを浮かべる。
「なあ、ラティス、またここに来ていいかな?」
「………」
 再会を求めるシェリナの言葉に、ラティスをそっとうなずく。
「その時は歓迎するよ。必ず帰っておいで」
 ラティスの強い言葉に、隣のルティーナもうなずいている。
「私、夢があるの。いつか平和な時代になって、ラティスが戦う必要がなくなったら、三人で静かに暮らしたいなって」
 そしてぎゅっとラティスとリアナの肩を抱く。
「その時までには必ず帰る」
「うん、待ってるから」
 きっとラティスは、アークザットを失ったんじゃない。
 あの黄昏色に燃える夜に、アークザットの元を旅立ったんだ。
 そして今は新しい自分の道を見つけ出し、共に手を取り合って歩き出そうとしている。
「それじゃあ、また」
 シェリナはその場を離れる。
 もはや振り返る事はない。
 ラティスがアークザットの元を旅立ったように、シェリナもまたラティスの許を旅立つ。
 気付くのが遅過ぎた気持ちと、伝えたいが伝えるべきでない言葉を胸に携えて。
 シェリナは新しい自分だけの道を進む。
 今、ここがシェリナの旅立ちの時。

 今日も渡り鳥の湖亭は多くの旅人達で賑わっていた。
 街道沿いの小さな村にあるこの酒場では、いつも通りの平和な日常が繰り返されている。
 そんな中で、こんなやりとりが行われていた。
「……だからどうしてラティスの詩ばかり歌うんだよ。他にもいい詩がいっぱいあるだろ?」
「仕方ないじゃないか。私が好きなんだから。お前はラティスが嫌いなのか?」
「いや、嫌いじゃねえ。むしろ好きなくらいだが……他の詩が聴きたい時だってあるだろ?」
「他の詩が聴きたかったら、他の吟遊詩人に頼めばいい。とにかく、私は他の詩は絶対に歌わないからな!」
「この村には宿はここ一軒しかないし、吟遊詩人はお前一人しかいないのは、周りを見れば一目瞭然じゃないか!」
「だったら詩は諦めて静かに酒を飲んでいろ」
「俺は客だぞ! 金を払っているんだから、客のリクエストには応えろ!」
「そっちが出すのが金なら、こっちが出すのは心だ! 歌いたくもない詩を歌ったところで、詩に込められた想いが伝わる物か!」
 とまあ、こんな具合のやりとりだったが、周りの常連客はそれを聞いて盛り上がっていた。
「あの若いの、この辺じゃ見ない顔だからなあ」
「知らないのも無理はない」
「あの吟遊詩人のお嬢ちゃんは、ラティスの詩以外ほとんど歌わない事で有名なのに」
「お嬢ちゃんも腕は間違いなく一流なんだから、他の詩も歌えばいいのに。よっぽどこだわりがあるんだろうなあ」
 周囲の無責任な盛り上がりに気付くはずもなく、当事者達は当事者達で、事態をエスカレートさせていった。
「大体、ラティスなんてアークザットから見れば裏切り者じゃないか!」
「何だと!?」
「フィルスーン解放軍に入ってからは二回しか戦ってないし、今では行方知れず……あんな奴のどこがいいんだよ!」
「………」
 若い男の言葉に、吟遊詩人は黙り込んだ。
 反論の言葉もないと思って、若い男は勢い込んで言葉を重ねていく……。
「あーっ。あの若いの、とうとう言っちまったよ」
「やれやれ。知らない事とはいえ、命知らずだよなあ」
「お嬢ちゃんが有名なのはラティスの詩しか歌わない事だけじゃない。吟遊詩人にしておくにはもったいないくらい腕っ節が強いんだ」
「あんな事言ってると、命がいくらあっても……」
「ああ、やられちまった」
「一発で終わりか。だらしないなあ」
「いつもの事だけどな。ところでこの間、ヘストンの野郎が……」
 そしていつものように、床に倒れて気絶した不幸な男の事は忘れられて、日常の話題に戻っていく。
 不愉快な客を拳ひとつで沈黙させた吟遊詩人も、自分の酒と食事に戻っていく。
「荒れてるねー。シェリナお姉ちゃん」
 吟遊詩人に明るく声がかけられる。
「んー? ああ、リアナか」
 シェリナが顔を向けると、酒場の給仕が胸にお盆を抱いて立っていた。
「そんなだから、いつまで経っても彼氏の一人もできないんだよ」
「余計なお世話だ。それに彼氏がいないのはリアナも同じじゃないか」
「私はいいもん。お兄ちゃんがいるから」
 二人が初めて出会った時、リアナはまだ小さな女の子だったが、それから数年過ぎて、すっかり年頃の女の子に成長した。
 しかし「お兄ちゃんべったり」は今も変わらず、周囲の男どもや姉をやきもきさせている。
「こらーっ! リアナ! 無駄話してないで、仕事しなさい!」
「はーいっ! ……もうお姉ちゃんったらうるさいんだから。じゃあね、シェリナお姉ちゃん」
 ひらひらと手を振って、リアナは去っていく。
 入れ代わりにルティーナがやってきた。
「もう、リアナったら、目を離したらすぐ話し込むんだから」
「少しくらいいいじゃないか……明るくていい子に育ったわけだし」
「まあそうなんだけどね」
 苦笑するルティーナ。
「シェリナはまだ歌うつもりなの?」
「ん? ああ、今のところ、やめる予定はないな」
 レイクウッドの森の戦いの後、ラティスの名は帝国にとっては仇敵にも等しい物となり、帝国と敵対する勢力にとっては守り神のように語り継がれるようになった。
 しかしその過程で、ラティスの姿は都合のいいように歪められ、実像とかけ離れて一人歩きするようになった。
 シェリナにはそれが許せなかった。
 本当のラティスは英雄と呼ばれるような存在ではない。
 立身出世を望まず、ただ周りの大切な人と、ささやかな幸せを守りたいと願い、憧れの英雄の背中を追いかけた、一人の少年に過ぎないのだ。
 その事を、シェリナと他の何人かの人間だけが知っている。
 自分達だけが知っているラティスの本当の姿を、みんなにも知ってもらいたかった。  大陸全土を渡り歩いてはラティスの詩を歌い、たまに思い出したように渡り鳥の湖亭に帰ってくる。
 そんな風にして年月を重ねてきた。
 ただ一人の吟遊詩人がどれだけ喉を嗄らしたところで、できる事など知れている。
 きっとラティスの真実の姿は、長い歴史の流れの中に埋もれて、消えてしまう事だろう。
 それでもシェリナは歌うのをやめるつもりはない。
「まあ、ほとんど意地でやっているんだけどな」
 シェリナはそう言って笑い、つられてルティーナも苦笑する。
「……そういえば、旦那さんは?」
「あの人? 今、ちょっと買い物に行ってるわ。そろそろ戻ってくると思うけど」
 レイクウッドの森の戦いから数年が過ぎた。
 巨竜騎士団と鷹獅子騎士団を立て続けに失ったエルラザ帝国軍は急速に力を失い、いくつかの反乱軍が勢力を拡大していった。
 しかしエルラザ帝国はいくつかの勢力に分裂して弱体化したものの、滅びる事なく地方勢力として残り、かつて反乱軍と呼ばれていた勢力の中からも大陸全土を掌握するような一大勢力は現れず、それぞれの領土を確保したまま、争いは鎮静化していった。
 巨竜騎士団と鷹獅子騎士団を打ち破ったフィルスーン解放軍も、大半の兵力を失い、別の勢力に吸収され、その名はもうない。
 フィルスーン解放軍のリーダーだったフォルトは、今もその勢力の重鎮の一人として、忙しい忙しいと愚痴をこぼしながら激務をこなしているという。
 たまに小さな戦争は起こるものの、勢力図を塗り替えるような大きな戦争はなく、おおむね平和といえる時代を迎えた。
 そしてそんな時代をもたらしたと誰もが認める人物は、今は軍隊を退き、平和な時代を享受する側にいる。
 ささやかな幸せを守るために、かつて幾多の戦場で戦い続けた彼は、今はささやかな幸せと共に、静かに暮らしている。
 今日も渡り鳥の湖亭には多くの客が訪れ、ささやかな幸せのために祝杯を上げている。
 扉が開いて、酒場の主人が帰ってきた。
 主人の昔の姿を知る者も知らない者も、同じように顔を上げ、笑顔で彼を迎え、彼も笑顔でそれに応える。
 かつて英雄と呼ばれた彼の、そこが居場所だった。

二人の英雄・外伝「シェリナの旅立ち」 了


あとがき

 ど〜も、wen-liです。
 「シェリナの旅立ち」いかがだったでしょうか。
 今度こそ「二人の英雄」シリーズ、完結です。
 構成的には完全に蛇足ですが。
 そもそも「第1部に女の子がいない」というメチャクチャな理由でシェリナを登場させて、まあ個人的には今までにないキャラという事もあって、気に入ってはいたんですが。
 どう幕引きするかで悩みつつ、最終的に外伝1話追加という形になってしまいました。
 本来は第2部第5話をもって完結するべきところでしたが、やっぱりシェリナについては宙ぶらりんなままじゃ可哀想かな、という事で。
 構成的な失敗は完全に作者の不徳の致すところです。
 ちなみにラティスが帰ってこなくて、真っ暗な展開という案もあるにはあったのですが、やっぱり幸せなエンディングの方がいいだろう、という事で。

 何はともあれ、今度こそ「二人の英雄」は完結です。
 執筆期間ばかり長くなってしまいましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
 小説の連載は終わりましたが、戦いを終えたラティス君はみんなと幸せに暮らしている事と思います。
 読んでくれたみなさんもそう思っていてくれていると、作者としてこれ以上の幸せはありません。

 感想お待ちしてます。
 でわでわ。


 ご意見、ご感想は「私にメールを送る」または「私の掲示板」でお願いします。
 トップページに戻る