二人の英雄・外伝「夜明けは未だ遠く」
「ま、待って下さい!」
小さな少年が上げた精一杯の声に、一行は立ち止まった。
わずか五百騎ばかりの、アークザットという男が率いる小部隊。
それが二つに分かれて、先頭を進んでいたアークザットと少年の間に道を作る。
敵兵の返り血に染まったアークザットの凄惨な姿を見上げて、少年は言葉を続ける。
「僕を……僕を連れて行って下さい! 鷹獅子騎士団に入れて下さい!」
「………」
アークザットは黙っている。
無理な願いだと、少年は知っていた。
まだ十歳の子供がエルラザ帝国正規軍の一員に加われるはずがない。
しかし子供心に鮮烈に焼き付いたアークザットへの憧れは、無理な願いを形作って少年の口から飛び出したのだ。
「………」
「………」
アークザットも少年も、そして鷹獅子騎士団の面々も沈黙を守っている。
静かな森の中で、アークザットの口許が弛んで微笑を浮かべるのを、少年は確かに見た。
「……勇敢だな、お前は」
アークザットは言った。
微笑を浮かべて言ったが、すぐに真顔になって続ける。
「俺に付いてきて、この村はどうなる?」
「!」
「お前を生み、育んできたこの村は誰が守る? お前の両親や友人は、誰が守る?」
「………」
忘れていた。
自分はこの村の住人で……ここには大切な人達がいる。
放り出していく事などできはしない。
「俺はエルラザ帝国全土を巡って、俺の戦いを続ける。お前はお前の大切な人達を守るために、ここに残ってお前の戦いを続けるんだ」
「は、はい!」
アークザットの言葉に胸を奮わせて、少年は応えた。
各地を転戦するアークザットと、この村を守る自分と……。
戦場は違っても、同じ気持ちで戦う事が出来るんだ!
「もし、この村のために戦う必要がなくなった時は俺の所に来い。その時は必ずお前の事を迎え入れてやる」
「はい!」
少年は精一杯、背筋を伸ばして応えた。
それから七年後、物語は再び、この村から動き始める。
緊迫した空気の流れる村の中を、ラティスとランドルは早足で歩いていた。
普段の麻の衣服ではなく、安物の鎧に身を包んでいる。
安物の鎧であっても、彼らにとってはそれがいっぱしの軍装だった
一歩進む度に鎧がやかましい音を立て、それがラティスに自分自身の立場を思い起こさせる。
子供の頃に見た鷹獅子騎士団の鎧は、同じ金属が擦れ合う音でも、もっと耳障りのしない、品の良い音だった憶えがある……。
「お兄ちゃん!」
背中からの声に、二人は足を止めた。
振り返った先に立っているのは、ランドルの妹、アルティ。
潤んだ瞳で、自分より背の高い二人を見上げている。
「アルティ、どうした?」
ランドルが安心させるように両肩に手を置く。
「うん……お兄ちゃん、また戦いになるんだよね?」
「……多分、な」
ランドルが表情を曇らせながら答える。
時にはしばらく睨み合いをしただけで、反撃を恐れてか、剣を交える事なく去っていく野党もいる。
しかし今回の敵は規模も大きく、そう簡単に引き下がってくれそうになかった。
「お兄ちゃん……気を付けてね……怪我なんかしちゃヤだよ……」
「バカ。俺がそんなヘマするかっての」
「うん……」
ランドルが気安く言うが、アルティの表情は晴れない。
アルティはラティスの手を取ると、そっと胸元で握る。
「ラティスお兄ちゃんも気を付けて……それと、お兄ちゃんの事、守ってあげてね……」
「あっ、こいつ! 実の兄よりラティスを信用しているなっ!」
「え? ……あっ、ごめん、お兄ちゃん。私、そういう意味じゃなくて……」
「いいや、絶対に許さん! こいつめ! こうしてやる!」
「わっ、お兄ちゃん、痛いよう!」
たちまちラティスを取り囲んでじゃれ合いを始める兄妹。
それが一段落するのを見計らって、ラティスは声をかける。
「ほら、ランドル、ぐずぐずしてると、またウィンコットさんにどやされるぞ」
「うわっ、やばっ」
「それからアルティ」
「う、うん……」
ラティスはアルティの頭に手を乗せて言う。
「必ず帰るから。信じて待っていて」
「うん……わかったよ」
アルティがうなずくのを見て、ラティスは口許を綻ばせた。
今は、この幼なじみの兄妹と生まれ故郷がラティスの世界の全て。
そして守るべき大切な物……。
「ラティス、行くぞ!」
「ああ」
勢い込んで声を上げるランドルと、それに従うラティス。
村の中心から離れて、戦場に向かう二人。
二人の姿が森の中の小道へ消えても、アルティはずっと二人の背中を見ていた。
この村で自警団が結成されたのは七年前、鷹獅子騎士団で小隊長を務める、アークザットという男に村を救われた直後の事だった。
当初、鷹獅子騎士団は反乱軍との戦いで消耗する事を恐れ、村を見捨てるつもりだった。
しかし軍を動かすなという命令に反し、アークザットは自らの率いるわずか五百騎だけで、五千に及ぶ反乱軍に奇襲を仕掛け、一夜にして撃破してしまったのである。
この出来事はラティスという当時十歳の少年の心にアークザットというまばゆい英雄の姿を焼き付けると同時に、村の大人達の大半に、帝国軍は頼りにならないという烙印を押させる事になった。
アークザットが命令を無視し、わずか五百騎だけで反乱軍を撃破するという偉業を成し遂げなければ、鷹獅子騎士団に無視された村が全滅するのは明白だったからである。
かくして、自警団が結成された。
村の男達が集まり、村に何人かいた軍隊経験者を中心として、日々の労働の合間を縫って組織作りや剣の訓練が行われた。
男達の大半が農夫か猟師である。
そのため、にわか軍人としての身体は出来上がっていたし、猟師を中心とした弓兵隊もすぐに軌道に乗った。
何よりも、自分達の村と生活を自分達の手で守る、という意気込みが彼らにはあったのである。
そうして数ヶ月もして初めての実戦を経験する頃には、小規模な反乱軍とは互角以上の戦いを繰り広げるまでに成長したのである。
……とはいっても、反乱軍の兵士の多くがつい先日までは彼らと同じ普通の一般市民であり、にわか軍隊同士の戦いに過ぎない、という事情はあるのだが。
自警団が結成された時には十歳だったラティスとランドルも、十二歳の時に剣の訓練を始め、十四歳の時には大人達に混じって戦場に出て、敵兵と剣を交えるようになった。
そして十七歳のラティスは剣の腕では師匠である村の大人達を追い抜いて村一番と言われるようになり、軍隊指揮の経験こそないものの、周囲から一目置かれる存在になっていた。
「ウィンコット団長!」
「おお、ラティスにランドルか」
二人の若者の呼びかけに、ウィンコットは片手を挙げて応えた。
ウィンコットは四十代半ばで腹が大きく突き出た中年だが、村では数少ない軍隊経験者であり、創設当時から自警団の団長を務める男である。
村人からの信頼も厚く、七年間に渡って自警団をまとめ上げ、村を守り続けてきた最大の功労者である。
「団長! 現在の状況は!?」
「待て、焦るな、ランドル」
ウィンコットははやる若者を笑って制した。
それからやや緊張した顔になって、説明する。
反乱軍を発見したのが早く、自警団が防御態勢を取っているため、反乱軍は村から少し離れた丘に布陣して様子を見ている事。
そして自警団も決め手を欠き、防御態勢を取ったまま様子を見ている事。
「……こちらからは仕掛けないんですか?」
「無理だ」
ラティスの問いに、ウィンコットは簡潔に答える。
反乱軍は丘の上に布陣している。
より高い場所に布陣した軍隊の方が有利というのは、兵法における常識中の常識である。
高所に布陣した反乱軍に正面からぶつかっても、返り討ちに遭うのが目に見えている。
「……そもそも、敵軍との兵力差が問題だ」
ウィンコットは言った。
自警団の兵力はわずか五百。
それに対する反乱軍の兵力は……。
「偵察の報告によると、少なくとも二千」
「!」
ラティスとランドルは同時に息を飲んだ。
兵力差は四倍以上。
簡単に覆せる数字ではない。
だけど……。
ラティスの記憶の糸に引っかかる物があった。
丘の上の敵軍、圧倒的な兵力差……。
「確かに不利……だけど前にもあった状況じゃないですか? 七年前、アークザット様に救われた時の……」
「……ほう、よく憶えていたな。お前が子供の頃なのに……」
ウィンコットは目を丸くした。
忘れるはずもない。
七年前、五千に及ぶ敵兵、動かない鷹獅子騎士団……そして命令に反して兵を動かし、わずか五百騎で大軍を打ち破った、アークザットの勇姿……。
子供の頃とはいえ、それをこの村で誰よりも近くで見て、心に深く刻み込んだラティスなのだ。
「じゃあ、アークザット様と同じ作戦を使えば……」
「………」
地元の猟師しか知らない獣道を利用した夜襲。
ランドルが明るく提案したが、賛同の声は上がらなかった。
「……ランドル、確かにそれは俺も考えたさ。しかしそれでは無理なんだ」
「どうして!? どうしてですか!?」
「七年前と状況は似ているが、同じではないんだ」
ウィンコットは言う。
敵軍二千に対してこちらはわずか五百。
一度の夜襲で敵軍を撃破できればいい。
しかしそれが出来なかった時はどうなる?
生き残った反乱軍が村に襲いかかってきた時、一体誰が村を守る……?
七年前、アークザットは麾下の五百の兵だけで五千の敵を打ち破った。
しかしそれはアークザットだからこそ成し遂げ得た事。
ウィンコット率いる五百の自警団に、二千の反乱軍を打ち破れるという保証はどこにもないのだ。
「……我々の中に、アークザット様はいないんだ」
ウィンコットは吐息と共に言った。
ここにいるのは、アークザットという英雄に憧れる者だけだ。
英雄と同じだけの事を出来る者はいない。
七年前とはその一点だけが、何よりも決定的に違うのだ……。
それからウィンコットは、絶望的な予測を付け加えた。
今はまだ、敵軍は様子を見ているだけだ。
しかし反乱軍は村の兵力が大した事ない事を知り、遠からず攻めてくるだろう。
決死の覚悟の夜襲の機会さえ与えられない。
恐らく、夕刻までには……。
自警団の間には絶望的な空気が流れ始めた。
それでもウィンコットは団長としての職務を放棄しようとはせず、圧倒的に不利な状況の中でも勝利の可能性を模索する。
ウィンコットは寡兵をさらに二つに分けた。
五百の兵力のうち三百は村の入り口に布陣し、街道を進んでくる反乱軍を迎え撃つ。
狭い街道に兵力を展開せざるを得ない敵軍に対し、こちらは広い場所に展開できるから、少数の敵に多数で対する事ができる。
兵力差の不利を有利な地形でカバーしようという作戦だ。
この敵軍を正面から迎え撃つ本隊は、ウィンコット自らが率いる。
残った二百の兵は別働隊として、この村の猟師しか知らない獣道を秘かに進み、細い街道を進攻して縦列になった敵軍の側面を突き、分断する。
この別働隊を指揮するのは、ラティスの父親でもあるグリックス。
軍隊経験はないが、猟師であるから獣道に詳しく、ウィンコットと並んで自警団の創設当時からの中心的メンバーであるから、これ以上の適任はいなかった。
そしてウィンコットの立てた作戦を元に、兵の配置が始まる。
ラティスとランドルはウィンコット率いる本隊の方に加わる事になった。
父親とは別の部隊になったが、それを理由にやる気をなくすようなラティスではなかった。
そして……。
夕刻、反乱軍の進軍が始まった。
街道を抜けたばかりの反乱軍の先頭に、自警団は攻撃を仕掛けた。
地の利を生かした半包囲体勢により、常に自警団の面々は二対一で反乱軍と対する事ができた。
二人は常に肩を並べて戦い、次々と、とはいかないものの、連携して一人ずつ反乱軍の兵士を倒していく。
全体として、自警団は有利に戦いを進めていた。
反乱軍の進攻をよく防ぎ、着実に戦力を削ぎ落としている。
このまま勝てるのではないか?
思いもよらない苦戦に、反乱軍は兵を引く気にはならないか?
自警団の誰もがそんな楽観的な観測を抱いた。
しかしそれはすぐに否定される。
短期的に見れば、確かに自警団が有利に戦いを進めている。
しかし長期的に見れば、兵力に勝る反乱軍が軽い手傷を負っただけの兵士をすぐに後方に下げ、無傷の兵士と交代できるのに対し、自警団はほぼ全員が反乱軍と剣を交えている状態で、傷の手当てさえままならなかった。
確かに今は有利に戦いを進めている。
しかしこのままでは疲弊した自警団の防衛網が破られるのは時間の問題である。
鍵を握るのはグリックス率いる別働隊の、突撃のタイミングだった。
ウィンコット率いる本隊が反乱軍を食い止めながら焦りを募らせていた頃。
別働隊を率いるグリックスも突撃のタイミングを掴みかねて、焦りを募らせていた。
反乱軍には勢いがなかった。
それは本隊の防戦には都合が良かったが、疲弊した反乱軍が進攻を鈍らせる瞬間を待つ別働隊にとっては耐え難い苦痛でしかない。
反乱軍は消耗戦を挑んでいる。
損害が少なくないのを承知で、それでも最終的には勝利を収められると踏んで、あえて消耗戦を挑んでいる。
このままでは本隊の防衛網が破られるのは時間の問題である。
だからといって今のタイミングで反乱軍に突撃をしかけたところで、効果的な一撃を与えられるとは思えない。
少なくとも、圧倒的な兵力差を覆すほどには。
グリックスは焦った。
このまま手をこまねいていては、本隊の全滅、反乱軍が村に押し寄せてくるのは目に見えている。
しかし今はまだ、突撃のタイミングではない。
それどころか、このまま待っていても突撃のタイミングは訪れないかも知れない。
結局、グリックスは自らの焦りに負ける形で号令を下した。
そして迎える結果は最善の結果とはとても言えない物だったが……。
最善の結果が得られるタイミングがそもそもあったのか、それは人の身では知る事のできない事であった。
自警団の本隊が必死に防戦を続けている最中、ラティスとランドルは呼び出されてウィンコットの前に来た。
他にもラティスらと同世代の若者数名が呼び出されたらしく、沈痛な面持ちのウィンコットの前で顔を揃える事になった。
ウィンコットは居並ぶ若者達の顔を順番に見渡して……ラティスの顔を見付けて視線を止めた。
「たった今、報せが来た」
ウィンコットは言った。
「別働隊が側面から反乱軍に突撃をしかけ、一時は敵軍を分断したものの勢いを殺してしまうには至らず、逆に分断した敵軍に挟撃される形で……全滅した」
「!」
その言葉を聞いた瞬間、ラティスの身体が揺らめいた。
「ウィンコットさん……父さんは……」
「……反乱軍を相手に一歩も引かない、見事な戦いぶりだったそうだ」
「………」
ラティスは顔を伏せた。
ランドルが励ますように無言でその肩を叩く。
ふと周りを見ると、集まった若者の何人かがラティスと同じような反応をしていた。
別働隊の中に、自分の父親、あるいは兄弟か友人がいたのだろう。
そんな彼らの気持ちを知った上で、ウィンコットは彼らにさらに厳しい現実を突き付ける。
「……別働隊が全滅した以上、この本隊が全滅、村に凶悪な反乱軍が雪崩れ込んでくるのは時間の問題だ」
「………」
反応はない。
ウィンコットは続ける。
「そこでお前達はここを離れ、村に戻って一人でも多くの人を連れて逃げて欲しい」
「そ、そんな!」
「俺達も最後まで戦います!」
何人かの若者がウィンコットに詰め寄る。
「バカ者!」
しかしウィンコットが一喝すると、彼らはビクッと動きを止める。
「俺達は今日まで何のために戦ってきた!? 一人でも多くの反乱軍を殺すためか? 違うだろ! この村を守るためじゃないのか!?」
「………」
若者達は固く押し黙る。
全滅した別働隊の復讐を果たすという一時の激情に駆られて、村に残っている家族や友人知人などを守るという、肝心の目的を忘れていた事に恥じ入っていた。
その時、自警団の囲みを破って一人の反乱軍兵士が飛び出してきた。
真っ先に動いたのはウィンコットだった。
踏み込みながら剣を引き抜くと、一刀の元に不運な反乱軍兵士を切り捨てる。
「ここは俺達に任せろ! 早く行け!」
死ぬつもりだ。
その場にいる誰もがそう思った。
ウィンコットは村の人達を一人でも多く逃がすために命を捨てる覚悟だと、誰もが気付かされた。
そしてウィンコットの意志を無駄にしないためにできる事は、今すぐ彼を見捨てて村に戻る事だ。
誰もがその事を知っていた。
しかし涙を飲んで村に戻ってきた若者達を待っていたのは、生まれ故郷の変わり果てた姿だった。
住み慣れた村が赤々と燃え上がり、親しい隣人達が不埒な反乱軍兵士に追い回されている。
ウィンコットの本隊が相手にしていた反乱軍の本隊を囮にして、大きく迂回した別働隊が無防備な村を襲う。
こちらと同じ作戦を、反乱軍も用いていたのだ。
「この野郎!」
「あいつら、ぶっ殺してやる!」
ウィンコットらを見捨てる事になって冷静さをなくしかけていた若者達は、見る影をなくした村の姿に我をなくした。
剣を引き抜き、我先にと反乱軍兵士へと殺到していく。
「待て! 早まるな! ランドル!」
「ラティス! 放せ! 奴らを生かしておけるか!?」
一人冷静さを残していたラティスは、手近にいたランドルを辛うじて制止した。
「ランドル、お前の気持ちはよくわかる。だけど今、冷静さをなくしたら、ウィンコットさんの気持ちをムダにしてしまうぞ!」
「だ、だけど!」
「それに! お前の母さんとアルティは誰が守る!? 僕達の他に誰がいるって言うんだ!?」
「………」
ランドルは力なくうつむく。
「そう……だよな……アルティを守れるのは俺達しかいないんだよな……」
やがて顔を上げた時には、先ほどまでの取り乱していたランドルの姿はどこにもない。
「すまなかった、ラティス。俺がしっかりしなくちゃいけないのに……アルティを守れないのに……」
「いいんだ。それより急ごう!」
「ああ!」
二人は炎に包まれた村を走り、ラティスの家に行った。
これからの逃避行のために、わずかな路銀と食糧を取りに来たのである。
ラティスの母親はラティスがまだ物心付く前に他界したが、それ以来、グリックスは男手ひとつでラティスを育て上げた。
家を出た後、ラティスは振り返って自分の生家を見上げた。
もう二度と、この家に戻ってくる事はできない。
ラティスは思った。
優しくて、だけど必要な時には厳しくなる父親との温かい思い出がいっぱいつまった家。
傷跡のひとつひとつ、床の汚れや壁の染みのひとつひとつまで、何もかもが鮮明に記憶に残る家。
それももうすぐ炎に包まれ、跡形もなく消えてしまう。
この世に生を受けて以来、ずっと当たり前のように包まれていた温かさと優しさだったが、それが今、失われようとしている。
ラティスはそう思った。
ランドルの声に急かされて、ラティスは再び走り始めた。
二人はアルティらの待つ、ランドルの家に向かった。
ランドルの家が窓から煙を上げているのを遠目に見付けて、二人は血相を変えて全力で駆け付ける。
「母さん! アルティ!」
ランドルが家のドアを開け放つ。
火の回りは遅いようだった。
あちらこちらから炎と煙が上がり、室内は肌を焼き付ける熱気に包まれていたが、中で人が動けないほどではない。
ほどなく、ランドルがそれを見付けた。
「母さん!」
走り寄る。
ランドルの母親が倒れていた。
胸から赤い血を流し、それが質素な服装を鮮烈な赤色に染め上げている。
家に乱入した反乱軍に襲われ、殺された事は明らかだった。
「母さん! 母さん! 目を覚ましてくれよ! 母さん……」
ランドルは母親の亡骸を激しく揺さぶったが、しばらく続けてそれが無意味な行為だと知ると、やがて声を押し殺して嗚咽を上げ始める。
ラティスは近くにあったシーツを持ってくると、ランドルの肩に手をかけた。
抵抗する事なくランドルが母親の亡骸から離れると、ラティスはシーツをランドルの母親の身体にかけた。
いずれこの亡骸も灰になって土に還ってしまう。
だけど、そうなってしまうまでの短い間のためだけにも、そうせずにはいられなかった。
「そうだ! アルティは!?」
ランドルが声を上げる。
母親は亡骸になって見付かったが、アルティの方はまだ見付かっていない。
二人は手分けして家中をくまなく探す。
その最中、二人の脳裏からは最悪の想像が付きまとって離れない。
家に乱入した反乱軍がアルティを見付けたとしたらどうするだろう?
少女を自らの汚れた欲望のはけ口にするために連れ去り、女として生まれた事を後悔するような目に遭わせるのは、容易に想像できた……。
「いたか?」
「いや、いない……あ、そうだ!」
再び居間で合流した二人。
ランドルが思い出して声を上げ、ラティスを連れて居間の隅の方に行く。
そこで床板を外し始めた。
すると……。
「アルティ! 無事だったか!」
「お兄ちゃん!」
床下には人一人がやっと入れるくらいの空間があり、アルティはその中に隠れていたのだ。
アルティは両腕を伸ばして兄に抱き付く。
「お兄ちゃん、怖かったよぅ……」
「アルティ、母さんがここに隠れろって言ったのか?」
「うん……ここでじっとして、声も出すなって」
ランドルとアルティの母親はこうなる事を予期して、自らを犠牲にして大切な娘を守り通したのだろう。
自分一人が犠牲になれば反乱軍もそれ以上、家の中を探し回ったりはしないだろう、と……。
「お母さんはどこ? 無事なんでしょ?」
「それは……」
屈託なく笑ったアルティにそう言われて、ランドルは口ごもった。
「ねえ、お兄ちゃん……?」
「アルティ、母さんは……」
「おばさんは僕の父さんが連れて行った」
とっさにラティスが口を挟んだ。
「……ラティスお兄ちゃんのお父さんが?」
「ああ、五人も一緒だと目立つから。落ち合う場所も決めてある。僕達も行こう」
「うん!」
アルティは元気よくうなずくと、床下の空間から出てきた。
そこにはいざという時のための路銀や食糧も隠してあり、それを引っ張り出してみんなで分担して持つ。
「早く行こうよ!」
アルティが元気よく声を上げ、真っ先に歩き始める。
ランドルがその後に続きかけて、アルティに聞こえないように小声でラティスに話しかける。
「ラティス、ありがとう」
そしてランドルも歩き始めた。
言うまでもなく、グリックスがアルティらの母親を連れて行ったというのは口から出任せである。
グリックスは反乱軍相手に戦死し、アルティらの母親も反乱軍の手にかかっている。
しかし今はこの村を離れるのが先決である。
最後の最後まで貫き通せない嘘でも、辛い事をほんの少しだけ先送りにするだけの嘘でも、今はそれが必要だった。
だけど……ふとラティスは思う。
善良な二人はきっと天の国に召されるに違いない。
だとしたら、自分の言った事はあながち嘘でもないのかも知れない。
自分の空想に口許を緩めて、ラティスは大切な幼なじみの兄妹を追いかけ始めた。
「見て見て! お兄ちゃん、ウサギだよ!」
はしゃいだアルティが嬉しそうに指差す。
ランドルが、あんまりはしゃぐと真っ先にへたばるぞ、と注意しながら、顔には苦笑いを浮かべている。
この日、村が焼かれた翌日は、昨日の惨事が嘘のような一面の晴空が広がっていた。
一番近くの街までは徒歩で一週間ほどの道程である。
途中、何度か夜の森で野営をしなければいけないし、昼間でも野盗の類に出くわすかも知れない。
それより……。
「お兄ちゃん、お母さんとはこれから行く街で待ち合わせているんだよね?」
「ああ、そうだよ」
「お母さん、私達の事待ってるのかな? それとも私達の方が先に着いちゃうかなあ?」
何も知らないアルティは、無邪気に何度もそんな事を言う。
街に着いたら……ただ母親との再会を楽しみにしている少女にどう打ち明ければいいのだろう?
そしてもっと現実的な問題もある。
これから行く街はラティスとランドルは何度か行った事があるだけで、アルティに至っては一度もない。
一人の知己もいない街。
続く戦乱で、仕事だってすぐに見付かるとは限らない……。
「ラティスお兄ちゃん!」
大きな声がした。
ふと気付くと、目の前にアルティの怒った顔があった。
少し離れた場所でランドルも立ち止まってこちらを見ている。
ラティスが考え事をしている内に、かなり離れてしまったようだった。
「ほら、早く早く!」
アルティがラティスの手を引く。
手を引かれるに任せながら、思う。
父や自警団の仲間達、そして生まれ故郷の村の人々……今まで自分を育んでくれた全てを失った。
今でも生き残っているのはランドルとアルティの兄妹だけだ。
だから、絶対に失いたくない。
先の事はわからない。
自分達三人の前にどんな苦難が待ち構えていようと、ずっとこの兄妹を守り続けよう。
そう心に誓うラティスだった。
はあっ、はあっ……。
静かな森に、少女の苦しげな吐息が響く。
「お兄ちゃん……ラティスお兄ちゃん……ごめんね……」
吐息に混じって謝罪の言葉が聞こえる。
「大丈夫だ、アルティ」
ランドルが笑って優しく声をかける。
「すぐに良くなって、母さんに会いに行けるようになるさ」
「うん……早く良くならないとね……」
アルティは力なく答える。
「お母さんに会えたら……またいつもみたいに頭を撫でてくれるかな? いつもみたいにぎゅって抱き締めてくれるかな……?」
「ああ、きっとそうしてくれるさ。だから今はゆっくり休んで、少しでも早く良くなれ」
「うん……」
そんなやり取りをする兄妹を、ラティスは優しい気持ちで目を細めて眺めていた。
しかし二人から視線を外すと、胸が締め付けられるような気持ちになり、不安に表情を曇らせる。
村を離れてから二日目、アルティが体調を崩した。
元々身体が弱く、ろくに村から出た事のない少女に慣れない山道は大きな負担をかけた。
それに表面上は母親との再会を楽しみにしながら、生まれ故郷を失った事も内面では大きな心労だったに違いない。
そして三日目、体調を崩してから丸一日経っても、アルティは高い熱を出して身体も起こせない状態だった……。
「……ラティス」
ランドルの表情からは、妹に向けていた優しい笑顔が消えていた。
ラティスがアルティの方を伺うと、少女はようやく眠ったのか、静かな寝息を立てていた。
「これからどうする?」
「………」
ランドルの問いかけに、ラティスは沈黙を返す。
一番近くの街までは一週間の行程だった。
対して三人の手持ちの水と食糧も一週間分、しかもその一日分の量はぎりぎりで、切り詰めて長く保たせる事はできない。
アルティが早く快方に向かって旅を再開しないと、途中で食糧が尽きてしまう事になる。
しかも持ってきた食糧は固い干し肉などの保存食で、体調を崩したアルティには向かない物ばかりだった。
目下、アルティが元気になって旅を再開できる見込みはない。
そして元気になって旅を再開できたとしても、また体調を崩さないとは限らないのだ……。
「……狩りをしよう」
長い沈黙の後、ラティスは答えを返した。
そして先ほど完成させたばかりの手製の弓矢を取り出す。
獲物を捕らえられれば、それだけアルティが良くなるのを待てる時間が増える。
ラティスはそれを狙おうというのだ。
「無理だ。そんなあり合わせの弓で何ができる?」
ランドルが声を荒げる。
確かにあり合わせの材料でこしらえた、精度の悪い弓矢である。
しかも場所は知り尽くした狩り場ではない。
いかにラティスが猟師の息子であり、一人前の猟師の腕を持っているといっても、簡単に獲物を捕らえられるとは思えない。
「何もしないよりはいいだろ?」
「………」
ラティスは弓矢を肩に担いで立ち上がった。
「それじゃあ行ってくるよ」
「勝手にしろ」
ランドルはそっぽを向いた。
「アルティの事、頼む」
「……言われなくてもそうする」
ラティスは苦笑し、アルティの方を向いて、眠った少女を起こさないように小さな声で「すぐに戻るから」とだけ言って、その場を離れた。
狩りに出たラティスが二人の兄妹の元に戻ってきたのは、すでに夜半を過ぎた頃だった。
丸一日かけて手に入れた獲物は、痩せこけたウサギが一匹。
なかなか獲物を捕らえる事ができず、あと少し、あと少しと粘った成果としてはささやか過ぎたが、それでもラティスは満足だった。
今の絶望的な状況を打開するにはまだまだ足りないが、それでも、わずかであっても成果であるには違いない。
きっとアルティはすぐに良くなる。
そして旅を再開して、新しい街に着いて、また三人でいつものように暮らせるようになる。
そうに違いない。
きっとそうなるに違いない……。
「ただいま」
ラティスは言った。
眠っているかも知れない少女を起こさないように、小声で。
その配慮は無駄にならずにすんだようだった。
アルティは静かに横たわっている。
ランドルは少し離れた木の根元に座り込んで膝を抱え込んでいた。
ラティスはアルティの枕元に膝をつく。
「アルティ、少しは良くなったか? 痩せたチビだけど、何とか獲物を……」
途中まで言いかけて、ラティスは気付いた。
体調を崩しているために白くなっていたはずの顔色が、蒼白を通り越して土気色になっていたのだ。
それだけではない。
唇の隙間から漏れていたはずの寝息も今は聞こえない。
静かに隆起を繰り返していた胸も、今はなだらかな曲線を保ったまま動かない。
そして……。
ほっそりとした白い首にはっきりと刻み込まれた、五本の赤い傷痕……。
「ランドル……」
「……仕方なかったんだ」
ランドルが聞かれてもいない事を答える。
「本当は街に着いたら娼館に売り飛ばすつもりだった……だけどこいつ一人のために足止めを食って、こんな所で野垂れ死んだら元も子もないからな」
「………」
「なあラティス、仕方なかったんだ。俺は最後の最後まであいつを守ってやりたかったんだ。守ってやろうとしたんだ。だけど……だけどもう無理じゃないか!」
ランドルは腰を上げ、ラティスの元へ這い進んでいく。
「なあラティス、村が滅びて俺達だけが生き残って……お前が俺を見放したら何も残らなくなる。お前だってそうだろ? 俺の他に何も残ってないだろ? 俺を見放すなんてできないよな?」
「………」
「なあ、言ってくれよ、ラティス。仕方なかったんだって。どうしようもなかったんだって。許してやるって。またいつも通り、二人で生きていこうって……」
「なあラティス、答えてくれよ。答えてくれないと……答えてくれないと俺は……」
「………」
ラティスは答えない。
ただ黙って、怯える幼なじみを見ている。
自分の心の弱さに負けた幼なじみが求めている言葉を知っていた。
人として決して許されない罪を犯した男が、自らの犯した罪に怯え、その重さから逃れたくて……ただ、許してやるよと、誰もお前を責めたりしないよと、そんな言葉だけを求めている事を知っていた。
だけど……。
ラティスはすがりついてくるランドルの身体をそっと押し退けた。
「ラティス……」
ランドルの口から漏れる声。
その声に答えたのは、どこまでも澄み切った抜剣の音だった。
「お、おい、ラティス……」
「抜け」
「ちょ、ちょっと待てよ、ラティス……!」
ラティスの剣が走る。
とっさに抜いたランドルの剣がそれを受け止める。
続く一撃、二撃……。
しかし結果は明らかだった。
元々剣の腕ではラティスが上だったし、冷静さを欠いていたランドルは本来の実力の半分も発揮できなかった。
ひたすら剣を走らせるラティス。
防戦一方のランドル。
一撃毎に形勢はラティスの方に傾いていき、ついにランドルの剣が音高く弾かれ、ラティスの剣がランドルの首を捉えて……。
なおも命乞いの言葉と免罪を求める言葉を繰り返す喉を切り裂いて、何もかもが終わりを告げた。
夜明けは未だ遠く、ラティスには木々の隙間から漏れる星明かりだけが降り注いでいる。
血の臭いは野獣を呼び寄せる。
ラティスは猟師としての経験からその事を知っていた。
時間はあまりない。
手早く荷物の中から水と食糧を集める。
おかしな話だった。
アルティを犠牲にして自分達だけ助かろうとしたランドルの罪を許さなかった自分が、結果的にはランドルと同じ事をしている。
自分が何をしたのだろう?
どんな罪を犯したのだろう?
ただ周りの人達を守りたくて、そのために戦ってきたつもりだったのに……気が付けば父親を失い、親しい隣人達を失い、故郷の村を失い、仲の良かった幼なじみの兄妹を失って……。
自分の身体以外の何もかも失いながら、人里離れた夜の森に一人、こうしている。
守るべき物を失い、生きる目的のない身体を絶望の中にさらしている……。
……いいや、まだだ。
自分を形作る何もかもを失ってなお、それは鮮烈な輝きを放ちながら、確かに心の中に存在していた。
幼い頃、村を救ってくれた英雄の姿。
夜明けを切り裂いて降り注ぐ朝日を浴びた、返り血に染まった姿……。
……行かなくちゃ。
ラティスは立ち上がる。
いつかきっと、夜は明ける。
かつて滅亡に瀕した村を一人の英雄が救ったように、どんな夜にもきっと朝日は昇る。
どんなに深い絶望の夜であっても、いつかは希望の朝日が切り裂いてくれると、そう信じさせてくれた男の元へ……。
何もかもを失ったラティスにとって、一人の英雄の存在だけが救いだった。
ラティスは歩き始める。
ゆっくりとだったが、確実に前へ前へと進み始める。
夜明けは未だ遠く、ラティスには木々の隙間から漏れる星明かりだけが降り注いでいる。
ラティスがアークザットと再会し、その麾下に入って戦うようになるのは、数ヶ月後の事である。
二人の英雄・外伝「夜明けは未だ遠く」 了
あとがき
ど〜も、wen-liです。
「夜明けは未だ遠く」いかがだったでしょうか。
本編よりあとがきを先に読んでいる人のために解説をすると、ラティス君が鷹獅子騎士団に入る直前、故郷の村が滅ぼされた時のお話です。
一時、構想自体は出来上がったものの、面白いかなあと疑問に感じ、書かないでおこうかと思ったりもしましたが、第1部第5話との絡みから書いた方がいいかなあと思い、書いてみました。
いざ書いてみると、意外に楽しくかけました。
あとは読んでくれた人が楽しんでくれればなあと。
……徹底的に暗いお話だけど。
まあ、お話のパターンが第5話と一緒というのはさておき。
感想お待ちしてます。
でわでわ。
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