夕焼けのちVサイン

 藤田浩之と松原葵は学校が休みの日曜日を利用して、近くの遊園地に来ていた。
 家族連れやカップルでできた人込みを眺めながら、二人で並んで歩く。
「葵ちゃん、まずどこから行こうか」
「あ、はい。え〜と……」
 辺りを見回して頭を悩ませる葵。
 そこに近付いてくる人影があった。
「あら、葵に浩之じゃない」
「綾香さん!」
 ふいにかけられた声に振り返って、葵は元気な声を上げた。
 そこにいたのが自分の憧れの人、来栖川綾香だったからである。
「久しぶりね、葵。彼氏とデート?」
「か、彼氏だなんて……そんな……」
「もう、葵も隅に置けないんだから!」
「………」
 葵は真っ赤になってうつむいてしまった。
「綾香、あんまり葵ちゃんをからかうなよ」
 浩之が葵に助け船を出す。
「あ、ごめんね」
 悪怯れた様子もなく、綾香は明るく笑った。
「それで綾香は姉と一緒にデートか? 情けねえなあ」
「あはは、私は姉さん想いの妹なのよ」
 姉?
 葵が辺りを見ると、綾香の一歩後ろにぼーっと立っている女の人に気付いた。
「………」
 その人は黙ったまま、綾香と浩之のやりとりを聞いている。
「葵は姉さんと会うのは初めてだった?」
 綾香が浩之と話すのをやめて葵に話しかける。
「は、はい」
「じゃあ紹介するわね。私の姉の芹香よ」
「………」
 芹香は黙ったまま、深く頭を下げる。
 確かに顔立ちは綾香と似ているが、性格は全然違うように、葵には思えた。
 いつも明るくマイペースで、決して冷静さを失わず、どんな苦況でも楽しんでしまうタイプの綾香に対し、姉の芹香は無口でぼーっとしていて、風が吹けばそのまま飛ばされてしまいそうに見えた。
「姉さんには話してたわよね? 私が空手をやってた頃の後輩の葵よ」
「初めまして。松原葵です」
「………」
 葵が笑顔で明るくあいさつしても、芹香は黙ったまま、目を伏せるような感じで軽く頭を下げるだけだった。
 なんだか変わった人だなと、葵は思った。
「だけど先輩とこんな所で会うとは思わなかったなあ」
 浩之が言った。
「先輩って……あの、藤田先輩のお知り合いなんですか?」
「何言ってんだよ。俺達の学校の先輩なんだぞ」
「そうなんですか。全然知りませんでした」
 葵は改めて憧れの人の姉の顔を見てみる。
 芹香は相変わらずぼーっとした表情のままで葵の顔を見返す。
 綾香がぽんと手を叩いて言った。
「そうだ。ここで会ったのも何かの縁だし、一緒に行動しない? ね? 姉さんもその方がいいでしょ?」
「………」
 こくっと芹香が小さくうなずく。
 浩之も笑って葵の方を振り返る。
「そうだな。葵ちゃんもいいだろ?」
「はい!」

「姉さん、最初はどれにする?」
 綾香が姉に声をかけると、
「………」
 芹香はぼーっとした表情でしばらく考え込んだ後、ゆっくりと手を挙げて遊園地の一角を指差した。
 その指のずっと先には「ホラーハウス」という看板を掲げた建物があった。
「……あれって、おばけ屋敷じゃない?」
「………」
 こくん。
 芹香は黙ったままうなずく。
「ダメよ。そんな辛気くさいの。最初なんだから、もっとパーッと派手なのにしてよ」
「………」
「え? よくわからない? しょうがないわね……おばけ屋敷は後で一緒に行ってあげるから、まずはあそこのジェットコースターにしよっか」
「………」
 芹香はこくっと小さくうなずく。
「綾香、少しはセンパイの意見も聞いてやれよ」
 浩之が口を挟む。
「………」
「え? 別にいいって? ジェットコースターも乗りたかったから? まあ、センパイがいいんならオレも構わないけど」
「それじゃ早速行きましょうか。ほら、葵も早く!」
「あ、はいっ!」

 十分ほど並んだ後、四人はオーソドックスなジェットコースターに乗った。
 前に乗っている来栖川姉妹に聞こえないように小声になって、葵は隣に座っている浩之に話しかける。
「あの、先輩」
「ん?」
「芹香さんって……少し変わった人ですよね?」
「そうだな……ちょっと変わってるよな」
「はい……」
「でも優しくていい人だから。葵ちゃんも話しかけてみなよ」
「はい、そうします」
 綾香さんのお姉さんですから、悪い人のはずないですよね。
 ジェットコースターはゆっくりと動きだした。

 数分後、四人はジェットコースターを降り、次の乗り物を物色して歩いていた。
「姉さん、さっきのジェットコースター、恐くなかった?」
「………」
「え? 恐いけど楽しかった? そう、良かったわね」
 しかし芹香はいつもの通り無表情で、あまり恐かったようには見えない。
「なあ綾香、今日はどうして姉妹でここに来たんだ?」
 浩之が綾香に尋ねた。
 綾香は少しだけ考え込むような仕草を見せながら答える。
「……何日か前にね、姉さんと話をしていたら、遊園地の話になったのよ」
「うん」
「そしたら姉さん、ほとんど遊園地で遊んだ事がないって言うのよ。家族で来た事はないし、学校の遠足で来た時も……ほら、姉さん友達いないでしょ? ずっと一人で日向ぼっこしてたって言うんだから」
「へえ……大変な子供時代だったんだな、センパイ」
「………」
 浩之は芹香にも話を振ったが、芹香はまるで他人事のようにぼーっとした表情のままだった。
「綾香さん、お姉さん想いなんですね」
 葵が新鮮な驚きと素直な称賛を込めて言うと、
「あはは、そうよ、今さら気付いたの?」
 綾香は屈託なく笑って葵の言葉を受け止める。
「それじゃあ、次はどれに乗る?」
 浩之が話題を切り替える。
「そうね……あ、あれはどう?」
 綾香が嬉しそうな声を上げて指差したのは、最初の物よりずっと過激そうなジェットコースターだった。
 普通に座って乗るタイプではなく、立って乗るタイプだ。
「姉さん、どう?」
「………」
「え? 恐いから嫌だって? しょうがないわね……葵は?」
「わ、私もちょっと……」
「葵も嫌なの? もう、二人ともだらしないわね。恐いから楽しいんじゃないの、ジェットコースターは」
「は、はい……」
 とうつむく葵。
「………」
 黙ったままうつむく芹香。
「しゃーねーなー。綾香、二人で乗ってくるか」
「え? あ、ちょっと……」
 浩之は何か言いたそうな綾香をジェットコースターの行列の最後尾までひきずるようにして連れて行く。
「葵ちゃん、悪いけどセンパイと一緒にその辺で待っててくれ!」
「は、はい!」
 こうして浩之と綾香の二人が行ってしまい、葵と芹香の二人がその場に残された。
「………」
「………」
 二人は黙って浩之と綾香が去って行った方向を見つめている。
「………」
「………」
 芹香は動こうという様子を見せない。
「………」
「………」
 葵は芹香が動きだすまでは、自分も二人が去って行った方を見ていようと思った。
「………」
「………」
 しかし芹香はいつまで経っても動こうとしない。
「………」
「………」
 このままだと日が暮れるまで立っている事になりそうだと思ったので、葵は自分から声をかけた。
「え、えっと、あの……芹香……さん」
「………」
 芹香は黙って葵を見返す。
「ずっと立ってるのもなんですし、どこかに座りませんか?」
「………」
 こくん。
 芹香は小さくうなずく。
 そして辺りを見回して、困った表情になる。
「あの……芹香さん?」
「………」
 どうやらいくつかあるベンチのうち、どれに座るか悩んでいるようだ。
 葵はそう思った。
「……えっと、あそこのベンチにしませんか? 藤田先輩と綾香さんが出てきても見付けやすい場所ですし」
「………」
 こくん。
 芹香がうなずき、二人はベンチまで歩いて行った。
 一歩先に葵がベンチにたどり着き、軽く手でベンチの上を払った。
「芹香さん、どうぞ」
「………」
 小さく頭を下げて、芹香はベンチに座った。
 葵も芹香の隣にちょこんと座る。
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
 ベンチに座ってみても、やっぱり二人は黙ったままだった。
 葵は自分の憧れの人とよく似た横顔を横目でちらちらとうかがいながら、緊張のために苦労しながら口を開く。
「あ、あの、芹香さん……いいお天気になって良かったですね」
「………」
 しかし芹香は相変わらずぼーっとした表情で葵を見つめ返すだけで、ほんの小さなリアクションさえ示そうとしない。
 やっぱり会話にならなかった。
 葵は対応に困って、別の話題を探す。
「え〜っと……あの……その……あっ、芹香さんは格闘技はやらないんですか?」
「………」
「私は綾香さんと同じで空手がメインなんですけど、最近は中国拳法も習っているんです」
「………」
「私は小柄ですから、どうしても寝技とか関節技は向かないんです。それにやっぱり打撃技の方が戦ってるって気分がしますし、性に合っているんですよね」
「………」
「あ、中国拳法は空手とはまた違った奥の深さがあるんです。きっと歴史が長いからでしょうね」
「………」
「空手とうまく融合させると、きっとまた新しい道が開けてくると思うんです。私の習ってる形意拳の基本は……」
「………」
 葵は長々と演説した後で、芹香が困った表情をしている事に気付いた。
「す、すみません……格闘技には興味ないんですか?」
「………」
 相変わらず芹香はリアクションに乏しい。
「………」
「………」
「………」
「………」
 再び訪れる気まずい沈黙。
「え、え〜と……あの、芹香さん、喉乾きませんか?」
「………」
 ふるふる。
「あ、そうですか……私は喉乾きましたから、ちょっと買ってきます」
「………」
「すぐ戻りますから。ここで待ってて下さいね」
 葵はそう言うと、芹香を置いて逃げるように走り去った。

 一方その頃、浩之と綾香はジェットコースターの順番を待つ行列の中に立っていた。
「………」
「おい、綾香」
「………」
「綾香っ」
 浩之は少し大きな声で綾香の名前を呼んだ。
 ようやく綾香も浩之の声に気付き、振り返る。
「え? な、何?」
「どうしたんだよ。浮かない顔して」
「そんな事ないわよ。私はいつも元気よ」
 にこっと笑って見せる綾香。
 しかし浩之はそれだけでは納得しなかったようだ。
「……もしかして本当は恐いのか? ジェットコースター」
「バカな事言わないでよ」
 0.01秒で否定された。
「大体、浩之が悪いんだからね」
「は? オレが?」
 浩之は首をひねって考える。
 しかし全く身に覚えがない。
「ま、別にいいけど……すぐに見付かるとは限らないし……」
 綾香は口の中でつぶやくと、何かを自分の中で完結させたのか、いつもの笑顔に戻った。
「あ、次、私達の番よ。ほら、早く行きましょう」
「お、おい、ちょっと待てよ」
 綾香が浩之の手を引く。
 浩之は何が何だかわからなかった。

「はあ……」
 葵は自販機の前でため息をついた。
 確かに喉は渇いていた。
 しかしそれは芹香と話して緊張していたためであって、今まで遊び歩いたためではなかった。
「芹香さん、怒ってるのかな……」
 葵がいくら話しかけても、芹香はろくな反応を示してくれなかった。
 せいぜいうなずいたり、首を左右に振ったりするくらいだった。
 こんな時は格闘技の事しか頭になく、話題に乏しい自分が悔やまれてならない。
「せっかく綾香さんのお姉さんと親しくなるチャンスだったのに……」
 情けなくてため息が出てくる。
 それ以上に、何を考えているのかよくわからない芹香と一緒にいなくちゃいけないのかと思うと、暗い気持ちになった。
 いや、もうすぐ浩之と綾香も戻ってくるはず。それまでの辛抱だ。
 葵は気を取り直し、自販機でコーラを買うと、芹香の待っているベンチまで急いで走っていった。
「芹香さ〜〜〜ん、お待たせ……」
 葵は元気よく手を振って明るい声を上げかけ、途中でやめた。
 芹香が数人の黒服の男に囲まれている。
 恐らく来栖川家の使用人だろう。芹香と綾香を連れ戻しにきたに違いない。
 綾香と空手をやっていた頃にも似たような事は何度もあった。
「芹香……さん……」
 葵は黒服の男達に囲まれた芹香に歩み寄る。
 黒服達が向ける冷たい視線の隙間から、悲しげにうつむいた芹香の横顔が見えた。
『姉さん、ほとんど遊園地で遊んだ事がないって言うのよ』
 そう言って姉を優しく見つめる綾香の顔を、葵は思い出す。
「あ、あの……」
 葵は黒服の一人の袖を引く。
 黒服が自分の方を振り返った瞬間、足をアスファルトの地面に叩き付けるように踏み込み、鳩尾に肘を叩き込む。
「ぐっ!」
 黒服は短く息を詰まらせ、身体をくの時に折った。
 まず一人!
 二人目の黒服が葵に襲いかかる。
 フォームが大き過ぎるパンチをサイドステップでかわし、すれ違いざまに足払いをかけて転ばせる。
 これで二人!
 三人目は二人目と比べると冷静だった。
 右、左とパンチのコンビネーションを繰り出してくる。
 しかし葵は腕でしっかりガードする。
 そして三発目の鋭いストレート。
 これはは無理にガードはせず、仰け反ってやり過ごす。
 パンチの風圧を、葵は頬で感じる。
 葵は反撃に転じる。
 一発目の軽いジャブ。
 これは胸の前でガードされる。
 二発目のボディーブローもガードされるが、ガードの上からでも黒服の体勢を崩すには充分だった。
「はっ!」
 気合いの声を吐き、得意の回し蹴りを放つ。
 キックはガードしようと正面に構えられた腕をかいくぐり、黒服のこめかみにしたたかに打撃を与える。
「芹香さん! こっちです!」
 黒服がアスファルトの地面に倒れるより早く、葵は芹香の手を取って走りだす。
 幸せそうなカップルの間をすり抜け、子供を連れた若い夫婦にぶつかりそうになり、その度に葵は「ごめんなさい!」と律儀に謝罪の言葉を残していく。
 それでも今だに何が起こったのか理解できないようにぼーっとした表情の芹香の手を引いて走るスピードは落とさない。
 しばらく走っていくつかの角を曲がり、建物の陰に入ったところで立ち止まる。
「ここまで来れば大丈夫ですね」
「………」
 葵はまだ余裕があったが、芹香はもう体力の限界のようだ。
 肩を大きく上下に動かして、荒い呼吸をしている。
「……芹香さん、大丈夫ですか?」
「………」
 気遣う葵に、芹香は苦しそうにしながらもうなずいてみせる。
 やがて芹香の呼吸が落ち着いてきたところで、葵はさっき買ったコーラがまだポケットに入っている事を思い出した。
「芹香さん、これ、飲みますか」
「………」
 差し出されたコーラの缶を前に、芹香は少し迷ったようだったが、小さく頭を下げてからコーラを受け取り、のろのろとした動作でプルタブを開ける。
 プシュッ!
 しかしその瞬間、コーラが噴き出し、芹香の顔や服に降り注ぐ。
 コーラをポケットに入れたまま戦ったり走ったりして揺らしたため、噴き出してしまったのだ。
「ああっ! ご、ごめんなさい!」
 葵は慌てて謝る。
「………」
 芹香はぼーっとした表情で、コーラのプルタブを開ける姿勢のままで固まっている。
 葵は芹香の手からコーラの缶を取り上げると、ポケットからハンカチを取り出して芹香の顔を拭く。
「ほ、本当にごめんなさい……私、全然気付かなくて……」
 情けない気持ちになってくる。
 コーラまみれの芹香の顔を見ていると、罪悪感で胸が締め付けられる。
 芹香の顔を拭きながら、葵は芹香の口が微かに動くのに気付いた。
「……います」
「……え?」
 思わず手を止めて、芹香の顔を見つめる。
「………」
 小さな声だったが、今度は確かに聞こえた。
「……芹香さん……今、ありがとうございますって……」
「………」
 こくん。
 芹香はうなずく。
「……もしかして今までずっと黙ってたわけじゃなくて、私が聞き漏らしていただけだったんですか?」
「………」
 こくん。
 芹香はうなずく。
「……あ……私……私……」
 葵は胸が熱くなるのを感じた。
 目頭が熱くなって、手の甲でぬぐう。
「………」
「……いえ……私、悲しいわけじゃなくて……辛いわけでもなくて……」
「………」
「……はい……私、嬉しくて……嬉しくて……それで……つい……」

 ジェットコースターが音を立てて停止すると、綾香は安全バーが跳ね上がるのももどかしく、弾けるように出口へ走っていく。
「綾香! どうしたんだよ!」
 浩之も慌てて後を追う。
 綾香は道に出ると、きょろきょろと辺りを見回す。
「……いない」
「一体、何があったんだ?」
 ようやく追い付いた浩之も綾香に習って辺りを見回してみる。
 そして気付いた。
「……センパイと葵ちゃんがいない」
「………」
「綾香! センパイと葵ちゃんはどうしたんだよ!」
「……ウチの使用人よ」
「は?」
「ウチの使用人が私と姉さんを連れ戻しにきたのよ」
「それじゃ二人とも……」
「違うわ。ウチの使用人が葵まで連れてくわけないじゃない」
「……それもそうだな」
 じゃあ葵ちゃんは? と浩之が言うより早く、綾香が口を開く。
「ほら、あそこ、見て」
 浩之は綾香が指差す方向を見る。
 傷を受けた三人の黒服の男が、ベンチに座ってうめき声を上げている。
「葵にやられたのよ」
「……んじゃ葵ちゃんがセンパイを連れて逃走中って事か?」
「そうね……きっとあいつら、私以外の女子高生にやられるとは思ってなかったわよ」
 そう言って格闘技では世界最強かも知れない女子高生は楽しそうに笑うのだった。
「のんきに笑ってる場合じゃねえぞ。さっさとセンパイと葵ちゃんを見付けないと」
「待って。その前にやっておく事があるわ」
「え?」
「あいつらを縛って物陰に押し込んでおくの。また葵と姉さんを探されないようにね」
「……お前のとこの使用人だろ? いいのかよ、そんな事して」
「やあねえ。自分のとこの使用人だからできるんじゃない」
 そう言って世界に冠たる来栖川家のお嬢様は笑うのだった。

 芹香と葵は、綾香と浩之を探して歩き回っていた。
 他にも来栖川家の使用人がいる可能性がある以上、アナウンスで呼び出すわけにもいかず、自分の足で探す事になる。
 もちろん来栖川家の使用人に見付かる可能性も大きくなるが、こればかりはどうしようもない。
「あの、芹香さん」
「………」
 葵が隣を歩いている芹香に声をかけると、芹香はゆっくりとした動作で振り返る。
「さっきの使用人の人……殴ったり肘打ちを決めたりしちゃいましたけど、良かったんですか?」
「………」
「え? 綾香さんもきっと同じ事をしたと思うから大丈夫……ですか? そうですね。ちょっと安心しました」
 表情の変化が小さい芹香だが、それでも微妙な表情の変化がある事を、葵は知った。
 特に妹の綾香の話をする時は嬉しそうな表情になる。
 この変化が一番わかりやすく、葵はそれに気付くと自分まで嬉しくなるのだった。
 葵は辺りを見回して、来栖川家の使用人らしい男が歩いているのに気付いた。
「芹香さん、こっちです!」
 葵は芹香の手を引いて物陰にひっぱり込み、身を隠す。
 向こうはまだこっちに気付いていないようだが、辺りに目を配りながらこちらに近付いてくる。
 どうか私達に気付きませんように、と葵が心の中で祈りながら、見付かった時の対応をイメージしていると、自分の服の袖が引かれるのを感じた。
「………」
「芹香さん……まさかその建物に?」
「………」
 こくん。
 芹香はうなずく。
 すぐ近くに何かのアトラクションらしい建物がある。
 確かにこのまま隠れているより、建物の中に入った方が安全かも知れない。
「わかりました。入ってみましょう」
 葵は芹香の手を引いて、建物の中に足を踏み入れた。

 芹香の手を引いて建物の中に足を踏み入れた葵は、すぐに芹香の腕に掴まって震える事になった。
「きゃっ!」
 ろくろ首ににらまれて、葵は思わず悲鳴を上げた。
 そう、二人が入ったのは、おばけ屋敷だったのである。
 葵は自分が芹香の腕に思いっきりしがみ付いているのに気付くと、慌ててその腕から離れた。
「ご、ごめんなさい! 私、こういうのって苦手で……」
「………」
「え? 恐がる事ない……ですか? そうですよね。恐がる事なんてありませんよね、ニセモノなんですから!」
「………」
「え? 本物も恐くない……ですか?」
 葵は一瞬、本物のおばけより恐ろしい物を見たような気がした。

 浩之と綾香は葵と芹香を探して遊園地を駆け回っていた。
 ふと綾香が立ち止まる。
「綾香、どうした?」
「浩之! あれを見て!」
「センパイと葵ちゃんが見付かったのか?」
「違うわよ。新しくできたアトラクション。ちょっと見ていかない?」
「んな事してる場合か!」
「冗談よ、冗談……あっ!」
「今度こそセンパイと葵ちゃんなのか!?」
「違うわよ。ウチの使用人」
「……よし、見付からないように隠れるか」
「なに情けない事言ってるのよ。姉さんと葵を見付ける前に私達でやっつけるのよ!」
「わっ、ちょっと待て〜〜〜〜〜っ!」
 綾香は強引に浩之の手を引いて走りだした。

「芹香さん、少し休みませんか?」
「………」
 こくん。
 芹香はうなずく。
「じゃあそこで座って待ってて下さい。何か飲み物でも買ってきますから………え? 芹香さんが買ってきてくれるんですか?」
「………」
 こくん。
「そうですか……じゃあお願いします」
 葵が答えると、芹香は自販機の方に歩き始める。
 芹香の方を注意しながら、葵はベンチに座る。
「はあ……」
 自然とため息が漏れる。
 朝、浩之と綾香と別れてから、結構長い時間が過ぎた。
 そんな様子は見せないが、歩いたり走ったりして、芹香はかなり疲れていると思う。
 それなのに二人と再会できそうな感じがしない。
「どうして……いつもこうなるのかな……」
 自然と愚痴のような言葉までこぼれる。
「………」
「あ、せ、芹香さん!」
 突然声をかけられ、葵は驚いて顔を上げた。
 いつのまにかそれぞれの手に缶ジュースを持った芹香が立っていた。
「………」
「あ、すみません」
 葵は芹香の手からスポーツドリンクの缶を受け取る。
 芹香は葵の隣に腰を下ろした。
「………」
 どうかしたんですか?
 芹香は問いかけてくる。
「え……えっと……なんでもないです。ただちょっと、遊園地って広いなあって思っただけです。なかなか藤田先輩と綾香さんに会えないから……」
「………」
「このまま……会えないのかな……」
 そう言ってため息をつく葵だったが、じっと自分の横顔を見つめる芹香の視線に気付いて、慌てて作り笑いを浮かべる。
「あっ! 今のはひとりごとですから。気にしないで下さい」
「………」
「きっともうすぐ会えますよね!」
「………」
「もうすぐ……」
「………」
 だんだんと声が小さくなっていく葵。
 芹香はその肩を抱き締め、もう片方の手で葵の髪を撫でる。
「あっ……せ、芹香さん……」
 なでなでなでなでなで。
「………」
 なでなでなでなでなで。
「………」
 なでなでなでなでなで。
「芹香さん……」
 なでなでなでなでなで。
「……そうですよね。きっともうすぐ会えますよね」
「………」
 芹香は葵の髪を撫でるのをやめ、葵の身体を放す。
 葵はベンチから立ち上がり、芹香に手を差し出して言った。
「それじゃあ芹香さん、そろそろ行きましょうか!」

「ひ〜〜〜〜〜っ、疲れた〜〜〜〜〜っ、もう歩けね〜〜〜〜〜っ」
「もう、情けないわね。男の子ならシャキッとしなさいよ」
「んな事言ったってなあ、センパイと葵ちゃんを探して散々走り回った上に、お前のとこの使用人を見付け次第にぶちのめしていったら、普通は身体がもたねえぞ」
「あら、私は平気よ」
「一般人みたいな顔して言うな!」
「あはは、それもそうね」
 綾香は明るく笑って言った。
 浩之は、はあっとひとつため息をつく。
「しかしまあ……なかなか会えないよなあ……」
「そうね。お互い動き回ってるからかな」
「せっかく二人っきりのデートだったのになあ……」
「………」
「葵ちゃんはさ、格闘技一筋の女の子だろ? だから映画とか連れてってもあんまり楽しそうじゃないんだ」
「………」
「今回の遊園地は珍しく楽しそうにしてくれてたのに……すぐに離れ離れだからなあ……まったく、ついてねえよ」
 浩之がまたため息をつくと、
「もうっ! しっかりしなさいよっ!」
 綾香に殴られた。
「い、いてえ……」
「あんた、葵の恋人なんでしょ!? そのあんたがそんな弱気で、誰が葵を幸せにするのよ!」
「………」
「………」
「……そうだよなあ」
 浩之はため息をつき、
「そうだよな。綾香の言う通りだよな」
 今度は明るく笑う。
「お前って案外いい奴なんだな」
「惚れた?」
「バーカ」
「あはは、私だって葵とあんたを取り合うつもりはないわよ」
 二人はしばらく笑い合った。
 その笑いが収まったところで、浩之が言う。
「だけど綾香、女の子ならグーで殴るのはやめろ。頭が割れるかと思ったぞ」

 陽はすでにとっぷりと暮れていた。
 夕焼けが芹香と葵の足許に作った長い影は、背の低い葵の方が一歩先を歩いているために、頭の高さが同じくらいになっている。
「結局、夕方になっちゃいましたね」
 葵は後ろを歩く芹香を振り返る。
「………」
 こくん。
 芹香はうなずく。
 葵からは芹香の顔は夕焼けでシルエットになってよく見えない。
 その代わり逆光で髪の縁が明るく輝いて見えて、葵はキレイだと素直に思った。
「芹香さん、そろそろアナウンスで藤田先輩と綾香さんを呼び出してもらいますか?」
「………」
 ふるふる。
「そうですよね。もうしばらく探してみましょうか」
 二人はまた歩き始める。
 五分も歩かないうちに、二人の前に人影が立ちふさがった。
「お嬢様、お迎えにあがりました」
 うやうやしく頭を下げる。
 黒服を着た、初老の男だった。
 葵は固めた拳を身体の前で構え、ファイティングポーズをとる。
 それを見て、初老の男もファイティングポーズを取る。
「ほう、なかなかやるようですな……しかしこのセバスチャン、そうやすやすと負けるわけにはいきませぬぞ」
「………」
 葵は無言でセバスチャンと対峙する。
 それを制するように、芹香がそっと葵の袖を引く。
「………」
「え? すごく強い……ですか? でも芹香さん、今は……今だけは、負けるわけにも逃げるわけにもいきませんから」
「………」
 芹香が葵の袖を放す。
 葵はセバスチャンに向き直り、
「行きます!」
 叫んでアスファルトの地面を蹴る。
 しかしそれより一瞬早く、とん、という軽い音がしたかと思うと、セバスチャンの身体が前のめりに倒れていく。
 葵が呆然と立ち尽くしていると、セバスチャンの背後から現われた人が軽く手を挙げて声をかける。
「やっほー、姉さんも葵も元気してた?」
「綾香さん! 藤田先輩!」
 葵は浩之の身体に飛び付く。
「あら〜、再会した途端に見せ付けてくれるわね〜」
「あ……」
 綾香にからかわれて、葵は慌てて浩之の身体から離れる。
 浩之は片手で葵の髪を撫でてやりながら、芹香の方に向き直る。
「もう時間がねえな……センパイ、今日のラスト、どれにする? センパイが決めてくれよ」
「………」
 芹香はゆっくりと腕を動かし、遊園地の一角を指差す。
 夕焼けで赤く染まった、観覧車があった。

 四人を乗せたゴンドラは、ゆっくりと空へ昇っていく。
 窓にへばりついて、夕焼けで真っ赤に染まった遊園地を見下ろしている芹香に、綾香は話しかける。
「姉さん、今日は楽しかった?」
「………」
 こくん。
 芹香はうなずく。
「楽しかったの? ……そう、良かったわね」
「だけどセンパイ、おばけ屋敷行けなくて残念だったよな。楽しみにしてたんだろ?」
 浩之が口を挟む。
「………」
「え? 葵ちゃんと行ってきた?」
「………」
 こくん。
「へえ、そうか。良かったな、センパイ」
「………」
「え? その時、葵ちゃんが恐がって……」
「わっ! 芹香さん! その先はやめて下さいっ!」
 葵が慌てて芹香を止めようとする。
「センパイ、ぜひ聞かせてくれ!」
「あ、私も聞きたいな〜」
「二人ともやめてくださ〜い!」
「………」
 三人が大騒ぎして、芹香だけが困った表情で黙っている。
 このやかましさは、ゴンドラが地面に降りるまで続いた。

 観覧車を降り、遊園地を出た四人を待っていたのは、セバスチャンを始めとした来栖川家の使用人一同であった。
 それぞれどこかに怪我をしているのが、葵には何となくおかしかった。
「お嬢様、お待ちしておりました」
 うやうやしく頭を下げるセバスチャン。
「ご苦労様。もう逃げたりしないから安心して」
 茶目っ気たっぷりにウインクなどして綾香が言う。
「じゃあね。葵、また機会があったらね」
「あ、はいっ!」
 そして黒塗りのリムジンに乗り込む。
 芹香もそれに続こうとしたが、一歩手前でやめて、浩之と葵のところに戻ってきた。
「どうしたんだよ、センパイ」
「………」
「え? 葵ちゃんに話がある?」
「………」
 こくん。
 芹香はうなずいて、葵の側まで歩いていく。
「どうしたんですか? 芹香さん」
 不思議そうな顔をする葵。
 芹香は軽く屈んで、自分より背が低い葵の高さに合わせて何やら話しかける。
「………」
「え? ……はい、そうですね! ぜひそうさせてもらいます!」
 葵が元気良く返事をすると、芹香は少しだけ嬉しそうな表情になって、綾香の待つ黒塗りのリムジンに乗り込んだ。
 排気ガスを上げて走り去っていくリムジンを手を振って見送り、遠ざかって見えなくなってところで、二人は並んで歩きだす。
「葵ちゃん」
「はい」
「センパイ、さっき葵ちゃんになんて言ったんだ?」
「あ、はい……学校で見かけたら話しかけて下さい、ですって」
「ふ〜ん、そうか……良かったな、葵ちゃん。センパイと友達になれて」
「はいっ!」
 明るく元気良く、葵は笑顔で返事をした。
「あ、でも……」
 そして付け加える。
「今度のデートは……やっぱり二人きりがいいです!」

夕焼けのちVサイン 了


あとがき

 ど〜も、wen-liです。
 「夕焼けのちVサイン」いかがだったでしょうか。
 今回は今まで以上に苦労させられました。
 最初は別な話を考えていたんですが、オープニングを書きながら、「この先どんなストーリーにしよーか」などといい加減な事を考えていたら、ふと思い付いたのが、今回の話でした。
 葵ちゃんの話だからとりあえず綾香は出さないとなー、綾香を出すとセットで先輩も出したいなー、などと最初は書いていたのですが、あ、葵ちゃんと先輩が仲良くなる話って面白そーだなー、じゃあ書いてみよーかなー、という感じです。
 よく葵ちゃんと琴音ちゃんを組み合わせた話はありますが、葵ちゃんと先輩という組み合わせはたぶんないですし、組み合わせとしても面白かったのではないでしょうか。
 っていうかただ単に先輩が書きたかっただけかも。
 あともうひとつ苦労したのは、今回は三人称だった事でしょうか。
 今までこのホームページで掲載していたのは一人称小説ばかりでしたが、ひさびさに三人称で書くと、なかなか書きづらいです。
 やっぱり普段から両方書いてないとダメですね。
 あとタイトルにも苦労しました。
 最初は「ダブルデート(仮)」などと読んでいたのですが、正式なタイトルが全然決まりません。
 いつもは2、3浮かんだ中からひとつに決めるのに悩むのに、今回は何一つ候補が浮かばず、結局は葵ちゃんのゲーム中のBGMのタイトルをちょこっと変えてごまかしてしまいました。

 今回、ストーリー的に面白く書けたかな、とは思いますが、葵ちゃんというキャラクターに迫れるストーリーではなく、その辺がちょっと残念です。
 いずれまた葵ちゃんの内面を表現できるお話を書きたいですね。
 いつになるかはわかりませんけど。

 おまけという事で、「夕焼けのちVサイン」後日談など。

 その1。松原葵編。
 葵 「先輩……私、格闘技同好会を辞める事にしました!」
 浩之「なんだって!? 葵ちゃん、あんなに格闘技を愛していたじゃないか! それをやめるなんて……」
 葵 「ごめんなさい……だけど私、決めたんです……格闘技同好会を辞めて、オカルト研究会に入るって!」
 浩之「がちょ〜〜〜〜〜ん!」

 ああ、どうしようもない……。

 せっかくだからその2。来栖川芹香編。
 芹香「………」
 浩之「え? センパイ、格闘技同好会に入りたいって?」
 芹香「……こくん」
 浩之「でも一体、どうして……」
 芹香「………」
 浩之「え? 友達が入っているから?」
 芹香「……こくん」

 そして数ヶ月後。
 浩之「よっしゃ、センパイも上達してきた事だし、ここらでスパーリングでもやってみるか」
 芹香「………」
 浩之「え? 恐い? 大丈夫大丈夫。手加減するから」

 そして5分後。
 浩之(……うう、イテテ……油断したかな? 一瞬でやられちまった。よく考えたらあの綾香の姉だからな。才能あるのかも……)
 芹香「………」
 浩之(……息が届きそうな距離で、センパイが心配そうに俺を見ている……後頭部のこの柔らかい感触は……もしかして膝枕?)
 芹香「………」
 浩之「あ、わりぃ、もう大丈夫だから」
 芹香「………」
 浩之「え? 無理しないでしばらくじっとしてた方がいい? そうだな……じゃあお言葉に甘えて……」
 芹香「………」
 浩之(センパイの膝枕……さっきは痛かったけど、なんか幸せだったりして)

 結局こんなオチかい。

 感想お待ちしてます。
 でわでわ。


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