この小説はTacticsより発売されたWindows95用ゲーム「ONE〜輝く季節へ〜」をもとに作成されています。
 ゲーム中のテキストから引用した文章、あるいは改変された文章が含まれています。


BLIND(後編)

 なあ、みさお。
「なに? お兄ちゃん」
 お前は……俺と一緒に過ごして幸せだったか?
「うん、幸せだったよ」
 期待していた通りの答え。
 じゃあ、今は?
 今はどうなんだ?
「今?」
 ああ。お前は今、幸せなのか?
「う〜ん……よくわかんないけど……幸せだって言ったら、お兄ちゃんは嬉しい?」
 ああ、そうだな。
「幸せじゃないって言ったら……お兄ちゃんは私と一緒にいてくれる?」
 ………。
「じゃあ幸せでも幸せじゃなくてもどっちでもいいかな」
 だけど本当はわかっていた。
 知りたいのはみさおが幸せだったかどうかじゃなくて、俺が幸せだったかどうか。
 そして今、みさおが幸せかどうかじゃなくて、俺が幸せかどうか。
 あの日、俺の心の奥底にぽっかりと空いた穴の中に向かって問いかけてみたところで、答えなど返ってくるはずもない。
 それもわかりきった事だった。

 目が覚めた。
 カーテンを開けてみる。
 最近は雨音で目を覚ます事が多かったが、今日は晴れていた。
 一月の冷たい空気の中、風に揺れる木々に太陽が降り注いでいる。
 時計を見る。
 長森が来るにはもう少し時間がありそうだ。
 制服をひっぱりだし、のそのそと着替える。
 着替えが終わった。
 長森はまだ来ない。
 しばらく待つか。
 ベッドに腰かけてボーッと長森を待つ。
 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。
 来ない。
 時間に余裕があるわけでないし、とりあえず朝飯でも食うか。
 お湯を沸かしてインスタントコーヒーを煎れる。
 由起子おばさんが作ってくれた朝飯を、コーヒーで流し込むようにして食べる。
「ふう……」
 朝飯を平らげ、ついでにコーヒーをもう一杯煎れて一息つく。
 それでも長森が来る気配はない。
「………」
 あんまりゆっくりしていると遅刻する。
 仕方ないから一人で学校に行くか。
 俺はカバンを手に取り、玄関を出た。

 教室に入ると、長森は自分の席に座って教科書を開いていた。
 俺の事を置いて先に学校に来て、その上のうのうと次の時間の予習をしているとは長森の分際で生意気な。
 ここはひとつ、ガツンと言ってやらなくては。
 俺はつかつかと長森の席に近付いていった。
 きょとんとした目で俺を見上げる長森に、俺は言ってやった。
「おい! 長森っ!」
「……え? わ、私?」
「お前の他に誰がいる! 今朝はよくも俺を置いて行ってくれたな。そんな事をしてただですむと思ったら大間違いだ!」
 そう言ってから、別に長森が俺を起こさきゃいけない義務はない事に気付いた。
 ……ま、いいか。相手は長森なんだし。
 当の長森は、指先をあごに当ててしばらく考え込み、そして恐る恐る、といった感じで口を開いた。
「……あの……どちら様ですか?」
「どちら様ってなあ、まだそんな生意気な事を……」
 え? なんだって?
 今、なんて言った?
「……それともどこかで会った事あったかな? え〜と、ちょっと待ってね。今、思い出すから……う〜ん……」
 長森は腕を組んで必死になって俺を思い出そうとしている。
 子供の頃からずっと一緒に過ごしてきた長森。
 それが俺の事を忘れるはずがない。
 しかし一方で、長森はもう二度と俺を思い出す事はできないだろうという、ほとんど確信にも近い思いがあった。
「……悪りぃ、どうやら人違いだったみたいだ」
 俺はできるだけ無感情に言った。
 それはまるで長森への思いを断ち切るような胸の痛みを伴った。
「え? で、でも……」
「じゃあな」
 引き止めようとする長森を振り払うように、俺は教室を出た。

 長森から逃げるように教室を出た俺だったが、その後に行くあてがあったわけではなかった。
 そうだ。由起子さんなら俺の事を覚えているかも知れない。
 由起子おばさんは俺の数少ない係累だ。
 長森が俺の事を忘れてしまっても、おばさんならあるいは……。
 だけどおばさんは今、仕事をしているはずだ。
 わらにもすがる思いで、職員室の前の公衆電話に向かって駆け出した。
 身体の向きを変え、大股に階段を駆け下りようとして……。
 ごんっと鈍い音がして、目の前が真っ暗になった。
 一瞬、まぶしい火花が散ったような気もする。
 割れるように痛むおでこを押さえながら、苦労して目を開けると、三年生らしい色のリボンの制服を着た女の子が尻餅をついているのが見えた。
 みさき先輩……。
 喉の奥までせり上がってきた言葉を、俺はかろうじて押さえ込んだ。
 もしもみさき先輩が俺の事を思い出せなかったら……。
 そう思うと、ただみさき先輩の名前を呼ぶ事さえためらわれた。
「いたた……あ、あの……大丈夫ですか?」
「………」
 胸の奥に痛みがこみ上げてきて、他人を装う言葉さえ出てこない。
「あの、もしかしてすごく怒ってます? それとも気絶しちゃったとか?」
「………」
「ど、どうしよう……保健室に連れて行った方がいいのかな……」
「……保健室は勘弁してくれ」
 涙でボロボロになりそうな声を、絞り出すようにして言った。
「死ぬほど痛かったけど、気絶はしなかったから」
 そしてその場から立ち去ろうとした俺を引き留めた言葉は、それを発した者にとっては何気ない物であったに違いない。
「浩平君?」
「!!」
「浩平君だよね? 今の声」
「……ああ、そうだよ」
 俺の事を覚えてくれていた。
 嬉しくて涙が溢れそうになりながら、それをこらえる。
「ひどいよ、浩平君、黙っているなんて。気絶しちゃったんじゃないかって、本当に心配したんだから」
「悪かったよ、みさき先輩……死ぬほど痛かったから、すぐに声が出せなかったんだ。先輩は本当に石頭だな」
「そんな事ないよ〜。私だって死ぬほど痛かったよ〜」
 頬を膨らませてすねるみさき先輩。
「本当に……ごめんな、先輩」
「え?」
「いや、何でもない」
 でも本当に謝らなくちゃいけない事は、みさき先輩に痛い思いをさせた事ではなく、気絶したんじゃないかと心配させた事でもなく、目の見えない先輩のために返事をできなかった事だ。
 長森に忘れられたとか、みさき先輩にも忘れられたかも知れないとか、そんな些細な自分の都合よりも、それは大切なはずなのに。
「そういえば浩平君、どこに行くところだったの?」
 先輩が無邪気に聞いてくる。
「ちょっと職員室に用事があって。先輩は?」
「私はちょっと寝坊して……あっ! いけない! 遅刻しちゃうよ〜〜〜っ!」
 みさき先輩は慌てて立ち上がると、階段を駆け上り始めた。
「浩平君、またねっ!」
「じゃあな、先輩」
 俺は先輩の背中を見送った。
 俺のクラスでもそろそろ出欠をとる頃だろうか。
 どちらにしろ、俺の名前が呼ばれる事はないのだろうが。

 みさき先輩と別れた後、俺は職員室の前の公衆電話で由起子おばさんの会社に電話をかけた。
 そして、俺は今朝出てきたばかりの家が他人の家になった事を知った。

「よお、先輩」
「えっと、その声は浩平君?」
「あたり」
 長森や由起子おばさんを始めとする、俺の周りの人達が俺の事を忘れて一週間、俺は知り合いから身を隠すように暮らしていた。
 いくら家にいる時間帯が違うと言っても、家にいるところを由起子おばさんに見られれば、家宅侵入の不審人物である。
 仕方なく公園で野宿したりと浮浪者のような生活を送っていた。
 かなりひどい格好になってはいたが、今回ばかりはみさき先輩の目が見えない事が幸いしている。
「最近、よくここで会うね」
「そうだな」
 それでも学校が終わる時間に合わせて校門の前に立ち、みさき先輩が出てくるのを待った。
 俺の事を覚えているのがみさき先輩だけだから。
 みさき先輩に会うのをやめると、世界の全てから忘れられてしまうような気がしたから。
「それじゃ帰ろうか。送っていくよ」
「うん。ありがとう、浩平君」
 そして俺とみさき先輩は、みさき先輩の家までの短い距離を並んで歩く。
 しかしお互いに口を開く間もなく、みさき先輩の家の前に着いてしまう。
「じゃあな、先輩」
 俺は手を振って、みさき先輩と別れようとした。
「あ、浩平君」
 そんな俺をみさき先輩が引き留める。
「実はもうすぐ卒業式なんだよ」
「卒業式……」
 何だかひどく懐かしい言葉を聞いたような気がした。
 もちろん俺の卒業式ではない。
 みさき先輩の卒業式だ。
「浩平君も出席してくれるんだよね?」
「もちろん」
 在校生は全員出席する事になっている。
「良かった。それを聞いて安心したよ」
 今度こそ俺達は手を振って別れた。
 問題は……卒業式の当日まで、俺がこの世界にとどまっていられるか、だ。

 そしてみさき先輩の卒業式の当日。
 俺は学校への道を歩いていた。
 背中から近付いてくる軽快な足音に振り返ってみると、長森が走ってくるのが見えた。
 2年間通って通い慣れた通学路。
 いつも長森と肩を並べて歩き……時には全力疾走だったりもしたが……。
 だけど今日は、長森は俺の横をそのまま通り過ぎる。
 まるで何も知らない人同士のように……。
「あ、あの……」
 はずだった。
 しかし長森は俺の目の前を通り過ぎたところで立ち止まり、振り返って俺を見ていた。
「………」
 とっさに言葉も出ない。
 ただ立ち尽くしてしまう。
 喜びや期待、不安や戸惑いといった感情で胸がいっぱいになってしまう。
「どうしたんですか? ひどい格好ですよ? 喧嘩でもしたんですか?」
 心配そうに俺を見る長森。
 だけどその口から出た言葉は、見知らぬ他人のための言葉。
 笑っていなくてもいい。
 怒った声でも呆れたような声でも泣き出しそうな声でも良かった。
 ただ一言、「浩平」と俺の名前を呼んでくれれば。
 淡い期待は簡単に失望へと変わり、そのまま冷たい態度につながっていく。
「……うるさいな」
「え?」
「うるさいって言ったんだよ! 俺に近付くな!」
「で、でも……」
「さっさと俺の前から消えろ!」
 差し出された長森の手を振り払う。
「………」
 こんなに邪険に扱われるとは思ってもいなかったのだろう。
 言葉をなくし、うつむいて立ち尽くしていた長森だったが、やがて顔を上げて、端から見て明らかに、無理に、とわかる弱々しい笑顔を作って見せた。
「……そ、そうですよね。私なんかに心配されても迷惑ですよね」
「そうだ。はっきり言って余計なお世話なんだよ」
「そ、それじゃあ私、先に行きますね……気を付けて!」
 最後に俺を気遣う言葉を残して、長森は走り出す。
 まるで俺の冷たい言葉から逃げ出すように。
「あ……」
 俺は悔やんだ。
 今のは俺がこの世界から消えてしまう前の、俺と長森が交わす最後のやりとりだったかも知れないのに。
 長森は俺を気遣う言葉をかけてくれたのに、俺は冷たい言葉ばかり返していた。
 やり直しを求めるように宙に伸ばされた手は、もちろん何も掴む事がなくて。
 俺はただひたすらに悔やんだ。

 卒業式が始まる時間になった。
 会場になる体育館の入り口近くには、卒業生の父兄らしい大人達の姿で溢れている。
 在校生の入場はもう終わっているらしい。
 今なら、トイレに行っていた遅れましたとでも言えば、誰にも怪しまれずに入場できるだろう。
 俺は平静なフリをしながら歩き出し……そして思わず立ち止まった。
 入り口の近くに、俺の担任だった、通称髭が立っている。
 どうやら来賓の受け付けをやっているらしい。
 素知らぬ顔をしていれば、呼び止められずにすむだろうか。
 確率は低い。
 何せ今の俺は、ここしばらくの野宿生活で、泥だらけのひどい格好になっている。
 こんな格好では卒業式に出席させてもらえないかも知れないし、最悪、何組の生徒かと聞かれたら、どんな騒ぎになるか想像できたもんじゃない。
 人混みの陰に隠れて移動すれば大丈夫だろうか。
 いや、俺を不審に思うのは髭だけとは限らない。
 どこかに誰の目にも留まる事なく、体育館に忍び込める入り口はないだろうか。
 卒業証書を受け取るみさき先輩を、遠くからでも見守ってやれる場所はないのだろうか。
 迷っている間に、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
 気が付くと体育館の大きな鉄製の扉が、微かに軋んだ音を立てながら、ゆっくりと閉じていくところだった。
 待てっ! 待ってくれっ!
 俺は走り出す。
 しかし俺が体育館に入るよりはるかに早く、扉は閉じてしまった。
 俺は一人、虚しく体育館の前に立ち尽くしていた。

 空の色は次第に青から赤へと変わっていた。
 体育館に入る事ができず、それからしばらくはどこかに入れる場所がないかと体育館の周りをうろついていた俺だったが、結局、どこにも入れる場所がない事がわかっただけだった。
 それから屋上に上がり、一人寝転がって空を見ていたのだ。
 ふと足音が寝ている俺の横をぱたぱたと通り過ぎていった。
 少しためらってから、俺は足音の主に声をかける。
「みさき先輩」
「あ、浩平君。やっぱりここにいたんだ」
「よくここがわかったな」
「だってここは浩平君とよく会う場所だもん」
 みさき先輩はにこにこと嬉しそうに笑っている。
 だけど俺は素直に笑えない。
 約束していたのに、卒業式に出席してやれなかった。
 だけど……黙っていればいい。
 黙っている限り、俺が卒業式に出席していたと、みさき先輩は思い込む。
 その方がみさき先輩だって幸せなはずだ。
「そうだ。見て。卒業証書」
 嬉しそうに、卒業証書の入った黒い筒を掲げて見せる。
「ちゃんともらってこれたよ」
「良かったな、先輩……ああ、そうだ」
 俺は屋上に寝転がっていた身体を起こした。
「みさき先輩、卒業おめでとう」
「ありがとう、浩平君」
 変に改まった態度のやり取りがおかしかったのか、みさき先輩はくすくすと肩を震わせて笑う。
「そうだ、浩平君、今から時間、ある?」
「ああ、いくらでもあるよ」
 本当の事だった。
 俺に残された時間の全ては、みさき先輩のために使う以外にないのだから。
「それじゃあ、ちょっと付き合ってくれないかな?」
「いいけど……どこに行くんだ?」
 想像が付かない。
 目の見えないみさき先輩は滅多に外出しないはずだが。
「いい所だよ」
 いつも通りの笑顔が、何となく悪戯っぽく見えた。

 デートの行き先は、学校の中だった。
 この高校の近所に住む先輩は、小学生の頃から、放課後になるとこの高校に遊びに来ていたという。
 高校生のお姉さんにお菓子をもらったり、一緒に遊んだりした事。
 先生に見付かって、高校生のお姉さんと一緒に先生から逃げ回って校舎を走り回った事。
 最後には先生に捕まって、だけど大してきつくは叱られなかった事。
 そして事故。
 永遠に光を失った日の事。
 その後も高校には通い続けた事。
 中学生になった後、盲目であるためにいじめられ、高校の中庭で一人泣いた時の事……。
 まるでそんな過ぎ去った日々がのまぶしさに目を細めるように、懐かしそうに語るみさき先輩。
 そんなみさき先輩の隣を、俺は相づちを打ったり、時々茶々を入れたりして歩きながら、胸が暖かくなるのを感じていた。
 俺もいつか、もう二度と帰らない、楽しかったり辛かったりした日々を、みさき先輩のように懐かしそうに、照れ臭そうに、そして誇らしそうに、語れるようになる日が来るのだろうか。
 みさおと過ごしたかけがえのない日々を、永遠に続くと思っていた日々を、今日より明日の方が幸せに違いないと無邪気に信じていた日々を、そしてその願いが永遠に叶わない事を知った日の事を、みさき先輩のように語れる日が来るのだろうか。
 だけどそんな日は永遠に来ないのだろう。
 そんな事ができるなら、この世界とは違う場所に、心の奥底にぽっかりと空いた穴の中に、逃げ場所を求めたりはしない。
 いつか太陽は地平線の向こうに姿を消し、赤い空は濃紺の星空へと姿を変えていた。
 そして深夜の学校のデートも終着点が近付いていた。
「ここが私の席」
 そう言ってみさき先輩は机を軽く手で叩く。
 そしてみさき先輩が盲目である事を忘れさせるような動作で、イスを引っ張り出して座る。
「ここが私がこの高校で使った、一番最後の席」
 つい昨日までこのイスに座って、先生の授業を聞いたり、友達とおしゃべりをしたり、お弁当を広げてたりした場所。
「だけど……明日からは誰か知らない人が使うんだね」
「もしかすると俺が使う事になるかもな」
「だったら嬉しいけど……大切に使ってよね、浩平君……あっ」
 みさき先輩は短い声を上げて、机の中から一冊の本を取り出した。
「返すの、忘れてた」
「先輩、本なんか読めるのか?」
「私でも読める本だよ。ほら」
 そう言ってページをめくって見せる。
 ページを埋め尽くすのはインクの活字ではなく、小さな凹凸。
 なるほど、点字の本か。
「返してこないと」
「いいよ。俺が行って来るよ」
 席を立とうとする先輩を、俺は制した。
「でも……」
「いいからいいから。先輩はここで待っていてくれ」
「うん……それじゃあお願いしようかな」
 点字の本と図書館の鍵を受け取って、俺は教室を後にした。

 何度も道に迷いながら、苦労して図書館の前にたどり着いた。
 みさき先輩から預かった鍵を使って戸を開ける。
 何気なく開けた戸の向こう側は真っ暗だった。
 壁を手探りしてスイッチを探し、電気を点ける。
 たちまち図書室は蛍光灯の光に照らされ、いつも通りになった。
「………」
 それからふと思い立って、電気のスイッチを切る。
 分厚いカーテンで窓を閉め切った図書室は、一切の光のない、闇の世界に戻った。
 これがみさき先輩の世界。
 盲目になったみさき先輩が、ずっと一人で過ごしてきた、闇の世界。
 俺は電気のスイッチを入れる事なく、一歩、慎重に図書室の中に足を踏み入れた。
 二歩、三歩。
 ……確かこの辺にテーブルとイスが並んでいたはず。
 それを避けるように足を運んでいく。
 何だ、思ったより簡単じゃないか。
 もう少しでカウンターに手が届くはず。
 あと三歩、二歩、一歩……。
 しかしなかなかカウンターには届かない。
 おかしいな、と思いつつ、そのまま足を進めていくと……。
「うわっ!」
 何かに足を取られて、みっともなく転んでしまった。
「イテテテテテ……」
 ぶつけた膝をさすりつつ、もう片方の手を床について立ち上がる。
「うわっ!」
 また情けなく悲鳴を上げてしまった。
 手を床以外の物についてしまい、それがひっくり返ったため、バランスを崩してしまった。
「落ち着け、落ち着け……」
 所詮は図書室だ。
 別に暗闇の中から化け物が襲いかかってくるわけじゃない。
 冷静になって手探りしてみる。
 手に触れたのは、冷たい感触の細長い物。
 図書室にある物の中で、この形と感触に当てはまる物は……。
 そうか。パイプイスの脚だ。パイプイスがひっくり返っていただけなんだ。
 正体が分かると、笑ってしまいたい気分になった。
 ただのイスひとつに、俺は何をみっともなく慌てていたんだろう。
 再び手探りで、イスのない場所を探し、そこに手をついて立ち上がる。
 今度は何事もなく立ち上がる事ができた。
 さて、と。ずいぶんと時間を喰ってしまった。
 みさき先輩から預かった本をカウンターに戻さないと……。
「………」
 あれ? カウンターはどっちの方向だ?
 それより、俺が立っている場所は?
 向いている方向は?
 先輩から預かった本は?
 そしてそもそも、俺が入ってきた戸はどっちだった?
「………」
 言い知れない不安が襲ってきた。
 不意に胸全体が締め付けられたように息苦しくなって、泣き出したい気持ちになった。
 自分がいた場所も、自分がいる場所も、そして行くべき場所さえもわからない。
 まるで世界にたった一人で放り出されたような……。
 これがみさき先輩の世界。
 盲目になったみさき先輩が、ずっと一人で過ごしてきた、闇の世界。
 こんな世界に、みさき先輩は生きていた。
 そして何でもないように、笑っていた。
 その不安を、孤独を、誰にも見付けられないように笑っていた。
 そんな事が俺にはできるのか?
 ……強い人なんだな、先輩は。
 心の底から、そう思った。
「浩平君? いるの?」
 その時、みさき先輩の声が聞こえてきた。
 声の聞こえてきた方を振り返る。
 四角く切り取られた光の中に、誰かのシルエットが浮かび上がる。
 みさき先輩に違いない。
「先輩っ!」
「きゃっ!」
 俺はみさき先輩の手を取った。
 急に手を掴まれて、先輩がびっくりして悲鳴を上げる。
 緊張して少し強張ったような感触がしたけど、それでも間違いなくぬくもりは伝わってきた。
 ただそれだけなのに、今までの不安と孤独がいっぺんに吹き飛んでしまったような気がした。
「い、今、私の手を掴んでいるのは誰なの?」
「先輩……俺だよ。折原浩平だよ」
「浩平君……なの?」
「ああ、そうだ」
「本当にびっくりしたよ……それで浩平君、いつまで手を握ってるの? あ、別に浩平君と手をつないでいるのが嫌な訳じゃないんだけど」
「あ、悪い」
 俺は慌ててみさき先輩の手を放した。
 急いで電気のスイッチを入れる。
 再び明るくなる図書室。
 すぐにみさき先輩から預かっていた本を拾い、カウンターの上に置く。
 テーブルとイスがめちゃくちゃにひっくり返っていたが、そのままにしておく。
 明日の当番の図書委員の人には悪いんだけど。
「浩平君、何かあったの?」
 小首を傾げて、みさき先輩が聞いてくる。
「何でもないよ。ただちょっと停電になって、その間にイスに足を引っかけて転んだだけだよ」
「ふうん、そうだったんだ」
 そんなやり取りをしながら、二人分の足音とみさき先輩の盲人用の杖の音だけを残して、図書室を後にする。
「さっき浩平君に手を掴まれた時は、口から心臓が飛び出るかと思ったよ」
「悪かったな。今度からはちゃんと一言断ってからにするよ」
「うん。約束だよ」
 そんな冗談めかした事を言い合っている間は、孤独も不安も忘れてしまえた。

「もう一カ所、行きたい場所があるんだけど」
 そう言うみさき先輩に連れて行かれた場所は、屋上だった。
 濃紺の布を頭上いっぱいに広げたような夜空を、無数の星々が彩っている。
 ちょっとじゃなく風が強く、みさき先輩は長い髪が乱れるのを懸命に押さえていた。
「ここが、私がこの学校で一番好きな場所」
 振り返って、みさき先輩が言った。
「私は目が見えないけど、ここだけは、夕焼け空の下にいる事を感じられる場所」
 目を細めて、本当に嬉しそうに笑う先輩。
「そして浩平君と出会った場所」
 ほのかな星明かりの下、とても誇らしそうに笑う先輩。
 俺はそんなみさき先輩を、心の底からキレイだと思った。
 そして、本当に強い人だと思った。
 俺は今まで、あんな風に笑った事はあっただろうか。
 もしあったとしても、それはみさおを失う前の事だろう。
 みさおを失った後の俺は、身体の中に魂の残骸だけが残ったような状態で生きていた。
 みさき先輩だって、俺と同じくらいの悲しみを背負って生きているというのに。
「浩平君、今日は本当にありがとう」
 みさき先輩は言った。
「今日一日、私の最後の高校生活に付き合ってくれて。そして私の卒業式に出席してくれて」
「そんな、俺は何も……」
「浩平君がいなかったら、私、この学校を卒業できなかったと思う」
 みさき先輩が不意に、そんな事を言った。
「え?」
「私ね、本当はこの学校を卒業するのが恐かった。この学校以外の場所で、目が見えていた頃の記憶がない場所で、うまくやっていける自信がなかった」
「………」
「そんな気持ちのままで卒業式に出席しても、きっと社会に出て何か辛い事があったら、またこの学校に戻ってきていたと思う」
「………」
「でも……浩平君のおかげだよ」
 みさき先輩は言った。
 さっきまではとても誇らしそうに見えた先輩の笑顔。
 でもどこかにかげりが見えるような気がした。
「浩平君が見送ってくれたから、私は胸を張ってこの学校を卒業できたんだよ。そして……」
「………」
「浩平君が手を引いてくれるなら、この学校以外の場所でもやっていけると思うんだよ」
「先輩……」
 喉の奥から絞り出された声は、自分の声だった。
「先輩っ!」
「こ、浩平君!?」
 俺はとっさにみさき先輩の身体を抱き締めていた。
「ごめん、本当にごめん……」
 卒業するみさき先輩を、見送ってあげられなかった。
 ただの三年間の高校生活の締めくくりじゃない。
 今日の卒業式は、光を失う前の思い出に逃げ場所を求めていた、光を失った後の生き方との、訣別の日だったのに。
 今までの不安と孤独と、これからの喜びと悲しみと……「卒業」という短い言葉に、みさき先輩は万感の思いを込めていたのに。
 そんなみさき先輩の決意を、弱さを、ちっともわかっていなかった。
 卒業するみさき先輩を、見送ってやれなかった。
 見付かったら卒業式に出席できないとか、不審人物と思われて騒ぎを起こしたら面倒だとか、そんな事をばかりを考えていた。
 みさき先輩の卒業式に出席する事よりも、見付かって騒ぎを起こさない事の方を重要視してしまった。
 一生に一度の、みさき先輩の「卒業式」だったのに!
 挙げ句に「黙っていればわからない」だって!?
 ふざけるな!
「ごめん、本当にごめん……」
 ただひたすら「ごめん」という言葉を繰り返しながら、俺はみさき先輩の華奢な身体を抱き締め続けていた。
 いきなりの事で驚いただろう。
 だけどみさき先輩は、戸惑いながらも俺の事を受け止めてくれていた。
 ひたすら同じ言葉を繰り返す俺を抱き締めて、優しく背中を撫でてくれた。
 涙が溢れて、止まらなかった。

 翌朝、俺は学校の前に立っていた。
 朝といっても、時計はすでに十時を少し回っている。
 学校では長森を始めとする、俺のクラスメートだった人達が授業を受けているはずだが……すでにそのクラスに俺の席はない。
 すでに俺の事はみんなの記憶から消え去っているはずだ。
 学校に背を向ける。
 そこはみさき先輩の家。
 今日、用事があるのはこっちの方だった。
 昨晩、みさき先輩とデートの約束を取り付けたのだ。
 しばらく待つと、玄関のドアが開いてみさき先輩が出てきた。
「先輩、おはよう」
「あ、浩平君、おはよう。待ったかな?」
「いや、今来たところだ……あ、先輩、今日は制服じゃないんだ」
「私、昨日で卒業したんだよ。それなのに制服を着てたら、変な人だよ」
「それもそうだな……今まで制服姿の先輩しか見た事なかったから、ちょっとびっくりした」
「そうだね……ねえ、似合うかな?」
 そう言ってみさき先輩は、おどけてその場でくるっと一回転してみせる。
「自分じゃよくわからないから……」
「ああ、バッチリ似合ってるよ、先輩」
「ありがとう、浩平君」
 くすくすと笑うみさき先輩。
 春の柔らかな陽光の下で笑うみさき先輩は、お世辞抜きでキレイだった。
 ずっとこんな暖かい場所にいたい。
 優しく笑うみさき先輩の隣で、永遠に彼女の幸せだけを考えてあげたい。
 だけどそれは……。
「浩平君、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
「そうだな……商店街の方に行こうと思うんだけど」
「いいね。私、久しぶり」
 何年振りかな? と先輩は指折り数える。
 俺は先輩の方に手を差し出す。
「ほら、先輩」
「………」
 先輩は言葉の意味がわからなかったのか、それともまだ迷いがあったのか。
 一瞬だけためらってから、俺の方に手を差し出す。
 俺は差し出された手を握る。
 細くて、柔らかくて……そして少しひんやりとした手。
 軽く握っただけなのに、心の隅々まで暖かくなる。
「行こうか、先輩」
 そう言って、一歩を踏み出す。
 だけどみさき先輩は足を動かさない。
 俺は軽く先輩の手を引いて、また促す。
「先輩、行こう」
「………」
 みさき先輩はしばらく黙ったままだったが、やがてゆっくりと口を開く。
「浩平君……浩平君の事、信じていいんだよね?」
「………」
「ごめん、浩平君。私、浩平君の事、信じる。信じるって決めたから」
「先輩……ありがとう、先輩」
「行こう、浩平君」
 そう言ってみさき先輩は一歩を踏み出した。
 最初の一歩を。

 平日の昼前という時間の商店街は人影もまばらで、見慣れた放課後の商店街と比べると、どうしても寂しいような気がしてしまう。
 だけど目の見えないみさき先輩には、その方が都合が良かった。
 季節が春へと姿を変え始めている街並みは、人影は少なくても、気分を陽気にさせるような暖かい空気が流れている気がした。
 そこかしこに咲いている桜の花びらが舞い散り、歩道を桜色のまだらに染めている。
 たまにすれ違う人達も、春らしい装いと笑顔が溢れていた。
 そんな商店街を、俺はみさき先輩と並んで歩く。
 特に行き先も決めず、足の向くままに歩き、気の向くままに店先のウィンドウをのぞき込む。
 目の見えないみさき先輩のために、ショーケースを飾る品物の様子を、下手なりに何とか説明して、値札に並ぶゼロの数を数えたりして、二人してため息をついたり、顔を見合わせて吹き出したりする。
 もちろん、途中でパタポ屋のクレープを買ったり、山葉堂のワッフルの新製品をチェックするのも忘れない。
 もし俺が忘れていたとしても、みさき先輩は忘れないか。
 そして十二時の昼食を挟み、また商店街をぶらついて、三時頃には桜が満開の公園で休憩する事になった。
 二人で並んでベンチに座る。
「浩平君、今日は本当にありがとう」
 不意にみさき先輩が言った。
「私、こんなに楽しかった事って、本当に久しぶり」
「俺の方こそ、本当に楽しかったよ」
「そう……でも私、また浩平君に迷惑かけちゃったかな?」
「迷惑なんかじゃないって」
 目の見えないみさき先輩の手を引いて、先輩の目の代わりになって、道行く人とぶつからないように注意したり、街並みの様子などをいちいち説明するのは、確かに楽な事ではなかった。
 だけど大好きな人のためなら、少しも負担だとは思わなかった。
「浩平君、ひとつわがままを言ってもいいかな?」
「どうぞ」
「私ね、いろんな所に行ってみたいな」
 みさき先輩は、見えない目で空を見上げる。
 晴れ渡った春の青空。
 春には商店街よりももっと桜が多い、大きな公園。
 夏は熱い太陽の光を照り返す、視界いっぱいに広がる海。
 秋は冷たくなってきた風に舞い落ちる、紅葉に彩られた山々。
「でも、冬はコタツでミカンがいいかな? 私、寒いの苦手だから」
 ちょっと脱線して、小さく舌を出す先輩。
 今まではまぶたの裏側に想像していた世界。
 本物はまぶたの向こう側にある事を知っていながら、足を踏み出して、手を伸ばしてそれに触れる勇気はなかった。
「だけど浩平君と一緒なら……浩平君が手を引いてくれるなら、どこまでもいける気がするの」
 そう、俺だって同じ気持ちだよ。
 みさき先輩と一緒なら……みさき先輩の手を引いているのなら……。
「そうだな……いつか一緒に行きたいな」
「いつか、じゃなくて」
「悪い、今すぐにも行きたいな」
「うん」
 嬉しそうにうなずく先輩。
 その時、近くでアイスクリームの移動販売の車が止まっているのに気付いた。
「お、もうアイス売ってるのか?」
「日差しも暖かくなったからね」
「買おうか?」
「だったら、私が買ってくるよ。浩平君はここで待ってて」
 すでにベンチから半分腰を浮かせている先輩。
「大丈夫か、一人で?」
 俺はちょっとからかい口調で言った。
「それは、年上に言う言葉じゃないよ」
 ちょっとすねた表情を見せながらも、微笑んでくれる。
「じゃあ、オレここで座って待ってるから。お願いしようか」
「うん。任せてよ」
 可愛らしく見えるガッツポーズを作って見せて、みさき先輩はアイスクリームの移動販売の宣伝文句が聞こえる方に歩いていく。
 しかし、途中で立ち止まって振り返る。
「抹茶とバニラ、どっちがいい?」
「抹茶は売ってないみたいだぞ。チョコレートならあるけど」
「そうなんだ…私、好きなのに」
 がっかりしたように顔を伏せる。
「先輩に嫌いな食べ物なんてないだろ」
「そんなことないよ、らっきょだけは食べられないんだ」
「それ以外は何だって食べられるんだろ?」
「それで、浩平君は何にするの?」
 わざとらしく話を逸らす先輩。
「俺、バニラがいい」
「だったら私はチョコミントにするよ」
 もう一度振り向いて、先輩は歩き始める。
 確かな足取り。
 とても目が見えない人とは思えない足取り。
 少し遠ざかり、少しだけ小さくなった背中を……。
 俺は……。
「先輩!」
 俺はベンチから腰を浮かせて、思わず叫んでいた。
 立ち止まってゆっくりと振り返る先輩。
「……どうしたの? 浩平君」
 きょとんとした表情が浮かんでいる。
「……いや、何でもない」
「おかしな浩平君」
 くすっと笑って、みさき先輩はまた振り返って歩き始める。
「………」
 そして俺は一人、どかっとベンチに腰を下ろした。
 先輩の背中が小さくなっていくのを、今度こそ見送る。

 なあ先輩、俺はずっと考えていたんだ。
 多分、俺と先輩の気持ちは一緒だったんだと思う。
 みさき先輩と一緒なら、みさき先輩の手を引いていれば、一人では行けないような遠い場所にだって行ける気がする。
 長森や由起子おばさんに忘れられたって、ただみさき先輩のためだけに、この世界にとどまれそうな気がしていた。
 きっとそうしていれば、ずっと幸せな気持ちでいられると思う。
 だけど……だけどそれはきっと、何かが違っていると思う。
 子供の頃、みさおと過ごす時間だけが世界の全てだと思っていたあの頃と、何も違わないと思う。
 たとえ二人が一緒なら世界のどこまででも行けたとしても、一人の時は自分の存在ひとつさえこの世界にとどめる事ができないなら……一人の時は自分の家と通い慣れた学校以外に居場所を見付ける事ができないなら……。
 それは本当の幸せといえるのか?
 それはただの、幸せのフリをした、「幸せのような物」に過ぎないんじゃないか?
 「幸せのような物」じゃない、本物の「幸せ」がどんな物なのか、俺にはわからない。
 だけど……みさおの事を引きずったままの俺のままじゃ、みさき先輩を好きでいる資格なんてないと思う。
 そして自分の周りに広がる世界の全てを見ようとせず、目が見えていた頃の世界と自分にとどまっているみさき先輩だって、それは一緒なんじゃないか?
 それが簡単な事じゃないのはわかっている。
 そしてそんな事はせず、「幸せのような物」を本物の「幸せ」だと思い込んで暮らしている人がたくさんいる事だって知っている。
 だけど……。
 それじゃ俺達は子供のまま、一歩も踏み出せないんでいるんじゃないのか?
 いつまでもあの頃から旅立てないんでいるんじゃないのか?
 そして……あの頃の幸せだと思っていた日々から卒業できないでいるんじゃないのか?
「お待たせ、浩平君」
 みさき先輩の声が聞こえる。
 だけどその姿は輪郭がぼやけている。
 その理由がまぶたから溢れて流れ出した涙による物なのか、それともそれ以外の理由なのか、よくわからない。
 でもどちらでもいい。
 きっとどちらでも何も変わらないだろう。
「ほら見て。おじさんにひとつおまけして貰ったよ」
 ああ、そうだ。
 先輩に謝らなくちゃいけない事があったんだ。
「新発売のヨーグルト味なんだって」
 ずっと隠していたけど、卒業式、本当は出られなかったんだ。
「ね。これ私が食べてもいいのかな?」
 約束していたのに。
 ごめんな、先輩。
「はい、これは浩平君の分だよ」
 それから、俺はこれから遠くに旅に出なくちゃいけない。
「あ…えと。どっちがバニラなのかな…?」
 きっとしばらく帰って来れないし、もしかすると、永遠に帰って来れないかも知れない。
 それとみさき先輩をここに置き去りにする事になる。
「あはは、分からないよ…」
 みさき先輩が目が見えない事を知っていて、だ。
 本当にひどい奴だと自分でも思うけど……これは俺にもみさき先輩にも必要な事だと思うから。
「…はい、浩平君が選んでね」
 俺の事、憎んだって構わない。
 罵ったって構わない。
「どうしたの、浩平君?」
 だけど俺だって平気でこの道を選んだわけじゃないんだ。
 それくらいはわかってくれるよな?
「早くとらないと、私が全部食べちゃうよ?」
 先輩……本当にごめんな。
 卒業式、出られなかった。
 卒業していく先輩の事、見送れなかった。
 そしてその事をずっと隠してきて、最後まで言えなかった事も謝らなくちゃいけない。
 俺が遠くに出かける事、言えなかった。
 さよならの一言も言えなかった。
 みさき先輩を一人にする理由も言えなかった。
 それから、先輩の事が本当に好きだって事さえ、最後まで言えなかった。
 どんなに謝っても足りないけど……もし今日のデートが少しでも楽しかったら……みさき先輩が自分だけの力でこの世界に一歩を踏み出す、そのきっかけだけでも捕まえる事ができたら……それで許してくれよな? 先輩。
「…どうしたの、浩平君?」
 先輩が呼んでいる。
「早く食べないと、アイスクリーム溶けちゃうよ?」
 心配そうな声で俺の事を呼んでいる。
「…どうしたの…?」
 いけない。
 早く答えてあげないと。
「…どうして…何も話してくれないの……」
 先輩は目が見えないから。
 一緒にいる時はちゃんと返事をしてあげないと。
「浩平君…」
 せめてこの世界にいる最後の瞬間までは。
「冗談…だよね…?」
 先輩の事を一番に考えてあげなくちゃ……。

「お兄ちゃん……」
 俺の腕の中に、小さなぬくもりがあった。
 それが幼い頃に俺のそばから消えてしまい、それ以来、ずっと心の片隅で追い求めていたぬくもりである事は、すぐにわかった。
「どうしたの? お兄ちゃん」
 俺が黙っているのを心配したのか、みさおが問いかけてくる。
「お兄ちゃん、嬉しそうじゃない。どうしたの?」
 ………。
「みさおと一緒にいられるのが嬉しくないの?」
 そんな事ないよ。
 みさおと一緒にいるのが嬉しくないはずがないよ。ただ……。
「ただ?」
 ただ、これからやらなくちゃいけない事が、辛いだけなんだ。
「………」
 みさおに、伝えたい言葉がある。
 伝えなくちゃいけない言葉がある。
 そのために俺はここに来たんだから。

 人でごった返す学校の食堂。
 人と人の間を泳ぐようにかき分けて進み、目的の人達を探し……そして見付けた。
 食堂の一角、周囲のやかましさから切り取られたような場所に、彼女らを見付けた。
「よお、先輩に澪」
「あ、浩平君」
「♪〜〜〜」
 二人は俺に気付いて顔を上げる。
「二人とも何やってたんだ?」
「お話ししてたんだよ」
 楽しそうに笑う先輩と、同じく楽しそうに笑って、うんうんと何度もうなずく澪。
「お話? どうやって……」
 当然のように浮かんだ疑問を最後まで口にする前に、答えはすぐにわかった。
 先輩のほっそりとした手を、澪の小さくて可愛い手が握っている。
 なるほど。
 先輩の手に字を書いていたのか。
「それで、どんな話をしてたんだ?」
「えっとね、澪ちゃんが『こんにちは、今日はいい天気ですね』って」
「♪♪♪〜〜〜〜〜」
「それだけなのか?」
「うん、それだけ」
 その後も二人はのんびりとマイペースでコミュニケーションを続けていた。
 何か微笑ましい光景だった。
「あ、浩平。やっとたどり着いたよ〜〜〜」
 そう言って俺達のテーブルに倒れ込むてりやきバーガーの山……じゃなくて、てりやきバーガーの山を抱えた長森瑞佳。
 これだけの荷物を抱えてひとごみの中を抜けてきたのだから、鈍くさい長森には大変だっただろう。
「浩平、来てるなら手伝ってくれれば良かったのに〜」
「悪い悪い、だけど俺も今着いたところなんだ」
「あ、そうだったんだ」
「ところでこれ、全部お前が喰うのか?」
「そんなわけないよ〜」
 そう言ってからかってはみたが、もちろん答えはわかっている。
 食べるのは長森じゃなくて、その後ろにのうのうとひっついていた、椎名繭だ。
 もっとも、こいつが喰うと言っても全部喰う訳じゃない。
「お前なあ、毎日毎日、飽きもせず、これだけ大量のてりやきバーガーを買わせるなあ。一種の才能だぞ、長森」
「だってだって〜〜」
「これからお前の自己紹介の特技の欄には、『椎名繭に大量のてりやきバーガーを買わせる』って書くぞ」
「浩平が書いたら自己紹介じゃないよ」
 俺と長森がつまらない言い合いをしている間にも、椎名は澪の隣の席に陣取っててりやきバーガーをパクついている。
 今は勢いよく食べているが、どうせ2つ目か3つ目でダウンするのがいつものオチだ。
「あ、残ったら私が食べるから」
 嬉しそうにみさき先輩が言う。
「ほら、川名先輩もそう言っている事だし……」
「そういう問題じゃないだろ!」
 などと俺と長森が言い合いをしていると、別の人影が現れた。
「さあ折原! このお弁当を食べてもらうわよ!」
 メラメラと真っ赤に燃える炎をバックに入場してきたのは、七瀬留美だった。
「ぐわっ、今日も作ってきたのか……懲りない奴め」
「今日のは傑作なんだから! 折原がどんなにひねくれていったって、絶対においしいって言うわよ!」
 それは一週間ほど前の事だった。
 俺と長森と七瀬は教室で昼飯を喰っていた。
 俺は長森の弁当からおかずの一口サイズハンバーグを略奪して食べ、そしてこう言ったんだ。
「いやあ、長森は本当に料理がうまいなあ。どこぞの母親の作った弁当を持ってきている奴とは大違いだ」
「くっ……」
 悔しそうに唇を噛む七瀬。
「やっぱり料理上手は真の乙女の必須条件だよなあ」
「真の……乙女!?」
 その時、確かに七瀬の目が光ったような気がした。
 翌日、七瀬は早起きして自分で弁当を作ってきて、俺に食べさせた。
 そして、七瀬は見事に玉砕した。
 もちろん、俺をしっかりと巻き添えにして。
「絶対に喰わない!」
「今度こそちゃんとできてるわよ」
 そう言って弁当箱のフタを開ける七瀬。
 うわ〜っと一同から感嘆の声が上がる。
 ついでに、こんなおいしそうなお弁当を作ってもらえる浩平は幸せ者だね、と長森がつぶやくのが聞こえる。
 しかし、この見てくれに何度だまされた事か。
 俺が意地でも箸を付けないでいると、不意に横から控えめな声が聞こえた。
「あの……七瀬さん」
「うわっ、里村、いつのまに」
「……さっきからずっといました。七瀬さんと一緒に来たんです」
 あ、そうか。
 メラメラと七瀬の背後で燃え上がる炎に隠れて気付かなかったのか。
「七瀬さん、ひとつもらってもいい?」
 うわっ、なんて命知らずな。
「あ、うん! もちろんいいわよ」
 もちろん里村の申し出を断るはずがない七瀬。
「それではいただきます」
 行儀良く七瀬の弁当に箸を伸ばす里村。
 箸に取り、口にしたのは、キレイな焦げ目の付いた卵焼き。
 そして出てきた一言。
「……おいしいです」
「ほ、本当か!?」
「はい、本当です。浩平も食べてみて下さい」
「そ、そうか」
 里村がそう言うのなら。
 卵焼きを箸に取り、口にする俺。
 そして。
「ぐわっ」
「甘くておいしいです」
「あ、お塩とお砂糖を間違えたみたい♪」
「お、お前らなあっ!」
 あはは。
 誰かが笑い声を上げ、それにつられて全員が笑い出す。
 みさき先輩は口に手を当ててくすくすと笑っている。
 澪は声は出ないけど、お腹を抱えて笑っている。
 長森は「浩平に悪いよ」とか言いながら、声を上げて笑っていた。
 椎名はよくわからなさそうだったけど、それでも目を細めて嬉しそうな顔をしていた。
 七瀬はてへへと舌を出しながら笑っていた。
 里村はみんなを見守るように微笑んでいた。
 そして気が付くと、俺が一番大きな声で笑っていた。

「そう……」
 みさおの寂しそうな声。
「みさおは必要なくなっちゃったんだ」
 違うよ。
「え?」

「お兄ちゃん!」
 ちょっと甲高い声が聞こえてきた。
「ごめんね、友達と話してたら遅くなっちゃった」
「ああ、みさおか。ちょうどいいところに来た。兄さんは危うく殺されるところだったぞ。せめて最期の言葉くらい聞いてくれ」
「今日も七瀬さんのお弁当? 本当に大げさなんだから」
 くすくすと笑って、みさおは弁当の包みを俺の前に広げる。
「はい、お弁当。お兄ちゃん、お腹空いたでしょ?」
 みさおが弁当箱のフタを開けると、再び感嘆の声が上がった。
 見てくれだけの七瀬の弁当と違って、みさおの弁当は味も折り紙付きだ。
「いいなあ。私も明日からお弁当作ってこようかなあ」
 みさき先輩がにこにこと笑って言う。
 澪もうんうんと何度もうなずいている。
「♪♪♪」
 椎名も何だかやる気らしい。
 頼むからやめてくれ、結果が見えてるから。
 そんなこんなで、短い昼休みの時間はいつものように過ぎていく。

 夕焼けが全てを真っ赤に染める学校の屋上。
 そこにフェンスに背中を預けながらおしゃべりする、二人の少女の姿があった。
「悪いっ! 先輩、みさお!」
 そして息を切らせて屋上に上がってきた俺。
「遅刻だよ、浩平君」
 責めるような言葉だけど、口調と表情はそれを裏切っていた。
「お兄ちゃん、言い訳は?」
 からかうようにみさお。
「う……今日は掃除当番だったんだ」
「あ、そうだったんだ」
「うん、そうなんだ。俺に無理矢理掃除をさせようとする長森の魔の手を振り切って、命からがらここにたどり着いたんだ」
「お兄ちゃん、また掃除さぼって、長森さんに押し付けたんだ」
「うっ」
「しかも私達に掃除で遅れるって言わないで」
「うっ」
 みさき先輩まで。
「これはお仕置きだね」
「ぐあっ」
「冗談だよ、お兄ちゃん」
 全く、二人とも……さてはさっき二人で話していたのは、今の打ち合わせだったのか?
「そろそろ帰ろうか」
 みさき先輩が言う。
 そして両手を差し出す。
 その右手を俺が取り、左手をみさおが取る。
 そして三人で三階に下りる階段へと歩いていく。
「私、パタポ屋のクレープが食べたいなあ」
 と、みさき先輩。
「え〜。私は山葉堂のワッフルが食べたいんだけど……」
 今度はみさお。
 そして二人の視線が俺の顔に集中する。
 そうだなあ。
「俺は小吉ラーメンのキムチラーメンが食べたい」
 そして、胸を張って言った。
「じゃあパタポ屋と山葉堂と、両方に行こうか」
「うん、賛成賛成」
「だから小吉ラーメン……」
「でもこの時間にラーメンなんか食べたら、晩ご飯が食べられなくなっちゃうよ」
「みさおならともかく、みさき先輩はそんな事ないだろ!」
 それはいつもの放課後の風景だった……。

「………」
 伝わっただろうか?
 俺の気持ちは。
 決して必要なくなったわけじゃない。
 決して忘れたりなんかしない。
 そしてもう二度と会えなくなる事が、決して平気な訳じゃない。
 だけど、伝えなくちゃいけない。
 俺のこの思いは。
 俺のこの気持ちは。
 そして一番大切な言葉は。
 うまく言えないけど……今でも迷ってしまいそうだけど……正しい選択かどうかわからないけど……本当に、本当に……俺は……。
「そっか」
 みさおが言った。
 そして今までごく自然に感じていた、小さなぬくもりが俺の身体から離れる。
「わかったよ。お兄ちゃん」
 そうか……ごめんな、みさお。
「ううん、お兄ちゃんが謝る事ないよ」
 そう……そうなんだろうか。
「だから、みさおは笑って言うよ。バイバイ、お兄ちゃん」
 バイバイ……さようなら、みさお。
 そして……ありがとう、みさお。
 今までずっと、俺の心の支えでいてくれて……。

「浩平君!」
 鋭く叫ぶ、みさき先輩の声。
「……先輩?」
 気が付くと、泣き出しそうなみさき先輩の顔があった。
「どうしたの? ぼんやりしてたの?」
「ああ……悪かった」
「ううん、いいんだけど……はい、アイス。溶ける前に食べないと」
「ああ」
 バニラの方を選んで、受け取る。
 みさき先輩は俺の隣に座った。
「あ、ヨーグルト、私が食べちゃっていいかな?」
「いいよ」
「わ〜い」
 嬉しそうにアイスを食べ始める。
「ねえ、浩平君」
「ん?」
「この後、どこに行こうか?」
「そうだ……どうしようか」
「私、行ってみたい所があるんだけど……いいかな?」
「わかった。それじゃあそこに行こうか」
「え? いいの?」
「おう、俺にバッチリ任せておけ」
「わ〜い♪」
 みさき先輩が嬉しそうに笑う。
 永遠よりずっと短い時間だけど……俺達の時間は、まだまだ長いはずだから。


BLIND(後編) 了


あとがき

 ど〜も、wen-liです。
 たいへんにたいへんにたいへんに長らくお待たせしました。
 「BLIND(後編)」、いかがだったでしょうか。

 とりあえずONE二次創作第三弾みさき先輩編「BLIND」は無事完結しました。
 前編執筆当時は覚醒剤不法所持で捕まっていた槇原敬之も、現在ではしっかり復活していますし。
 本当にめでたい限りです。
 ……………。
 …………。
 ………。
 ウソです。ごめんなさい。
 長らくお待たせして、本当に申し訳ありませんでした。
 こんないたらない私を許していただけるという寛大な方は、まず前編から読み返していただけると堅く堅く信じております。

 えっと、この後、あとがきでONE本編の欠点と自分の二次創作小説での改良点、みたいのを列挙していくのが全二作でのパターンだったのですが。
 今回はたくさん書く事があって面倒だし、そもそもこの一連のシリーズの主旨を考えると、書く必要はないと考えました。
 そういうわけなので、そういう話を期待していた人は、自分で探し出して、メールなり掲示板なりで私にお伝え下さい。
 お返事は必ずしますので。

 でもちょっと補足という事で。
 今回の「BLIND」の主旨は、全二作の「ONEをより面白くする」という物とは違っています。
 一つは「ONEの本来あるべき姿を書く」であり、二つ目は「ONEの良い所、悪い所について、もう一度考えるきっかけを作る」ために、というのが主旨です。
 従って完成度、という点では完璧にはほど遠いです。
 例えば、クライマックスの永遠の世界のシーンで、それまで影も形も出ていない、七瀬、茜、繭といったキャラクターが降って湧いたように出てくるところとか。
 そういうわけですので、あまり細かい揚げ足取りはせず、私がどういう作品を書きたかったのか、という事を考えてもらえると嬉しいです。

 それともう一つ補足。
 本作では、みさき先輩が折原浩平君の卒業式に出席するシーンを入れませんでした。
 このシーンは私がONEの中でも一番好きなシーンなのですが、このシーンは前述した本作の主旨とはどうしても相容れない要素があり、本作には入れませんでした。
 誤解のないように、お断わりします。

 それから、「BLIND」完結という事で、次回作の事が気になる人も多いと思いますが。
 「いつもそばにいる君へ」、「雨の日の待ち人」、「BLIND」のような、「ONE本編と基本的には同じ筋道の二次創作小説」については、今後、書く予定はありません。
 何年待っても、ONEと同じ筋道で、七瀬留美や椎名繭、上月澪をヒロインに据えた作品を書く事はないと思います。
 一応、ONEと違う筋道の物については書く可能性はありますが、これからはオリジナルの小説をメインにしていこうという、この「私はここにいます。」の今後の方針もあり、今後のスケジュールには組み込まれていない状態です。
 っていうか時代はとっくにAIRになってるし。

 というわけで。
 みなさまの歯に衣着せぬご意見、ご感想をお待ちしてます。
 でわでわ。


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